転換時期

明治維新から長らく日本の体制というのは変わっているようで実はほとんど変わっていないように思います。人口が増加し成長していくという経済構造は、これから人口減少で縮退していくという時代の変化に対応していく必要があります。

色々な政策をみてはどこか自分には大きすぎてイメージがわかないように感じられますが、簡単に言えば地方の小さな村々で起きていることが今の日本に起きているということを考えればわかります。高齢化で過疎化、人口が減りそこに政治や経済がまったく行き届かないということ。子ども達がおらず、多少生まれてもどこか違う場所へそのうち引っ越してしまう。お年寄りは老人ホームか都市に引っ越し、次第に空き家も増えてそのうち誰もいない廃墟のような村になってしまうという構図です。そしてその村々を捨ててコンパクトシティ化といって都市の一か所に集めようという動きが進んでいます。

これはどこか遠くで起きている事例ではなく、今の日本の国のあちこちで起きていることです。大なり小なりどんな場所でもこのような姿は次々に発生し進行しています。もう前から分かっていることでしたが、これが日本の未来に抱える今の課題ということです。

なぜこのようになるのか、それは今まで信じられてきた右肩上がりの成長信仰、グローバリゼーションによる消費拡大のロジック、スクラップアンドビルドによるハコもの投資がもはや通用しなくなっていることの証明なのでしょう。

日々に追われるばかり、また自分のことで余裕がない人ばかりになっていて全体構造を根本的に変えるような一人ひとりの実践が追い付いていないように思います。

日本の未来はすぐに子ども達の現実になります。古い体質や旧態依然の態度のまま何も変化していなければ必ず行き詰ります。これは人の成長と同じで、よくないとわかっているのにいつまでも以前のままの習慣を続けていればそのうちにそこから綻び破たんしてきます。

一人の人間の改革は一国の国の改革と同じです。

大きなものを身近な小さなものに換えてみると、そのものの本質が分かるのです。如何に国を形成するのは一人ひとりの当事者意識と自覚、己に克つことが影響するのかが分かります。

かつて二宮尊徳が、村々を復興させていくのに際しそれを「心田開発」と名付けました。「わが道は、人々の心の荒蕪を開くを本意とす、心の荒蕪一人開くる時は、土地の荒蕪は何万町歩あるも憂ふるにたらざるが故なり」といいました。

どんなに村が荒廃していても、一人の人間の心の姿を換えてしまえればどれだけ大きな村々の復興であってもまったく心配する必要がなくなると言いました。では二宮尊徳はどの刷り込みを取り払って何に心を開かせたのかということです。

これは今の時代でも通用する普遍的な知恵であることに気づきます。

あの時代も同じように人々が行詰る何かの刷り込みをみんなが持っていました。自前で物事を解決せず、藩政に文句をいい、自分がやらない言い訳ばかりを募らせ、自分のことしか考えないで誰か任せにし誰もなにもしようとしませんでした。

そこに二宮尊徳が本来の姿が何かに気づかせ、一緒に実践していくことで村を復興させていったのです。一人の人間が、その時代に与えた影響は大きく子孫たちはどのように今の時代を復興させていけばいいかをその時の歴史の真実の事例に学ぶのです。

もちろん過去と未来では現象は異なります、今のように近代化して西洋文明が入り複雑であった時代とは異なります。しかしよくよく共通するところを観ていたら普遍的な人間の問題も観得てくるものです。それは時代を経てもまったく関係なく、同じことが人々の心の中に発生していることに気づくのです。

一人の実践と一人の改革は、国の改革を担っています。

子どもたちのために、自分自身ができることをそれぞれで他人任せにせず自分の立っている処から何を実践していくのか一人ひとりが取り組んでいく必要があるように思います。誰かの政策は魔法のように何かを解決していくものではありません、世の中が変わって価値観も変化していく中、かつての栄耀栄華をいつまでも忘れないままで愚痴をいってもいつまでも同じことの繰り返しになってしまいます。

