信頼とアテ~選択と覚悟~

人は何かを行うとき、周りの協力をお借りして目的を実現してきます。その際、大切なことは周りとの信頼関係を築くことです。しかしこの信頼を築くといいながら実際には単にアテにして期待していて信頼とアテを間違っている人が往々にして存在します。これは自立と依存の勘違いですが、自立には独立自尊といった自分が選択し決めたことを実現しようと自力を使うことに対して、依存は最初から甘えが入り最初から他力をあてにしてしまいます。前者は信任され、後者は依頼になります。自分で考ええて行動するには選択と覚悟が必要なのです。

この選択というものは本来、自分自身が行いそれを手伝ってもらうところに協力が存在するのであって最初から誰かをアテにしてアテが外れればやらないという姿勢では物事は一切動くことがないように思います。言い訳ばかりをしていても物事は進むこともなく、だからといって責任逃れや責任転嫁ばかりしていてもより依存が深まり孤立を進めていくだけです。

誰かをアテにするという発想は、自分以外の誰かにやってもらおうという気持ちから生まれてきます。最初に自分がやると決めたうえで自分ひとりではできないこともあるから手伝ってもらおうとするのと、最初から自分はできないし分からないからやってもらおうとするのではその意味は全く異なります。

自分が決めていないものは誰も手伝うことができず、自分が決めていないから人間はいともたやすく誰かをアテにするようになるのです。すべての出来事は、必然性と必要性があり、誰かがやらなければ誰もやらないことばかりです。

そういう中で、大切なことは自分が一人でもやると覚悟を決めることです。二宮尊徳に復興や救済をするときの心構えとして下記のような話が遺っています。

「神代の古に、豊葦原(トヨアシハラ)へ天降(クダ)りしと決心し、皇国は皇国の徳沢にて開く道こそ、天照大御神の足跡なれと思ひ定めて、一途に開闢(ビヤク)元始の大道に拠(ヨ)りて、勉強(ベンキヤウ)せしなり、夫開闢の昔、芦原に一人天降りしと覚悟する時は、流水に潔身(ミソギ)せし如く、潔(イサギヨ)き事限りなし、何事をなすにも此覚悟を極むれば、依頼(イライ)心なく、卑怯卑劣(ヒキヨウヒレツ)の心なく、何を見ても、浦山敷(しキ)事なく、心中清浄なるが故に、願ひとして成就せずと云事なきの場に至るなり、この覚悟、事を成すの大本なり、我悟道の極意なり、此覚悟定まれば、衰(スイ)村を起すも、廃(ハイ)家を興(オコ)すもいと易(ヤス)し、只此覚悟一つのみ」

昔の親祖は、この雑草だらけの荒れた日本の土地に来てこの国を開闢すると覚悟を決めてやってきました。今の日本があるのは、誰にもアテにせず自分一人でもと覚悟を決めて禊をして決心した先祖の思いによって存在しています、その心は依存心もなく、アテにする心もなく、疑心も不安もなく、心は常に迷いなくすべてのことが成就していきました。

つまりこの覚悟ことが事を成すことの大本であると二宮尊徳は言い切ります。

一人でもやると覚悟を決めるのは決して孤独になって周りと協力せずにやるということではありません。むしろ一人でもやると覚悟を決めているからこそ、周りの協力を信頼し、人の助けを受けて感謝のままに執り行っていくことができるのです。

刷り込まれ誰か任せにしているうちに受け身になり自分の人生を他人にゆだねる人が増えてきました。指示命令でばかりで動いていた人たちは、指示命令でやらされる方が選択する自由よりも楽だということを覚えてしまい身に沁みついてしまいます。

人の自由と尊重は、自分自身が選択と覚悟をするところからはじまります。刷り込みに負けないように、常に選択をして覚悟を決めるという実践を大事にしていくことだと思います。

そしてこのアテにする気持ちというのは総じて自分自身への甘えから出てくるものです。先祖や親祖が見せてくださった背中をもう一度顧みて、様々な物事への正対のあり方を見直して一つずつ覚悟を定めて行動していきたいと思います。

悠久の刻

先日、聴福庵に苔庭づくりを行いました。世界でも苔を庭に用いる文化があるのは日本だけだといわれます。発見されているだけでも世界で約2万種、日本ではその1/10に相当する約1800種が知られています。コケ植物は蘚(せん)類、苔(たい)類、ツノゴケ類の3つに大別できそれぞれを別の門に分類する場合もあります。日本の高温多湿の風土において苔の多様性は顕著であり、ありとあらゆる苔たちが生息し山から川、ありとあらゆるところで植生しています。

