五感と暮らし

暮らしの再生をするにおいて、何よりも大切なのは五感を使うことです。今の時代は暮らしが消失してきているといいますが、それは言い換えるのなら五感が消失してきているということです。

地球上のありとあらゆる生き物は五感を使って生活をしています。春夏秋冬や気温差、湿気、日差し、ありとあらゆるものを五感を研ぎ澄ませて実感しそれを活かして生活を営みます。かつての人間も同じく、頭で計算して生きていたのではなく五感をフル稼働して日々の生活を営みました。

今では、便利に機械や道具に囲まれ自分たちの五感を楽させては五感を使わないですむような生活にどっぷりとつかっています。頭で計算している世界というのは、五感を使わなくてすむ便利な世界です。そんな便利な世界の中では、五感は衰える一方で暮らしも衰退していきます。

五感が暮らしをつくるのは、少し体験すればだれでもわかります。例えば、私が実践する炭でいえば朝から鉄瓶に水を入れお湯を沸かします。その一つ一つが水の手触り、白い湯気、鉄が沸かす音、火の香り、茶葉の味わい、まだまだ並べるといくらでも書けそうなほどに五感を使っています。

他にも昨日は古民家で掃除をし柱を磨きましたが、磨けば磨くほどにそのものの味わいがにじみ出てきます。私たちは古いものを磨くことで刻とご縁を五感で直観しているのです。

古民家に住めばすぐにわかりますが、この古民家は常に五感を使います。五感を磨き続けています。それは別に五感を鍛えていたからこういう家を建てていたのではなく、暮らしが五感だったからなのです。五感を使わない暮らしなどは存在しなかったということです。

その五感を使うことが「豊かさの本質」であり、豊かになったというのは物が溢れたからそうなるのではなく、五感を活かした暮らしができているから豊かなのです。昔は今と違ってほとんど物がなく、今と比較すると貧しいと思われるでしょう。しかし実際は、物が溢れていなくても五感を使う生き方をすれば地球と混然一体になれ、その豊かさは何物にも代えがたい安心感と充実感を与えてくれるのです。

今の時代は大量生産大量消費のグローバリゼーションがとどまるところを知らず、このままでは必ず資源を食いつぶしてしまいます。もうほとんど手遅れかもしれません、しかしここでの転換は別の豊かさというものの発掘になるように思います。

人間が機械と同居するには、この五感を一緒に用いる仕組みにしなくてはなりませんし家屋においては五感を感じられる住まいを見直す必要があると私は思います。

子どもたちのためにも、大人たちが五感を使う豊かな暮らしのモデルを示していきたいと思います。聴福庵の復古創新から、かつての豊かな暮らしを味わい伝承していきたいと思います。

 

愛の伝承

聴福庵の手入れを仲間とする合間に飯塚市の日本劇場建築、嘉穂劇場を見学するご縁がありました。ここは全国でも数少ない現存する芝居小屋で前身の中座の時を含めると役100年以上の歴史を持つ建物です。両花道とマス席を持った木造二階建ての歌舞伎劇場として今でも全国座長大会が開かれています。

この建物は最初の火災から、次は台風、そして水害と数々の倒壊や倒壊の危機に見舞われながらもそこから不死鳥のように復興し、今でも歴史的建造物としてこの地で愛され続けています。

この嘉穂劇場のデザインや風格、その雰囲気が聴福庵の造りととてもよく似ているため、時期や意匠をみていたらひょっとしたら同じ大工が手掛けたものではないかとも感じています。

今から110年前、100年前にどのような思いで大工が手掛けてきたのか、その願いや思いを建物から感じます。

そもそも建物というものは、単なる建った物ではありません。建物にご縁があり、その建物をみんなが愛することで建物は生き物として生き続けていきます。愛するというのは、大切にしていくということです。

今では古いからと粗末にしたり、手入れが大変だからとすぐに捨てたりします。愛するとうことや、愛着を持つということから遠ざかれば相思相愛にはなりません。この相思相愛というのは、お互いに大切にしあう心から発生してくるものです。

造り手の思いに対して、使い手の思い、そういう思いが受け継がれ譲り語られて遺されていくのが文化財です。財産というものは、単に金銀財宝のことをいうのではありません。その大切に愛された思いこそが、時代へ受け継がれていく貴重な財産そのものなのです。

聴福庵を復古創新するのは、この愛する思いを子どもたちに譲り遺すためでもあります。110年の愛されて続けた建物を、さらに愛してその愛が子孫たちへの愛の伝承になればと願います。