価値観が変わるときは、常に発想の転換も必要です。今、まさに時代は転換時期に入っています。そして私達は子ども第一義の理念を掲げて実践をする会社です。引き続き、子ども第一義の理念に沿って温故知新に取り組み足元から新たな実践を増やしていきたいと思います。

 

愛着形成~故郷の存在~

今、古民家再生を通して郷里故郷のことを学んでいます。

故郷というものは、自分を形成した場所であり、自分の原点がある場所です。故郷にある懐かしさとは、先祖たちが子ども達のためにと遺してくださった深い愛情を私たちは心で感じているのです。

この愛情を受けて私たちは健全に育ちます。これを愛着ともいいますが、自分を形成する際に必要不可欠なものです。この愛着はどのようにつくのか、それは好きになっていくことでついていきます。つまり、好きこそものの上手なれという諺もありますが好きになるから自然に愛が発生し、その愛を纏うことで愛着ができるのです。

そして愛着を持てるようになるには、好きであろうとする努力と同じことが必要です。相手の美点をみることや、相手の持ち味を探すこと、相手が偉大な存在であることに気づくこと、尊重することで次第に好きは高まっていきます。

尊敬することも尊重することも全部丸ごと含めて「好き」の中には入っているとも言えます。古民家再生は、まちの景観維持でもあり、まちの暮らしの継承でもあり、まちの人々の心の伝承でもあり、まちの美しい豊かな自然を遺すことでもあります。近代化で壊れてしまった様々な歴史や文化、先祖の遺徳を丁寧に直し修復修繕していく中で次第に故郷への誇りと自信、愛を学びます。

故郷の再生は何か新しいことをやるように感じますが実際は会社を善くしていくこととまったく同じです。社員が会社を好きになれば当然会社は良くなっていきます。社員に好きになってもらう努力は経営者の最大の責任です。それに社員も一緒に一体になって会社を好きになることで御互いのことを好きになり誇りと自信を持ちます。会社もまた自己を形成した大切な思い出のワンシーンであり暮らしと切り離すことはできないのです。

だからこそ故郷が愛の原点であり、愛着形成は人々の故郷そのものなのです。

そう考えてみると一つ一つの思い出をどのような環境で自分が見守られてきたか、それを省みるとそこに偉大な愛が潜んでいるように私には感じます。見守るということの実践は、好きになること好きになってくれるようにここが相互主体的に努力することからはじまるのかもしれません。

引き続き、子ども第一義の理念にそって子どもに譲っていきたい生き方と働き方を実践によって深めていきたいと思います。

場とは何か1

古民家を再生していく中で「場」について考える機会が増えています。古来より「場」というものにはチカラがあります。その場を活かして人々は神事を行い、暮らしを実現させてきました。この「場」とは何か、これから少しずつ「場」について深めていきたいと思います。

例えば、山野に行き清らかな川のせせらぎの澄んだ空気の中で休んでいるとします。その時、私たちの心は清浄な気持ちになってきます。この時、自然が私たちに働きかけるものと私たちが自然を感得していく相互作用があります。つまりその時、そこには確かな「場」が存在しているということに気づきます。

この「場」は御互いの主体的な影響力によって高められます。これはもともと其処にあったものに自分が近づいていったのか、もしくは自分の心が感応してそれを創りだしていくのか、それはお互いの結びつきや繋がりに由って変化していくものです。

さらに例えるのなら、庭をつくるときその庭に対して自分がどのように関わるか、どのように美しく育てていくかと接していけばその庭は次第に変化していきます。そして庭が変化するとき、その庭には「場」が創出されます。そこには美しく育てていく仲間が集まり、一緒に育ち合い成長をし続けて「場」のチカラを発しています。

私たちは何もなかったところに「場」を産み出します。そしてその「場」が私たちに関わり始めます。つまり環境というものは、場の働きのことであり、場が働くということは人間と環境の相互作用によって発生しているのです。この相互作用は共に働き次第に相乗効果を産み出します。

