人間の仕合せ~仲間の存在~

人生には、何をするかという考え方と誰とやるかという考え方があります。これは旅も同じでどこへ行くかではなく誰と行くかというものがあります。面白い旅には、もちろん目指したい旅路の方向性というものがあります。みんながどこに行きたいかは理想としている世界があり、自分がもっとも味わいたい場所へ向かって歩みを進めていきます。

しかし時として人間は何か成功を手に入れて結果を出そうとするあまり、行き先ばかりを求めるあまり周りを省みず一人になり孤独になることもあります。誰といくかを思えば自ずから旅の優先順位がプロセスに変わり仲間の存在が何よりも大切であることに気づけるようになるのです。

一生懸命に頑張って手に入れることだけが人生の歓びではなく、現在、いただいている御縁を噛み締めて仲間の存在に気づくこと、その仲間と一緒に生きて暮らしていく歓びに気づくことが人生の醍醐味のように思います。

小林正観さんに「もうひとつの幸せ論」があります。ここには『「人生の目的」とはと書かれ「思い」を持たず、よき仲間からの「頼まれごと」をただやって、どんな問題が起こっても、すべてに感謝する(受け入れる)こと。「そ・わ・かの法則(掃除、笑い、感謝)」を生活の中で実践し、「ありがとう」を口に出して言い、逆に、「不平、不満、愚痴、泣き言、悪口、文句」を言わないこと。すると、すべての問題も出来事も、幸せに感じて「よき仲間に囲まれる(=天国度100パーセント)」ことになり、「喜ばれる存在」になる。……これこそが「人生の目的」であり「幸せの本質」なのです。』と紹介されます。

とても印象深く共感するのは、人生の目的の中に「よき仲間に囲まれることが最も大切である」と書かれていることです。そして人生の目的を具体的に仏陀と弟子との話でその意味が紹介されています。

『お釈迦さまの第一の尊者と言われた、アーナンダはあるときお釈迦さまにこう言ったそうです。

「お師匠さま、今日、私はあることで突然、頭の中に閃(ひらめ)きが生じました。私たちは《聖なる道》というのを追い求めているわけですが、もしかしたら、よき友を得るということは《聖なる道》の半ばを手に入れたと言っていいのではないでしょうか」

《聖なる道》というのは、自分の中に悩み、苦しみ、煩悩がなくて、いつも幸せで楽しくて執着がない状態ですね。

すると釈迦は「アーナンダよ、“良き友”を得られたら、その《聖なる道》の半ばを手に入れたということではない」と言ったんです。

釈迦は言葉を続けて「アーナンダよ、良き友を得ることは《聖なる道》の半ばではなく《聖なる道》のすべてを手に入れることである」。

同じ価値観をもち、同じ方向に向っている人たちを自分の友人にすることが、実は人生のすべてなんです。』(弘園社)

善き仲間に巡り会いその仲間と一緒に人生を歩んで往くということ。そのこと自体が聖なる道そのものであり、それが人生の幸せを手に入れたことなんだということ。

私も色々と半生を振り返ってみて、どこから歩みが変わったか、そしてなぜ歩みが変わってきたのか、今の自分の選択があったのかを鑑みればこの「仲間に巡り会う」ことが全てであったと思えます。決して人々が願っているような成功や最初に思ったような成功は手に入らず、その通りの結果も手に入りませんでしたが、御蔭様で今が豊かであること、そしてよき友を得ることができたことの仕合わせに何よりも有難い思いがします。

仲が良いというのは、仲間が良いということです。この仲間が良いから仲が良くなるのであり、この人と人の中にあってその人たちが一緒に和気藹々と日々に暮らしていくことが何よりも居心地がよくそこには必ず人生の幸せがあります。つまり人間の仕合せとはこの「仲間に巡り会うかどうかが全て」であると感じるのです。

どこへ行くかではなく、誰といくか、もしも人生を2分割して折り返し地点を過ぎたならば頑張るのをやめて降りていく生き方をしてみるといいかもしれません。今の時代は競争や比較の刷り込みで、頑張り過ぎて苦しんでいる人たちがたくさんいます。頑張るのをやめて周りを大切に仲間と暮らしていくのならそこには今までに観えなかった幸せがあります。きっとないものねだりではなく、あるものの尊さに気づいてその刷り込みが取り払われ仲間が次第に集まってくると私は思います。

人間の道を示した仏陀の生き様に安心感を覚えます。そしてそのように生きた小林正観さんのメッセージが有難いと感じます。引き続き、子ども達に遺せる生き方を自らの道の実践で精進していきたいと思います。