今日からいよいよ傾いた柱を再生します。

家が願うように、家の声を聴いて一家の主人として一つ一つのご縁を大事にしていきたいと思います。

「嘉穂劇場援歌」

筑豊の空に唯ひとつ

何も言わずにドッシリと

右にボタ山眺めつつ

遠賀の川を忍び見て
心の光弾きせながら

歴史を語る

ああ ああ 嘉穂劇場

 

共生の理

昨日も引き続き、自然農の畑に妙見高菜の種をまきました。畑の中にはありとあらゆる虫たちが営み生活をしています。都会に出ればほとんど見かけない虫も、畑に出れば虫を見かけないところがないほどに溢れています。

自然農にとっての虫というのは、畑にとっての大切な養分であり肥料にもなります。牛糞などで肥料を入れて肥やさなくても、虫たちの生活の中で出てくる糞や死骸が土に混ざり大切な養分になります。

そもそも自然の雑草地において、そこに畑を作ろうとしたのは人間です。それまで棲んで暮らしていた生き物たちの居場所を壊して私たちはそこに畑を耕作します。一般的にはその虫たちを薬で排除して、機械で攪拌して粉々にしたらそこにビニールハウスなどを設置して育てていくものですがそれではそれまで生きてきた生き物たちはみな生活できなくなってしまいます。

お互いに分け合い、お互いの居場所を尊重しながらお互いに生活や暮らしを営んでいこうとするのが自然農です。つまりは取りすぎず奪いすぎず、お互い思いやりを持って分け合い助け合っていこうとする農法です。

これは生き方も同じく、自分さえよければいいとし全部自分の都合でばかり動かしてしまうとその力の陰で苦しんで者たちが出てきます。しかし実際に生きていくためにはお互い食べ物を食べなければなりません。だからこそ互いにどうやったら折り合いをつけられるか、またどうやったら共生できるかを考えるのです。

自然というものはそうやって共生に沿ってお互いに助け合っています。お互いが戦いを避けて、お互いが争いがないようにそれぞれが厳しい環境へと移動していくのです。これは共生の理に生きているからであり、みんな生き物たちは戦略をもって広い地球の中で争わないでいいようにと移動し進化を経てきたのです。

今は、文化の進化よりも文明の進歩を優先し争いの方へ、奪い合いの方へと舵がきられています。共生をすれば広い地球の中で多様性を維持して永続できる暮らしが約束されていましたが人間が独占すれば地球は画一化しより狭くなり暮らしていくことができなくなるでしょう。

自分の代だけでいい、自分の生だけでいい、いまのツケは未来へ先送りとしてしまえば子どもたちがその代償を払わなくてはならなくなります。取り返しのつかない代償は、いままさにここで発生しているのです。

だからこそ、いま、ここを変えることは未来を換えることです。人ひとりの生き方の転換は人生を変えることです。そしてその一人の人生の転換があって未来は変わっていきます。

自然から学びなおすのはいつもお互いに思いやり助け合い、生きものたちと共に末永く一緒に暮らしていこうとする地球の存在です。引き続き、自然を身近に感じつつ生き方を転じて実践を積み重ねていきたいと思います。

心音のチカラ

昨日は妙見高菜の種まきのために畝を整え表土を削り草をかけたりと一日中畑作業をしました。バッタやコオロギなど秋の音楽が畑中に広がり、ススキやその他の夏草たちが命を全うする景色に季節の移り変わりを感じます。

地球にはリズムがあります。私たちは様々な音楽の中で暮らしを営み、全身全霊で地球で聴こえてくる音楽に耳を澄ませて心を委ねていきます。

夜になれば夜の音楽、朝になれば朝の音楽があります。

また風が吹けば風にのって響いてくる音楽が聴こえます。

土に手を当てて、土の中の音楽を聴けばそこにも地球の息吹きを感じます。

私達の呼吸一つ、私たちの暮らしの中には耳には聞こえなくても聴こえてくる脈動のような心音があります。この心音は心を澄ませたとき、響き渡ってくるものです。

頭で計算したり、人工的に計画したりをやめてただ地球の音に耳を傾けてみる。
そしてその存在が和合してつながりを持ち合っている波長にあわせてみる。

宇宙にはいつもぐるぐると回転している闇の音楽が鳴り響いています。

闇のチカラとは決して悪いものではありません。闇は私たちが自然から離れ忘れてしまった太古から流れる脈動です。

その脈動に耳を澄ませて心が音を感じることができるなら大きなやすらぎと平和が訪れます。

瞑想というものの本質はこの闇の音楽に耳を傾けることです。

引き続き自然をよく観察し、自然と和合し、自然を学び直して自らを変化させていきたいと思います。

持ち味の発揮

ブランディングという言葉があります。全てのものにはブランドといものがあります。ブランドという言葉の語源は、他人の牛から自分の牛を区別するために牛のわき腹に焼き印を押すという意味の「burned」が語源であると言われています。そこから転じて他と区別するという使われ方になっています。このブランドの意味について深めてみようと思います。