この相乗効果こそ自然界のバランスのことであり、調和はこの場の働きによって行われているのが自然なのです。自然というものを感じるとき、自然は場によって創造される調和であることに気づきます。

自然農の実践において感じるのも、自然の様々ないのちが複雑に絡み合ってその土地の風土の中で私を含め一緒一体に暮らしていく中でその人を含めた自然の田畑が出来上がっていきます。ここには人と風土の一体感の中で発生した「場」ができたのであり、自然の働きと人の働き、その相互作用によって安心安全な作物ができ、風土の他力が働き相乗効果の「場」のチカラが発揮され続けます。言い換えるのなら、生き活かされる共生の場ができるということです。

人類が今、課題になっている協働や協力、共生や自立といった社会問題のすべての課題はこの「場」のチカラによって再生も回復もできるように思います。

子ども達にどのような「場」を譲っていくか、そして私たちがどのように「場」から学び直しをしていくか、見守られてきた過去の自然や歴史を省みながら温故知新していきたいと思います。

好循環の実践

古語に「勝ちに不思議な勝ちあり 負けに不思議な負けなし」があります。この言葉は江戸時代の大名で剣術の達人でもあった松浦静山の剣術書『常静子剣談』で出てくる言葉です。

これを紐解けば「道にしたがい、道をまもれば、勇ましさがなくても必ず勝ち、道にそむけば必ず負ける」と記されています。

この考え方は、百戦錬磨の場数を踏んだ実力のある人が持つ境地のことでありこの時の不思議な勝ちとは何かということです。この不思議というものを少し深めて見たいと思います。

不思議というのは私にとっては他力のことです。自分以外のチカラが働きそのチカラによって物事が動いていくということです。自分は何もしていないのに、自分の思っている以上のことが起きて結果的に勝ってしまう。まさに運の善さというか、好運をいつも持っている人は不思議なチカラでいつも幸福に恵まれていきます。また逆に何をやっても不運である人がいます、自分の力を頼り自分の力のみを信じてやっていてもいつも邪魔が入り負けてしまいます。この理由は何か、それはチカラというものの理解に由ると私は思います。

もともとチカラとは何か、それは自分が引き寄せるチカラのことです。それを王道や自然の道といってもいいかもしれません。どんなに自分が頑張ってチカラを入れていても、それが自然の流れとさかさまであれば動かすのは至難の業です。しかし、もしも自然の流れに従って重力や引力を活用し上から下へとチカラを活かせばほとんど自分の力を使わなくて頑張らなくても少しの工夫で自然に重たいものは動かせます。

このようにもともとあるチカラを用いることは自分の力ではなく、「御蔭様のチカラ」を活かそうとする考え方です。これを道ともいってもいいかもしれません、自然のチカラを使えるようになるには他力が観える必要があります。

例えば運の善い人がいます、まずそれは物事が動くのは自分のチカラだと慢心していない謙虚な人のことです。なぜ謙虚な人が運が善いのか、それは周りの御蔭様に気づいて感謝しているからです。周りが動いてくださっているからと周りが動いてもらえることに素直に感謝する心が他力を活かすことをその人に感得させます。その他力のチカラが観える人は、自分が何をすれば周りがもっと動くのかを知っています。これは自然に精通しているといっていいかもしれません、こういう無我の境地を持つ人はいつも真心を活かして真心を盡すことが出来るのです。

古語に「積善の家に余慶あり」という諺もあります。善いことを積み重ねていく人はいつもなぜか不思議なチカラが入り好運が起き続けていくということです。これこそまさに不思議の価値を知り、その不思議がいつまでも続くように謙虚に好循環の実践を日々家人たちが積みかさねているのでしょう。