もともと苔の語源は「木毛」であり、元来は樹の幹などに生えている小さな植物の総称だったとする説が有力です。古来から日本庭園や盆栽で利用され、日本の国歌「君が代」でも歌われます。この苔という漢字が日本に伝わった当時は苔を主に藻を指す言葉として用いられ、コケについては「蘿」という漢字が当てられている歌もありました。他にも苔は菌類の一種でキノコと同じように扱われている地域もあります。

植物の状態でもしも苔を分別するとすれば水中にいる藻と、地上にいるシダ植物のちょうど中間に位置しているともいえます。根っこも茎ももたないこの苔たちは空気中の水分を取り入れてゆっくり繁殖していきます。半日陰を好み、乾燥を嫌います。神社の奥深い杜の中や、森林の深い渓流の水辺には苔が繁殖しています。

この苔の持つ深い緑に私は強く惹かれます。土を覆い、水分を保ち、周りの木々や生き物たちの潤いになる苔の生き方は決して大きくなくても目立たなくてもじっくりとゆっくりと悠久の年月を語ります。

寺院の苔庭や、神社の大木と共に存在している苔を眺めると私はいつもそこにしっとりとした穏やかな悠久の刻を感じます。庭を観ては悠久の刻を感じられる世界というものに憧れ、聴福庵の庭を苔で飾ることにしました。

水の流れ、水の音、水の輝き、水の波長、水の気配、いのちの水に包まれる苔。

こういうものを緩やかに穏やかに感じられる感性こそが和の心を呼び覚ますように私は思います。日本人が古来から悠久の刻と共に愛でてきたしっとりと瑞々しい赤ちゃんのような純粋な真心のような苔、日本の文化、日本の心を子どもたちにもそのままに譲り遺していきたいと思います。

「日本国家」

君が代は

千代に八千代に

さざれ石の 巌となりて

苔のむすまで

心のアンテナ

人は誰しも心のアンテナのようなものを持っていますが、そのアンテナが鋭敏になっている人と鈍っている人がいるように思います。心に浮かんだことを信じてその心を大切にする人はアンテナが次第に鋭敏になります。

しかしこの反対に心に浮かんだことを自分でかき消したり妥協しているうちにアンテナが鈍ってくるように思います。

自分の心の声を聴く人は、自分の心がどうしたいのかどのようにおもっているのかという本心を聴けます。しかし感情に呑まれている人は心の声を聴くよりもその時の自分の一時的な感情で欲を優先してしまい心の声が歪んでしまいます。

心の声というものは、自分の感情と心を澄ませていくことで聴こえてきます。雑念を捨て、本当は何かを見つめ、本質であろうと魂の重心を低くして矛盾を内包する強さを持つとき心は感応してきます。

また心は常につながりやご縁を感じています。そのつながりやご縁をたどっていくかのように、心から聴こえたメッセージを受け取れるようになるにはご縁を活かし、ご縁に生き、一期一会に日々の出来事の意味を感じ続け精進し続けているとそのアンテナのチューニングがぴったりと合ってきます。

このチューニングとは何か、それはラジオのチューニングを合わせるように突如としてある音階や内容が流れてくるのです。

不思議なことですが自然界では、このような太古から流れている周波数がありそれを受け取れる人と受け取れない人がいるだけです。心を澄ませていけばいくほどに、その周波数に自分からチューニングを合わせていけるように思います。

今の世の中は、自分に合わさせようとばかりに躍起になり感情に呑まれて他人にばかり矢印を向けては協力しあわない人が増えたように思います。我儘に自分勝手に思い通りにいくことばかりをやっていたらチューニングを合わせていくことができなくなります。

自分からチューニングを合わせていくというのは、自分の方をさらりと変えていくということです。素直な心で謙虚な気持ちで感謝の生き方を実践する人は、自ずからある一定の周波数の中で生きていくことができるように私は思います。

相手を尊重したり、お陰様のチカラで周りからいつも助けてもらっているという自反慎独している人は周波数を合わせて心の声が聴こえているのでしょう。

日々は怒涛の如く時間に管理されながら動かされていきますが、心は時間とまったく別の次元に存在していますからその心の声を聴くことで本質や初心、理念に立ち返っていきたいと思います。

自由と好奇心

人は疲れてくると好奇心が減退していくと思われています。しかしそれは刷り込みの一つで、どんな時でも面白いと思える人は好奇心が減退するどころかますます好奇心が発揮されていくものです。

