偏りは持ち味

私たちの会社で取り扱っている商品にミマモリングプラスというものがあります。これは気になる子と呼ばれる一般的には軽度発達障害という偏った子どもをどのように見守るかということで開発されたものです。

そもそも軽度発達障害というのは、アスペルガー症候群や高機能自閉症、ADHDなどアメリカで名づけられた障碍の一つです。アメリカではラーニング・ディスアビリティ(learning disability通称LD)と呼び、日本ではそれを学習障害(LD)といいます。このディスアビリティという言葉は海をわたって日本に来ると障害になります。海外では個性というのは当たりに尊重していますが、どこか私たち多くの日本人の一般常識の中には個性が受け容れてられておらず何か悪いことのような響きでイメージする人も多く、障害というとよくないから隠そうとさえします。

本来、私としてはディスアビリティとは単なる「偏り」のことでそれは一つの個性という認識です。障害は個性ですと言い直してみてもピンと来ていない人が多い様に思います。みんなと違うことは駄目で間違っているという刷り込みや思い込みが邪魔しているのかもしれません。それに障害は「害」の字が入っているからと今では障「碍」にしていますが言葉の響きが「ショウガイ」ではなく、個性の偏りとしそれは一つのその人の大切な「持ち味」と思っている人は少ないように思います。

皆と違うことがダメだという刷り込みで、みんな誰しもが自分が普通であるということを気にします。言い換えれば自分はフツウの人であるとし周りと同じであることをアピールします。先日もある人から「自分はもっともフツウであって周りが変だ」と言われましたが人間は何も偏りがない方がよっぽど変ですからそもそもおかしなことを言っていることに気づきます。この偏りというのは個性です。個性を排除するような一斉画一の金太郎飴のような育て方をされてきたから偏りもまた良くないことだと思い込んでいるのかもしれません。

昨日の遠山啓氏の言葉で、

「偏るのがなぜ悪いのでしょう。過去において「何か」をやった人はたいてい何かひとつの事で優れて偏った人です」

があります。そもそも偏るというのは、その力でお役に立ちたいと自分が選んで来たチカラのことです。人は赤ちゃんのときから、無限の力を持っています。それを周囲を見ながら何を削ろうか、何を残しておこうかと選択していきます。そして残してきた力を将来社會に出た時に役に立てようとします。それは社會の中で必要とされるために役割を持とうとするのが人の幸せだからです。

偏りがあるというのは、それだけ社会で御役に立ちたいと信じてその力を遺した人です。そういう力を発揮してもらってこそ人類の発展があり、そういうチカラによって私たちは進化成長してきたとも言えます。皆が個性を認めて持ち味だと認識すれば誰も偏ることは怖いことや悪いことではないと思えるようになります。

今のようにみんな同じものにしようというのはどこか大量生産大量消費の思想に似ている気がしてなりません。序列主義に置いても同じく、便利な機械のように同じロボットを増やしておいて誰かの利益のために役に立たせようとする便利主義も見え隠れします。

しかし実際に私たちの先祖や人類はどのように生きてきたかの歴史をみればすぐに持ち味を組み合わせ協力・協働してきたのが分かります。それぞれが異なる個性があるからこそ、それぞれにその時々にお役に立つことが出来る。ある人はそれを「皆働社會」とも呼びました、一つのムダもない社會のことです。ある特定の人間の基準でこれは役に立つや立たないという分別や差別で人を裁く社会ではなく、誰一人役に立たない人はいないという社會が本来は存在しているのです。後者の社会は、産まれてきているだけで幸福な自然の世界です。

偏りを悪いと思っている刷り込みは、保育の書類や様々な仕組みの中に随所に入り込んでいます。その刷り込みを一つ一つ取り払い、本来の姿に戻すことが出来るならその組織や社會も肯定に満ち、その場においてみんなが持ち味を活かす最幸の現場が出てきます。

引き続き、みんなが倖せになる職場や現場、子ども達が安心して愉しく豊かに過ごせる場をつくるため一つでも多くの園にミマモリングプラスの仕組みを広げていきたいと思います。