また負けに不思議の負けなしというのは、全部自分に何らかの問題があるということです。負ける人は自分には非がない、自分のせいではないと、いつも自分の言い訳をします。また自分が言い訳をするのは自分がやっていると勘違いしているからです。御蔭様が観えない人には、自分がさせていただいているとは露ほども思わず自分がやっているから上手くいっているという勘違いをしてしまいます。自分がやっているのは、あくまで御蔭様の他力を引き出す努力であって自分がやっていることはないのです。人の道は、謙虚さや素直さ、また感謝の心でいることで道に従い道にそむかないことになることを言うのでしょう。

好循環の実践を行うことで確かな勝ちを積み重ねていくことこそ古今一流の流儀だと思います。世界でも通じる本物の実力者とはみんなこの共通の境地を会得しているように思います。

子どものためにも、どんなときにも好循環の実践を繰り返し積み重ね余慶を愉しみ真心を盡していきたいと思います。

場創り

人は思想を持ち、実践を積み重ねていくことで「場」というものが創造されていきます。この場というものは、そこで生きている人たちが思いを大切にし行動した集積によって文化が醸成されていくものです。そしてその場には目には観えない確かな「息づかい」や「佇まい」といったものが顕現してきます。

「場」というものはもっとも長い年月人々が教えずに学んできた人類最高の智慧の仕組みといってもいいかもしれません。

その場が出来上がるまでは、何回も何回も季節の廻りの中でその時々に思いを抱いて手入れを怠らず実践を積み重ねて文化にまで昇華していきます。この文化というものは頭で知識として知ったから分かるようなものでは一切なく、その場で共に学び一緒に暮らし、互いに自他一体の境地をもって初めて感得できるある種の境地のように思います。

今の時代は、知識一辺倒でこういう「場」のことを考えることがありません。本来、「場」こそが教育の本質であり原点ですがその場のことは思わず場違いなことばかりをしています。たとえば歴史を学ぶのにその場にいかず卓上でだけ教えることや、生活を学ぶのに実践することなしに映像でだけで伝えたります。特別に何かをじっくりと体験をさせるのではなく、上っ面の表面だけをなぞるように見た目だけを教えたりします。

こんなものでは文化の継承などは行われるはずもなく、子ども達が自国の歴史や文化について関心を持てるはずもありません。世界では自分たちのルーツ、つまりはどのような経過でここまで道を歩んできたかといったプロセスを子ども達に「場」を用いて伝承します。そうすることで、その国の長い年月で淘汰してきた暮らしの智慧を伝承し、未来の子ども達へその気候風土で生きてきた自然の叡智を引き継ぐことが出来ます。

知恵というものはすべからく先人たちが自らの体験をもって試行錯誤して得て来た貴重な財産です。その財産を「場」によって伝えようとしたのが私たちの先祖だったのでしょう。

しかしその「場」を今はいともたやすく破壊してしまっています。海外からも日本人はいにしえの伝統的建築物や、それまでの文化をまったく大切にしていないと非難されています。古いものが価値がなくなんでも新しいものばかりが価値があると信じ込まされているようにも思います。今を生きる世代がその本来の場の価値に気づかなくなったのはこの「場」による教育が失われたからではないかと私は思います。

人は詰め込み教育ばかりして暗記して知識をいれてテクニックばかり教えても先人の智慧を体得するわけではありません。先人たちの生きた息遣いを感じる「場」に自分の心身を運び、何度も場数を踏んでは先人たちの智慧を学ぶ。学問の大道は全てにおいて暮らしを「温故知新」することで成立すると私は思います。

引き続き子ども達のためにも、「場」づくりを怠らず、「歩歩是道場」だと真摯にこの居場を実践で文化の息遣いを譲っていくことこそが先人の知恵と真心を受け継ぎ守ることだと常に回訓し、「場」を見守り育てていきたいと思います。

 

 

文化と伝承~教育の刷り込み~

教育とは何かと考えるとき、人は単に知識を教えることだけが教育ではないことは誰でも認識していることと思います。なぜなら知識で教えられることと知識では教えられないことが存在することを知っているからです。

