不便の価値と人間の文化

先日から便利・不便について書いていますがそのことを少し深めてみたいと思います。

人は便利と不便を使い分けるとき、自分の感覚を用いないのか、用いるのかということで使い分けているように思います。例えば、鉛筆削りなどもそうですが今では電動であっという間に削れますが昔はナイフで自分の手で削っていました。ライターが普及すればマッチで火をつけるということもなくなりました。

他にも大きなことでは天気予報や災害情報なども今ではスマートフォンのアプリで勝手に知らせますが昔は自分の五感や感覚で天候や自然の状況を察知していました。今では自分の感覚を用いないことを便利といい、自分の感覚を用いることを不便と言います。

そのうち自分の感覚が失われていき、本質的に不便になっていきますが実際の便利と不便の定義もあべこべになっているように思います。動物たちにとっては自然界で生きるのに、自分の感覚を使うほど便利なことはありません。人間はすでに自然から離れ、都市化され加工したところに住んでいるとすべて自分の感覚よりもデータや道具の力でやった方が便利だと信じ込んでいます。都会の人が田舎にいったら途端に何もできなくなるような感覚があればその意味に気づけるようにも思います。

もちろん別に原始返りすればいいと言っているわけでもなく、動物の時のように戻れというわけではありません。大事なセンスや能力、五感はそのままに磨き続けて現代の技術を用いることが本来の人間の持ち味ではないかと私は思います。そういう意味で今の時代のような便利を追求するということは、自分の感覚を怠けさせるのではないかと思うのです。そして自分の五感や感じるチカラが減退するということは、それを生物でみれば本来の進化とは呼びません。今は急速に人の持っている感覚が消失しているのも、便利な道具に流され依存し自分の感覚を使わなくてもよくなったからのように思います。

結局は一つの価値観によって画一化されて単一化された道具で、誰でも簡単に自分の感覚を使わずに便利さや自由の中に埋没してしまうとより一層個性が失われていくということでしょう。これは自立と依存の関係がとくに現れていることであり、生きるために自立するのが大変だから依存していたいと怠けてしまうのです。

このような環境下で自分の感覚を使うというのは、常に決心と決断、その自立への覚悟が問われています。主体性が失われてしまうから便利な道具に流されてしまうのです。主体性を持っている人は便利な世の中であっても、敢えて不便の中に身を置き、敢えて不自由を遊び愉しんでみるという実践を必ず持っています。不自由と不便を使いこなしているからその人の人生は常に発見と発明、創意工夫、活気に満ち溢れるのです。

つまり便利さに流されるのは本人の自立の問題だということです。そして自立は自分の感覚を使う人のことをいいます。

今は世界中で単一画一が蔓延し、次第に調和のための多様性が求められてきました。こたえのない時代と言われているからこそ、子ども達はこの感覚を研ぎ澄ます体験がますます必要になってきます。不便さや不自由さは今からの時代に何より必要な道具であり、何よりの智慧であることは間違いありません。

今までの教育の概念を根底から見直す時代に入り、今までの価値観は転換され世界はもう一段成長した成熟した社會を望んでいます。

世界の責任のある一人の人間として、自分が不便不自由を謳歌しながら実践をし、子ども達や周りにその不便の価値と人間の文化を正しく伝承していきたいと思います。