一生は一度しかないものですから、生きているうちは如何に面白いと感じるかということはその人生を豊かし積極的にするうえで大切なことのように私は思います。

高杉晋作に「面白き事なきこの世を面白く」という辞世の句があります。人は後ろ向きになりまじめになってしまうと、次第にマイナス思考になり面白くなくなってくるものです。好奇心の減退とはこのことで、好奇心はどんな時でも笑いに換えたり、どんな時でも好い方に転じて、どんな時でも面白いと思える心を持ち続けることで発揮されていくものです。

もちろん、いろいろなことが起きると体躯は疲れていきます。情報量が多いと精神的にも疲れます。しかしこの疲れは見方を換えれば、体験したから得られるものであり、体験を通して人は本当に大切なことを学んでいます。

自分が体験するというのは、それだけ味わい深い人生になっていくのだからそれをどのように見方を換えて感謝にするかはその人の好奇心の発揮次第のように私は思います。

今の時代、まじめすぎて好奇心を失っている人たちが増えています。幼児性が強い子どもの純粋な感性を持っている日本人が次第に大人びてきて疲れてきています。好奇心を持ってなんでも遊びにして楽しんでいる子どもたちの姿に、私たちは好奇心を学び直す必要を感じます。

たくさんのことが発生しても、その体験をそのままあるがまま味わうこと。そしてぐっすりと眠り、また起きて新しい一日を楽しむこと。仕事にせず作業にせず義務にせず、好奇心でやっていると毎日は面白くなってきます。

自由とは好奇心と一体です。

自由な日々を送るためにも、いかに毎日を面白く生きていくか、子どもたちに習い実践していきたいと思います。

いっぱいの愛

経年変化したものに触れていると、味わい深さに心が感応します。この感応は何に感応するのか、それはそのものがいろいろな生の体験をすることで得た思い出を味わっているのです。

物には「物語」があります。本来、土や木、石や鉄だったものが人のチカラを借りて姿かたちを顕します。そして物にいのちが宿ります。そのいのちは、新しく生まれたての赤ちゃんだったものが多くの環境を通して様々なものと共鳴しあい、そして使い手との物語を経て、そして今に遺ります。

今、このブログを書いている机も百数十年前のものですがきっとこの机が生まれたときは別の人が大切に丁寧に使っていたのでしょう。それが親から子へと譲り渡され、その後多くのご縁をつたってきて今私の処に来ています。それまで愛され大事にされているから捨てられずに今でも残っているのであり、丁寧に大事に扱ってきたからこそ今でも十分機能してくれて私の思い出の手助けをしてくれています。

こうやって一緒に過ごしてきた思い出、主人を何人も換えて何世代も超えても生き続けてお役に立ち続けている存在。最初に作った人はどのような気持ちでこの机のいのちを吹き込んだのか、それを思うと心が感動して胸にこみ上げてくるものがあります。

大事に磨き、ありがとねと御礼をすると道具もまた会釈してくるかのような感覚があります。ものは決していのちがない存在ではなく、すべての道具にはいのちがあります。そのいのちは思い出という養分を吸い上げて愛をいっぱい授かって育ち成長し続けていきます。

まだまだ何かのお役に立てると信じていきているのだから、そのいのちを見極めいのちを活かすのが人間のお役目の一つです。引き続き、いのちを大切にしながらいっぱいの愛を込めて味わい深いいのちを子どもたちへ譲っていきたいと思います。

義は勇なり

時代は変わっていく中で、誰かがやらなければならないことがあります。その最初の誰かになるのは大変なことですが、その誰かはただ待っていても顕れませんから自分がやるしかありません。

人は主体的に生きるといっても、その根底には道徳がなければならないように思います。道徳がある人は、積極的な人生を送ります。なぜなら先ほどの誰もやらないのなら自分がやると決意して行動することができるからです。

これは強い意志と、行動力が必要です。それに義憤や大義、守ろうとする優しさや苦労よりも理想のためにと自分を尽くしていくことでもあります。

組織においても同じことが言えます。誰かがやるのをいつまでも待っている人、誰かがやるまで何もしない人、誰かがやっていても自分はいつまでもやらない人、つまり炭でいえばいつまでも不燃しない燻ったままの状態ということです。なぜここに火が入らないか、なぜ燃焼しないかはそうやって自分の大切な人生を誰か任せにして生きてきた生き方が染みついてしまっているからです。

学校に入り、エスカレーター式に言われた通りにやってきて評価されてくると自分は自分という考え方が刷り込まれたりします。自分ばかりを守ることに意識を使っていては、さきほどの理想のために自分を使おうという勇気が湧いてきません。