例えば、生物というものには本能というものがあります。生まれながらにしてどのように生きていけばいいかというのを生物たちは自明します。生まれた生き物たちは周りに同じ種類の生物がいなくても食べて寝て、自分の特性に気づいて自ずからその特性を伸ばしていきます。

これは人間や動物に限らず、植物昆虫をはじめ様々な生物は自ずから自分がどのように生きていけばいいかを己の中から自明しているのです。自然科学が解明されればされるほど、遺伝子や本能、先祖から時代を経て淘汰されて残った智慧を母親から受けとっていることが分かってきます。

古来よりこのことを「伝承」と人々は呼びます。

この伝承というものは、言い換えるのなら「文化」とも言います。文化は一朝一夕で出来上がるものではなく、その環境の変化の中で本当に大切なものだけを残し、他は省き温故知新して今の時代まで受け継がれてきたものです。今を生き残っているということは、それを永い時間をかけて先祖たちが命を懸けて体験し子孫へと受け継いできたのです。

こういうものが本来の教育の本質であると定義するとき、「場」というものが如何に教育に密接につながっているのかに気づき直すと思います。今は世界ではティーチングではなく、ファシリテートという言い方をして教育改革が行われていると言います。

私からすれば本来の教育の定義が変わることなしに、その価値観も変わることはないのではないかと思います。教えられないものを教えていくものが本来の教育であると、如何に刷り込みを取り払った人たちが増えていくか、そこがまず大切な議論の元になると思います。

見守るということもまた、今の自分がどのように育ってきたのかを自分に内省して紐解いていけば次第に気づくように思います。

まず何かをする前に、常にゼロベースであるか、本質は何か、何のためにするのかと考えることで刷り込みは次第に取り払われていきます。そして取り払われた刷り込みを文化レベルで原点回帰する必要があります。しかしその原点回帰は、今の時代に通用する温故知新した習慣を刷り込みのない人が新たに開発しそれを広め実践していかなければなりません。

例えば「場」一つで考えても、明治以降の日本の場と、明治以前の場ではあきらかに環境は激変しています。日本建築が西洋建築に変わったように、それまでの家が持っていた文化の伝承は途絶えてしまっています。

途絶えた文化を早めに復活させ、もう一度元に戻すという作業は早ければ早いほど修正がきくと思います。遺伝子や本能に遺る、それまでの自分たちの先祖たちが生きてきた生き様や知恵を如何に子ども達に伝承するか、本来の子ども第一義の理念にそって取り組んでいきたいと思います。

便利と不便

人は一人で生きていけば分からないことも、二人以上で生きていけば分かることが増えていきます。誰かと一緒に生きるというのは、それだけ御互いの中に思いやりを学びます。この思いやりを感じることができれば人は豊かさの本質を学びます。

便利な世の中というものは、一人で何でもできる世の中を目指していきますがそれでは相乗効果という自然の豊かさに気づくことはありません。

不便であればあるほどに人は不便の中にある大切なものに気づき直すものです。人間関係の中にある不便とは御互いを思いやり配慮するから不便であって、自分勝手に何でもできるから便利であるという事と対照的なものです。

たとえ自分が不便だからとお金を払って不便を他人に押し付けて目に見えないようにして隠していても必ずどこかで誰かに多大な迷惑をかけています。だからこそ不便を楽しむといった境地を体得することで昔の人たちはその不便の中にある豊かさを感じていたのでしょう。

例えば不便の中にある豊かさといえば、囲炉裏であれば火を熾しゆったりと鉄瓶で御湯を沸かし、一杯のお茶をのむのは大変な時間も手間もかかります。今は瞬間湯沸かし器でスイッチ一つですぐにお湯が沸きますからそれに比べればとても不便です。しかしその不便さを通してその中でゆったり内省したり、火を囲んで周りの人たちと談笑したり、火を見て心を穏かに落ち着いたり、暮らしの道具に囲まれてつながりや手作りのいのちを味わったりと実に豊かな物語が増えていきます。

