希望に生きる

人は幼い頃から、周りの期待の影響を少なからず受けているものです。例えば、それが親からの期待であったり先生からの期待、また周囲の関係する間での期待などもそうです。その期待に無意識に応えようとして、知らず知らずに本当の自分ではなく期待に近づこうとしている自分になってしまっていることも多い様に思います。

例えば、親の望む子どもの姿になるために本心ではない自分でも相手が喜んでくれるのならと装飾し演じているうちに自分がそういう子どもになっていくのです。これは相手を喜ばせるのではなく、自分が気に入ってもらったり相手に好かれるために期待に応えたいと思う感情です。これらの感情はごく自然なもので、好かれたいからこそ期待に応えるというのは好きだからこそ出てくるものです。本来、自分で選択してそれを行う場合は判断できるのですが無意識に期待に応えるのが自分だと思い込めば刷り込みを深くしているかもしれません。

今でも親から刷り込まれた自分を本当の自分だと思い込み、悩んでいる人がたくさんいます。親の夢が自分の夢だと勘違いしたり、先生の期待が自分がなりたい自分であったりと取違をしていくのです。自分との正対と内省により、本当に自分が望んでいるものが何かを確認することは刷り込まれた自我を取り払うことで実現しますがそれを自分だけで行うのは難しいものです。よく内観し自我を取り払う人や本質的な人の力をかりて自分の本心を知ることが効果があるように思います。

そして希望というものがあります。これは期待とは全く異なるものです。英語のTODOに対してTOBEでもあります。どうするかばかりを思うより、どうありたいかの方で生きることに似ています。しかしどうありたいかですら、自分の期待通りにすることだと勘違いしていることも多いのです。本来の希望は、自分の期待やどうありたいがあろうがなかろうが関係がなく初心や理念を信じるということです。期待は、相手次第、自我次第でいくらでも自分の思い通りに動かそうとします。しかし希望はそんなものでは一切なく、思い通りにならなくても大切な理念や初心の方を優先し信じている状態だということです。

希望に生きる人は、希望を失うことはありません。希望の反対は失望という言い方をする人もいますが希望の反対などなく希望はその人の生き方なのです。生き方を覚悟し定めた人は希望に溢れています。先日から紹介している三木清にも希望について書かれたものがあります。

「希望を持つことはやがて失望することである。だから失望の苦しみを味わいたくない者ははじめから希望を持たないのがよいと言われる。しかしながら、失われる希望というものは希望でなく、かえって期待というごときものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである。」

希望が期待にすり替わり、気が付くと自分の思い通りにしようとする。希望を失ったり絶望したりとあるのは、知らず知らずのうちに希望が期待になってしまっているのです。本来の理念や初心を優先できなければ生き方はいともたやすく無意識のうちに自我慾に取って代わられ入れ替わります。つまり人生は己に負けてしまえば期待になり、己に克てば希望になるのです。だからこそ己に克つ人はいつまでも希望を失うことがありません。最後の最期の瞬間でも実践を怠らないのです。それが信じるということです。

希望には未来があります。

それは希望が道を歩んでいる言葉であり、希望が志を顕す言葉であるからです。未来への希望とは、続いている道を諦めないということでもあります。希望に生きるとは、理念や初心に生きるということと同義です。子ども達のためにも、希望を歩む生き方を実践していきたいと思います。