この時代、問題がたくさんあったとしても誰かがその最初の一歩を踏み出し扉を開けて風雨に晒される覚悟がなければ大事なものを守ることができません。その時代時代のそういう大義に生きた人たちの生き方のお陰様で私たちはその大義に触れて道徳に回帰します。

いくら大事だとわかっていても、守る力がなければそれは存続できません。みんな誰もが自分にはできないと思っているものですが、自分の意識の中で見過ごせないと思うものがあるのならば論語の「義を見てせざるは勇なきなり」と自己発奮、啓発して天から与えられた使命があると信じて挑戦することだと私は思います。

そういう日々の連続こそが子どもたちに遺し譲りたい生き方になり、その真心は必ず同じ大義を持つ仲間や同志へ伝承されていきます。

引き続き、社業をまい進し自他一体、道徳一致に取り組んでいきたいと思います。

自然は真の営みの道

今回、1週間をかけてクルーたちと一緒に古民家再生をしながら暮らしを共にしましたが発見ばかりの日々で改めて古来の生き方を学び直すことができたように思います。

朝、炭火に火をいれて朝食をつくり布団干しや掃除、その他の家の手入れをしていたらすぐに昼前になり昼食を用意します。午後もまた、庭の草刈りや拭き掃除、夕飯の支度をしていたらすぐに夜になります。夕食後、炭でお風呂を沸かしお茶を入れて後片付けをしていたらもう寝る時間になります。

スイッチ一つの快適な生活には、時間が豊富にあり娯楽がありますがここでの古民家暮らしはまったく娯楽をする時間などが存在できません。暮らしの手入れをする合間に、休憩をして少し寛ぐことがあったとしても何もすることがないということがありません。

先日、家の前を通りがかったお婆さんが家の道具を見て「懐かしい」とクルーに声をかけてくださったそうです。その際、「昔の女性はやることがたくさんあって毎日が充実していた」と仰っていました。お婆さんの家にガスのキッチンが入ったのは昭和41年ころだたそうです。それからずいぶん便利になって炭を使うこともなくなったそうです。

確かに私たちは文明を進歩させ、いろいろなことが便利に楽になりましたが文明の進歩は人間の欲望の進歩でもありました。これは文化の進化とは異なるものです。文化の進化は悠久の時間をかけてじっくりと混然一体に周りと調和しながら自分自身を変体していきます。しかし文明の進歩は自分の方は変わらずに、周りを道具を使って操作して変化させていきます。

お婆さんが懐かしそうに昔の大変だったけれど充実した暮らしがあったという話を聴きながら人間の豊かさとは一体何かと今一度、考えさせられる思いです。自然から離れ人間にとって快適で怠惰な生活ができるようになり、死生観も失われ毎日は豊かになったと思い込んでいますが地球全体の循環や、先祖たちとの一体感も薄れある部分は急激に貧しくなったように思います。もったいなさというものが消えれば消えるほどに私たちは自然から遠ざかっていきます。

この1週間のここでの暮らしは確かに自然と生きるための営みに満ちていました、

自然と共に暮らすというのは、文化の進化と共に歩む道です。自然は真の営みの道なのです。

引き続き、文化発展の可能性を見直しながら温故知新し、今の時代に必要な本当の豊かさを学び直し子どもたちに先祖の生き方と生きざまをそのままに伝承していきたいと思います。

炭は原点

昨日は、聴福庵の床下に約500キロの備長炭を埋炭しました。まだ半分残っていますが、クルーのみんなと一緒にやる作業はとても豊かで、炭まみれになった様子にみんなで子どものように燥いでいました。

もともとこの炭は、発酵の知恵で学んだものです。漬物小屋に炭を埋炭するだけで漬物の発酵度合いが異なります。そこにば場の力が発生し、その場にあるものの発酵を促すのです。

また炭には、波動というものがあります。これは自然の持つ波長のことで遠赤外線をはじめ、例えば太陽の光、深い森の中、波打ち際にもそういう波長はたくさん流れています。こういうものを身近に感じることで、自分たちのカラダのリズムが整ってくるのです。

聴福庵は、すべてにおいて炭が中心になっています。炭には深い癒しの効果があり、また循環を司る仕組みがあります。炭を用いるだけで暮らしはすぐに復活します。電気を止めてみて、炭を中心に生活をするだけでいつも五感は鋭敏になります。

ここ筑豊の飯塚は、炭鉱の町と呼ばれています。炭鉱とは炭を採掘する場所です。江戸時代末期から良質な石炭がとれることで栄えた町です。備長炭と石炭は異なりますが、その炭の性質としては同じものです。