これは誰かと一緒に生きていくのも同じです。

自分の思い通りにしたいからと一人で生きていこうとすることもできますが、誰かと一緒に生きていけばもちろん感情のストレスがかかってきます。思い通りにいかないときにメンドクサイと感じるのでしょうが、だからといっていつも一人で仕事をしたり一人でやっていたら便利ですがその中にある豊かさはなくなってくるように思います。

一緒にやる中にある感情は確かに辛く苦しいこともあります。時間を守らないとか、情報共有してくれなかったとか、裏切られた気持ちになったとか、自分を大事にしてくれていないとか、感情が沢山湧き起ってくるものでしょう。しかしその一緒にやることを通して人は様々な物語を味わっていくことができます。嬉しさ、悲しさ、喜び、出会いと別れ、そして愛、真心などその人間関係の中に人の仕合わせと豊かさがあることに気づき不便ですがそれが実に豊かな物語だと思えるのです。

先ほどの囲炉裏の話では、ただ湯を沸かせばいい、ただ火をつければいいのではないのです。そのプロセスの中にこそ、真の豊かさがあり、真の情緒があります。また自然界の持つバランスは相乗効果ですから、様々な御縁が折り重なって結ばれ新しい出会いや感動が生まれてより豊かさが増していきます。人間が一緒に生きることが出来れば人ははじめて自分に自信を持てます、それは御互いに存在を分け合えるからです。確かに成功だけを求めたり結果だけ求めて何でもできる人になるのは便利なことです。すぐに利用価値があり、すぐに効果がある方がいいと思い込みますがそれは使い手にとってそうであるだけで本人にとっての豊かさとはまた別物です。

便利な世の中になればなるほど、不便を楽しむという実践が必要は思います。このような物質経済に溢れる時代だからこそ便利か不便かではなく、豊かさとは何かということを自問自答していくことこそこれからの人間の健やかで素直な生長には欠かせないと思います。

だから敢えて私たちは一緒にやるのです。

引き続き、人類のためにも子どもたちのためにも「一緒にやる」ことの豊かさを子ども達に継承していけるように様々な感情と向き合いながらその中にある物語を味わっていきたいと思います。

京町家の心構え

昨日、1700年創業で12代薬業を商ってきた京都府下京区の伝統的商家の京町家泰家を見学するご縁をいただきました。ここ泰家は幕末の大火で焼失後明治2年に建てられた京町家です。

建物は築140年ほどになりますが、代々家に続いている暮らしや文化、その生活の本質は今もなお継続されその佇まいから家の息づかいを感じました。現在、郷里の町家再生に手掛けていますが家が喜ぶ使い方とは何か、家主としてどうあるべきかなど、子ども達のためにどのようなことを遺せばいいか、その他、秦様より体験からの示唆深い気づきを教えていただきました。御縁に深く感謝しております。

昔から日本には「場」や「間」、「和」という考え方があります。例えば「場」というのものには場力というものがあります。現在ではパワースポットとか言われ、ブームになって旅行するときの目玉になったりしていますが本来は「場」は日本人にとってなくてはならない大切な感性の一つでした。

自然界の中でも、土地にはその土地に場のチカラがあります。その土地のチカラを観えるようにして神社が建っています。また人が集まるところにも場ができます。この時の場は、人物によって場が醸成されます。松下村塾の吉田松陰なども同じく場を創造したとも言えます。

昔から私たちは暮らしの息遣いを通してその場を発酵させてきたとも言えます。私が郷里で行う高菜漬けについても、その自然農の田畑をはじめ漬物の発酵場、一年のめぐりなどを通してそこには確かに暮らしが誕生し「場」が創造されるのです。

この「場」のチカラというのは、自然のチカラの一つであり人間が本能的に持っている大切な能力の一つでもあります。今の時代はこの「場」というものをあまり活用せず知識や頭でっかちになり場を壊していることにも気づかないように思います。

