丸ごと信じる~聴くことの本質~

人には信心という実践があります。物事を信じる人は素直であり、物事の実相が観えているものですが疑い斜めに見る人は物事の実相が歪んでしまいます。この信じると疑うというのは、生き方のことでいつも物事の善い方を観てきっと善くなる、きっと善いことだと希望に生きる人とどうせ悪くなる、もしかすると悪くなるかもしれないと期待や我慾にのまれ煩悶とする人に分かれます。

本来、信じるという心は最初から人間には備わっていて後天的に疑う心が沁みついてくるように思います。そういう心が沁みつかないように素直な実践が必要であり、物事は自分の見方次第で素直にできるということを実感するしかありません。

私は信じるのがいい、疑うのがダメと言っているわけではありません。自分の囚われや執着を如何に手放し、物事を素直に受け取る力をつけるか。そして謙虚に物事は天が与えてくださった道だとし、授かりもの、教えてくださっているものだと感謝で受け取る力を持つかということに尽きるように思います。

私自身の志業は如何に刷り込みを取り払い、その人らしく生きられるか。子ども達の周りの大人たちが、如何に刷り込みを脱却しあるがまま、自然の姿に回帰できるかと四六時中研究し、それを具体的な方法に発明し弘めているのが本業とも言えます。見守ることも然り、一円観も然り、徳も然りです。

実際は素直になれと言っても人は簡単に素直になるわけではありません。信心が深い人は、人の話をよく聴き、自分が疑っていたのではないかと内省し反省をし改善できます。しかし疑いから物事に入る人は、人の話をちゃんと聴かず、自分の都合の良い方ばかりに解釈をして間違いを重ねていきます。この間違いとは、正しいか間違いかではなく、信じるか疑うかということです。自分から疑う人は、他力の存在も信じることが出来ません。

人が話を聴けなくなるのは、自分の我を入れるからです。我を入れて自分の都合で聞いていたらすでにそれは聴けていないということになります。自分の都合で仕分けている聞き方は素直とはかけ離れたものです。素直な人は、自ら積極的に主体的に自分から学ぼう、教えていただいている、何か大切な意味があると丸ごと信じるから聴けるのです。

つまり素直に聴くというのは、ひょっとしたら相手が教えてくださっているのかもしれない、自分が気づいていないかもしれない、自分が間違っているかもしれないという自分の我を抑える工夫が身に着いているのです。しかし我慾ばかりが優先され、疑心に塗れている人は我の執着から囚われや刷り込みが深くなるばかりでいつまでも聴くことができません。

その疑心や執着はその人が 「丸ごと信じる人か」ということに由ると思います。丸ごと信じる人は、まず疑わず丸ごと信じます。その一瞬の隙間には疑心が入る余地がなく、素直に「ハイ」とまず受け容れるのです。つまりは、話を受け容れるのに蓋をしたり栓を閉じたりしないということです。

先日、あるご縁で蓮如上人の言葉に出会いました。それは一休禅師との文のやり取りで、蓮如上人が返信したものですがこのやり取りにはとても味わい深いものがあり共感しました。私もよく自問自答する内容であり、次代を超えて同じように刷り込みを取り払おうと精進した人たちがいたことに本当に多くの励ましと勇気がいただけます。

まず一休禅師がこう言います。

「阿弥陀には まことの慈悲はなかりけり たのむ衆生 のみ助ける」         一休禅師

阿弥陀仏は本当の慈悲はない、頼んできたものは助けるが頼まないものは助けないではないかと言います。

これに対し蓮如上人は言います。

「阿弥陀には へだつる心なけれども 蓋ある水に 月は宿らじ」
蓮如上人

阿弥陀仏に分け隔てるような心はないけれど、蓋がある水には月が映らないのだと言います。

私にとってもこの蓋こそが刷り込みであると思っています。月は同じように万物を照らして世のためにと慈悲心を永遠に無限に休むことなく与えてくれていますが、蓋をしている人の心にはそれがうつらないということだけなのです。別に選んで取引しているのではなく助ける人と助けない人がいるわけでもなく、蓋があるから何もできないのです。その蓋を取り除こうと必死に色々なことを考えては、それを現場で伝え教えを弘め、一緒に変わっていこうと道を同行するのです。

一休禅師の問いもまた世を救いたいという義憤と一心から来ているものであるのを感じ、どうすれば皆の見方を転じて福にできるかを心から願いました。それに応える蓮如も同じように一生懸命に方法を考え工夫して、どうすれば一切衆生を導けるかと心身を盡しました。

このやり取りの中に、御互いの志を確認するものが観得、私はとても心から励まさ勇気をいただけます。世の中の蓋をどのように外せるか、世の中にある栓をどうやって開けられるか、今も願いはそこにしかありません。

子ども達の未来のためにも、しぶとく粘る疑心を超えて楽しく明るく和来に満ちた信心に導けるよう導きと御縁と天を頼りに道を精進していきたいと思います。