緊急の常態化の怖さ

便利な社会の中で、今ではワンクリックでありとあらゆるものが手に入ります。また都会では何でも人間の思い通り、人間の都合通りになるように仕上がっています。24時間空いているお店、病院、タクシー、ありとあらゆるものがすべて整っています。都会に住むというのは、その便利な生活の中に入るということでもあります。

しかしこれをよく考えてみると、すべて緊急時の対応ができるということが便利さであるという事にも気づきます。わざわざ準備してなくても、日頃から備えがなくても、都会に住めばお金があればなんとかなるというものを便利だと定義しているのです。

本来は、お金があろうがなかろうが緊急時の対応ができないから日頃から備えをし準備をします。例えば、病院も近くにないから早めに診察にかかります。お店も早くに閉まりますからある程度必要なものはストックします。前もってちゃんと平常の方を大事に保つのです。しかし今は緊急の方があたりまえになっているので震災や災害、天災の時にまったく対応することができません。

いくら24時間対応のエレベーターですと謳われていても、都内の全部が停電したら対応できるはずがありません。ガス、水道、電気が止まることなど想定などしているはずがありません。それが緊急時が常態化しているという危険な状況なのです。

田舎では停電は当たり前、断水、ガスがこないなどよくあることです。そのために、もしもそうなったらということで日頃の備え、つまり平常時を油断なく準備しています。緊急時で乗り切れるのはたまたま運が善かっただけとし、緊急時を主をしておらず、あくまで平常が良くなかったと反省しすぐに改善をするのです。

それが自然の中で備わってきた智慧であり、人間の努力によって未然に災害を防ぐコツのように感じています。緊急時を当たり前にし、緊急の時にうまくいかなかったらクレームをつけてもっと緊急時に合わせようとさせる愚策、緊急でも何も気にすることがない生存本能の鈍さ、自然界では淘汰されるようなことを当たり前に行っているのです。

あの原発事故でいざあの事故が起きた時まったく政府も東電が緊急対応すらもできなかったことを思い出します。あの事態になって何かしてもどうしようもないのです。それが緊急が危険だということなのです。平常時に一体何をしていたのか、そして他の原発は今はどうなっているのか。緊急の対応すらできないものを平常などとあったものもありません。まだ緊急対応できるのなら平常の備えもできますが、現に対応できないことがわかったのならば平常を全部見直す必要があるのです。そのうちだれかが新しい技術を産み出して原発を管理してくれるだろうと問題を先送りしておいて、どうやって対応と対策を立てるのかと疑問に思います。

話を戻しますが緊急時になることを恥として、本来緊急時にならないように不測の事態に備えて平常を養うことが本来の人間に具わった生き残る力だと思います。一度緊急で乗り切ってうまくいったからとそれを基準にするのではなく、「備えあれば憂いなし」と平常の実践を確実に積み重ねたいと思います。

人間の傲慢さが目先の対応で済まそうとし、子孫へツケを遺すような生き方をしてしまいます。自分たちの生き様が、後輩をはじめ後人たちに受け継がれることを忘れないように実践していきたいと思います。