例えば、無機質の狭い会議室の中で蛍光灯が明々としている中で語り合うのと、神社仏閣のような美しい境内で穏かな風や光、鳥の声や水の音、植物たちや木々に囲まれる中で語り合うのとではその「場」のチカラによって語り合いはまったく異なるものになります。

私たちは心を原点回帰するとき、もしくは平常心というものを取り戻す時、「場」によって活かされて心を研ぎ澄まして洗い清めていくのです。家というものは、家主がいてその家主の生き方や暮らし方、その日々の心の様相が永い年月で醸成され息遣いの中に残存して「場」が生まれるのです。

京町家といっても、今では外国人たちの間で町家泊がブームになり不動産をはじめ外国人の資産家がリフォームをして貸し出したり、ちょっと古く質の高い町家があれば飛ぶように売り買いされているとも言います。暮らしの息遣いの方には一切目もくれず、日本風の建物に泊まって雰囲気を味わってもらうことで旅行の目玉にしています。

観光の本来の意味はそのものの持つ徳性を発見しその徳性によって己を磨くことを言います。家には主がいますから、その主とその家人たちの暮らす「場」を実感し、その一家が持つ佇まいや息遣いを感じることが本来の家の学び方だと私は感じます。

私たちの会社も一家にして4年目になりますが、その家の人たちの生き方や日々の実践、家風とも言える家人の風格が次第に家を形成していくのを感じます。初代の当主が何を大切にして代々に初心や家訓を文化として継承してきたか、それをどれだけ永い年月をかけてその後受け継いだ人たちが大切に守り継承してきたか、その目には観えない永い時間のシステムの中に本当の真価が遺っているのです。そしてこの日本人の生き方こそが真の財産であり、国の宝です。

泰家のような国の宝に気づける国民性を育てることが、国を存続させることだと私は感じました。子ども達にとってこの古民家は、家が見守ることを伝承するものであり、家の中の暮らしが日本人としての原点を伝授してくれるものです。家は教師そのものなのです。家と教育は決して切り離すことはできないのです。

今回の訪問で子ども第一義における古民家再生の意義を改めて感じ直し身が引き締まる思いがしました。引き続き、何度も深めながら改めて家にある暮らしの息遣いから生き方を教えていただき、町家の原点、町人そして商人の心構えとは何かを学び直していきたいと思います。

本当にありがとうございました、今後ともよろしくお願いします。

日本人の原点

町家再生を深めている時、町家大工棟梁の「京 町家づくり千年の知恵」山本茂著(祥伝社)という本に出合う機会がありました。その著書の中で京都の枳穀荘という旅籠が紹介されていました。

今回、その枳穀荘に御縁をいただき宿泊しお話をお伺いすることができました。千年の知恵とは何か、改めて日本人の原点について考えました。それを少し整理してみたいと思います。

そもそも日本人というものはこの自然風土に融け込み自然と一体になって暮らしてきた民族のことです。自然は悠久の年月でじっくりと循環していく存在ですから、その偉大な循環に沿ってその中で自分たちも一緒に暮らしを育んできました。もしもその自然の循環に逆らって生きていたら千年持つということは考えられないと思います。

昨日、枳穀荘の当代から日本建築のことをお聴きしました。その時、日本建築の素晴らしさを教えていただきました。日本建築とは、日本の気候風土に合わせて建てられたものです。町家は、通り庭、おくどさん、季節のめぐりに沿って建具を変えて風を通し水を活かします。木は、夏の湿気で膨張し冬の乾燥で縮小する、このように呼吸しながら今も生きていると言います。

京町家を視察し、様々な暮らしを体験していると千年生きる人たちが如何に「自然と調和」しているかに気づきます。美しい暮らしの中には、千年が今も息づいています。その千年に映る自然は、謙虚に自然の廻りに沿って町を形成し町を活かした町家の姿があります。

町家の中の調和は、千年の仕組みで満ち溢れていました。木、土、石、そして水、風、光、その調和は美事なほどで、お祭りを中心に風土に沿った年中行事を実践する。そこに代々受け継がれている人々の文化を感じると、流れている歴史、悠久の循環を感じます。風土の中にいにしえから今まで続いているものを自然との調和、美しい暮らしを同時に思います。それをふたたび「千年」という尺度で観直すとき、日本人の原点を感じ取るのです。