この原点を大切にしつつ、その炭の町をより好いものへと転じようと思う願いがあります。炭があったお陰で私たちはいろいろな風土の恩恵をいただいてきました。その御恩にお返しするために炭から離れず、炭を大切にし、炭と一体になって風土報徳の実践を積み上げていきたいと思います。

先祖たちの真心

昨日、大工さんたちによって110年の重みで傾いた古民家の柱を立て直す作業が実施されました。本来は土壁を剥がして瓦を降ろし、柱をすべて組みなおすことで解体し立て直すのですが今回はジャッキアップすることで対応しました。

現在は古民家の再生をする大工さんも少なくなり、昔からのやり方を伝承している人たちもいなくなってきました。現代工法というものは、洋式建築が中心に法律が改定され続けましたから昔ながらの建物の修理の技術も廃れていきました。

古民家は住んですぐにわかるのが、通気性です。ありとあらゆる場所や材料が呼吸しており、雨が降れば建具が湿気で重くなり、風が吹けばあらゆる場所から隙間風が吹いてきます。普段は感じない家の呼吸も、お香を焚いてみればすぐにゆらゆらと吸っては吐き、吐いては吸うといった家の呼吸を感じられます。

今回は立て直しにおいてすべての床を剥がして骨組みになりましたが、その下からは110年前の土が出てきます。今ではコンクリートで固めてしまって、下はまったく呼吸できなくしていますが土はもっとも呼吸する存在ですから水気が下から湧き出てきます。

この水気は、呼吸大学の宮本一住さんによれば縦の風といって下から上へと水分が蒸発していくときに呼吸する仕組みになっているといいます。確かに植物たちや木々は、下からの水分や水蒸気を浴びて呼吸を繰り返し成長していきます。

木造建築でできた日本家屋が何百年も維持できるのは、この自然の仕組みを上手に取り入れたからかもしれません。今ではこの土間をコンクリートで固めることで、気密性は高まりましたが傷みやすく長持ちしない家になってしまいました。

大量生産大量消費、効率優先経済効果ばかりをなんでも先にしてしまうと、それまでの先祖たちの知恵や恩恵、いわば宝ともいえるものを捨ててしまうことになります。そうやって数十年も経てばあっという間に技術も伝承も断絶してしまいます。

伝える仕事というものは、今ではあまり価値がないように思われていますがかつては伝承する人こそが国宝だったように思います。なにをもって国宝とするか、それは先祖恩人たちの道を継承して踏み歩く人々だと私は思います。

これから床下に、備長炭を埋炭していきますがこれも私が発酵から学んだ知恵です。土は炭を埋め、まくことで土着菌たちの安心した住処になります。そしてこの菌たちが木を活かし、土を活かし、そこに住まう人々の健康を守ります。

古民家は共生の住処です。

引き続き、古民家再生を通して先祖たちの真心に触れていきたいと思います。

 

独立自尊、禍福を転じる

古民家再生をしつつ、電気や水道周りなども自分で直しています。今までは専門業者でないと直すことができないと思い込んでいましたが、いざ家を修理すると覚悟を決めるとなんでもできるから不思議なものです。

自然農のときも、自然養鶏のときも、また古民家再生、これからはじめる風土報徳も、最初は一人で覚悟を決めます。何よりも自分自身がやると決心することは、何よりも大切なことでないものずくしのなかであっても自分がやると決めることで周りも動き出していきます。

人間は、この「決心」というものが何よりもハタラキを育みます。

そしてその後、その決心をみては助けてくださる人たちが出てきます。自分でやろうと決めた人を応援したいと思うのです。一人ではできないことを一人でもやろうとするのだから見ていられないことばかりです。人にはなさけ(情)があり、有り難いそのお情けを与えてくれます。

これは天のお情けも同じく、何とかしようとしている真心に加勢してくださるのです。お陰様も感謝もまた、そういう決心をすることで今まで以上に感じることができるようになります。

つまり独立自尊、まずは自分自身が自分の心と正対し折り合いをつけて言い訳を断つことで初心が固まりその行動が正直になり迷いが消えるのでしょう。

悩むことは迷いは同じではありませんから、「悩むけれど迷わない」というのが初心、決心をしている状態ということです。どんな結果になったとしても、自分自身で決めたことだからと清々しい境地を維持することができるのです。

そのために全体にとっていいか、未来にとっていいか、世界にとっていいか、地球にとってどうか、歴史をみてどうかと、あらゆる基準に照らしながら自問自答し悩み切ることは必要かもしれません。

どんな日々も、つながりとご縁の中の一期一会ですから一つの決断が次の今をつくっていきます。

独立自尊、禍福を転じつつ、楽しみ味わいながら歩みたいと思います。