場の責任

昨日、新潟県にある「実家の茶の間」で理念研修をする御縁をいただきました。ここは代表者の河田桂子さんが自らの体験をもとに創造された場所です。見学してすぐに気付くのが、私たちの弘めている見守る保育と同様にそれぞれの人たちが自主的に自発的に参加をして場を創りあげていたことです。

それぞれに環境が用意された中で、一人ひとりが自らの考えで行動し活動する。また協力し助け合い、それぞれが学び合い愉しいときを共にする。一緒に生活している人たちのぬくもりが伝わってきました。つまりここではみんなが主役の居場所としてそれぞれが主体的に協力しているからこそ居心地が善い場が創造されています。

現在、世の中ではサービスを提供する側とサービスを提供される側に分かれています。そうなってしまうと、サービスを提供する方は一方的にサービスをし続けなければならないし、サービスを提供される方もただサービスを提供されるのを待たなければなりません。このように立場が分かれてしまえば、御互いに一緒に取り組むというよりは御互いに求め合う関係ばかりになってしまいます。これは組織の上下関係などもそうですが、立場を自分から分けて取り組んでいるから主体性が喪失していくのです。

本来、自らが主人公になり主役であるのなら立場が分かれるということはありません。一緒に同じ方向に向かって助け合い生きるのだからそれはまるで平等な関係です。不平等に上下で分かれるのではなく、役割分担があるだけです。

場というものがどういう時に生まれるかといえば、依存し合っている中では決して発生してこないと思っています。場は、それぞれが主体的につくり上げるものです。言い換えるのなら居心地が善い場を創るのは、その場にいる一人ひとりの自発的主体的な関わりによってはじめて醸成されるのです。

学校の中で刷り込まれて育つと、教えて貰う人と教える人が分かれています。教えてもらうことが当然になっているから、不平不満を先生にぶつけます。そして教える方も、教えることが当然になっているから生徒に不満を持つようになります。本来、学問は学び合いであり気づき合い磨き合いによって成り立つものです。一方的にどちらかが立場を分けてその立場でやってもらおうとするところに消極的で受け身な姿勢が沁みつくように思うのです。

本来、人は主人公であり誰もがこの世の中で生きていく責任を持っています。言い換えるのなら生涯現役で世のため人のために生きながら仕合わせを磨いて高めて豊かにしていく使命があります。それが御役に立てる歓びであり、人が人である理由でもあります。

現在は、すぐに誰かにやってもらおうとして誰かのせいするという刷り込みが沁みついてしまい自分でいることが出来なくなっている人がたくさん増えています。子ども達も同様に、主体性を発揮することができなくなると目の輝きが消え個性が失われていくものです。

一人ひとりの個性を尊重し、人間を平等にしていくことは自然体の人間に回帰していくことです。「場」を創る人、言い換えるのならその場でどのように生きているかで場は産まれますから場に対する責任をいつも持っていたいと改めて責任を感じました。

私たちは刷り込みを取り払うのが本業のようなものですから、ここでの学びを活かして如何にして「場」を工夫するかを発明していきたいと思います。子ども達と子どもたちに関わる人々すべてが分かれていないところで協働できる皆働社會を引き続き実践を通して創造していきたいと思います。