今回、私が最も感じた千年の知恵とは自然に逆らわない千年の都の中にある自然との調和、美しい暮らしのことです。

今の時代は便利か不便かで判断をし、そのどちらかに偏っているように思います。しかしそのモノサシで行動するのではなく、これは千年持つのかという千年のモノサシを持つことで常に自然との調和が働くように思います。

本来、私たち人間も自然物の一つであり日本の先人たちは自然と調和することを何よりも重んじてきた民族だったからこそ、その暮らしぶりもまた自然と調和していることを優先して生きて来たということです。まさに先祖たちの継続の偉大さはこの一点に尽きると私は感じます。

これからの時代、膨張から縮退へと時代は刻みます。少子高齢化はますます進み、経済の姿は一変することでしょう。その際に必ず日本人は原点回帰を迫られてくると私は思います。

本来の日本人が何を大切にしてきたかを学び直し、それを正しく実践することが、子ども達の未来に今の世代の私たちが責任を果たすことになります。引き続き、町家再生を通して日本人の原点を磨いていきたいと思います。

 

日々新たな感性

人間の感覚と言うのは、集中力を発揮するときに活かされるものです。今まで気にしなかったものが突然目に入ってきたり、今まで感じることがなかったことが突然感じられたりするのは五感が活用されているからでもあります。

例えば一つのことに集中していると、それに関する物事や出来事ばかりが繋がっていきます。同じ景色であったとしても、その人の観念によって見える景観が変わっていくのです。これはその時々の感性や心の様相でも変化していきますがその観える世界がどのようになっているのかを自らで確認していくことで自分自身を知るキッカケにもなるものです。

しかしこの集中は時として強い思い込みにもなったりします。もしも自分見た世界でのみ世界を視れば、その世界しか存在しないようにしてしまいます。それを価値観の窓ともいいいますが、自分自身の価値観でのみ物事を観ていたらその価値観だけを正しいと信じ込み真実や現実がたとえ事実と違っていても思い込んでしまうものです。

一度その価値観に囚われればその中でいくら考えてみても、自分の価値観を抜け出すことはありません。そうなってしまいと思い込んでいることが強すぎて誰の話も聴こうとはせず、何のアドバイスも受け容れることができなくなります。これを固定概念とも言い、自分がきっとこうだと思い込めば思い込むほどその思い込みの世界が実現するように五感が働いていくのです。例えば疑い出せばキリがないように、いくらでも自分の思い込みで見える世界を変換してしまうのです。

このように人間の五感も使い方次第で、善きにも悪しきにも使い分けることができるものです。しかしまずその五感を磨ぎ澄ますことが大切なことのように私は思います。五感を磨ぎ澄ますというのは、「思い込まないこと、先入観を持たないこと、自分の価値観に固執しない」ことです。

これを融通無碍ともいいますが、言い換えれば素直な心を持つということです。

素直な心があれば、こういう見方もあるんやなと思ったり、それも一理あると感じたり、間違っているのは自分かもしれない、非があるのは自分の方にもあったと素直に反省して自分の価値観を柔軟にして円熟させていくことができるからです。

人が生長するというのは五感を使って新しい世界を変革していくことだとも言えます。時代がどんなに変わってきても、それに応じて自分自身を変化させていくという柔軟性。この中にこそ、進化成長、温故知新の人間の自然の姿があるように思います。

五感を使わないで頭でっかちになんでも知識のみで補おうとする中に、心の用い方の訓練や感性の磨き方の必要があるように思います。本能が減退しないように、常に物事をゼロベースにしていくこと、常に本質は何かと深める工夫がその人をその人らしくしていくように思います。

子ども達のためにも、日々の変化を味わい愉しみながら日々新たに感性を磨いていきたいと思います。