英語ではBRANDにINGがついてブランディングということになります。これは名詞ではなく動詞です。私はこのブランドは無機質ではなく生命であると思っています。目的や意志を持ち、生きるものには生命が宿るからです。そして私はこのブランディングの定義を持ち味であるとしています。なぜならこの持ち味は、その社會全体の中で存在するもので単体では存在できないものだからです。

例えば、他人によってはブランドを差別化戦略などという言葉を用いる人もいますが本来、何を使命にしているか、自分たちが何のためにという目的を明確に打ち出して取り組むかでそれぞれの持ち味は変わってきます。その組織やその人が明確な理念があるのなら、次第にそれはブランド化していくということです。人は無理に周りと比べて違いを出すのではなく、理念を優先する中で無私になるとき己の持ち味が引き出されて全体に感化していくのです。まるで自然界がそれぞれの植物たちが多様に共生するようにそれぞれは自然の理に沿って真摯に生き切っているだけですがその中で全体にとって必要な役割と持ち味が発揮され全体が循環していくのと同じようにです。

そしてブランドがINGが入り動詞であるというのは、社會の中での意義や理念がそれぞれに生き続けて時代の変化の濁流の中でも杭がしっかりと立っていることを証明します。

アメリカの広告会社TWBACEOのジャン・マリー・ドル―氏が「アップルは反抗し、IBMは答えを出し、ナイキは熱く語り、ヴァージンは啓発し、ソニーは夢を見て、ベネトンは抵抗する。 つまり、ブランドとは名詞ではなく、動詞だ。」と言いました。

ブランドというものは、それぞれの使命が社會の中で生き続けていることでありその生き続けるものが実践され顕現するほどに可視化されたとき周囲にそのものの目的が伝わりはじめるのです。

そしてその目的がたくさんの人たちに共感されることで、そのものの価値や持ち味が認められるのです。そしてこれは決して単に見せかけで見た目だけを誤魔化してできるものではなく、創業者をはじめ一緒に取り組む仲間たちが強烈に一つの思いのためにいのちを懸けて真摯に実践を積み重ねたうえではじめて味が出てくるのです。自己をなくすほどに渾然一体となった祈りや願いや行動は自我の色を超えて透過した存在になっていくのです。まるで空気のようなもので、ないようにみえてここにはなくてはならないそのものの持ち味があります。

つまり持ち味とは、自分の根源的な性質が引き出されることを言います。つまりは比較や数値などでは測れず、点数もつけられず評価もできないものが出てくるということです。つまりは存在そのものの意味や、自分を超えた存在が滲み出てくるということです。それは産まれながらに持っているものであり、地球の味や月の味、宇宙の味が出てくるのに似ています。そのもののもっているあるがままの価値がブランドとして顕現するのです。

ブランディングというのは日々の小さな理念の実践、その思いの積み重ねによって実現するものです。

一日一日はそのブランドが練り上げられる修練の日々でもあります。これは稽古と同じで、怠ることはできません。持ち味の発揮は無私による真心の実践ですから引き続き理念を省み真摯に挑戦していきたいと思います。

 

むすびと御祭り

御祭りを深めていますが、そもそも日本人の和の精神とは何か、和を実践するとは何か、そこから考えてみると改めて御祭りの本質が観えてくるように思います。

和というものは、言い換えるのなら「むすび」のことです。出雲大社の注連縄のように、一本一本が強く結びつき束になることで強固な絆が産まれます。何を大切にして生きていけばいいか、それは親祖の時から私たちに神社の姿として伝承されてきています。

稲作を通して、稲作の行事の在り方を学び、そこから顕れてくる様々なプロセスを伝承の仕組みにしていたのが先祖の智慧です。もっとも食べる主食は私達には欠かせず、それをどのように見守り育ちそして収穫し感謝するかはその一連の流れを通して私たちの魂に呼び覚まされ維持されてきたものです。

今では生活が一変し、生活が消失して暮らしから遠ざかり只管に労働することばかりが優先されて社會そのものがなくなってきています。

本来、社會とは結びつきによって存在するものです。その結びつきとは古来からの「むすび」のことで、結束のことです。結束していくことで社會が強く優しくなり安心して暮らしていける風土が醸成されていきます。

何よりもその風土を守っていくことが、私たちの先祖たちが人類に戒めたことでありその風土を破壊してしまうバラバラが結束を崩していきます。それぞれが我儘にバラバラになったら人類はとても弱く自然界では生きていけません。そういうことがないようにと、様々な暮らしを通して私たちが結束を確認することを行っていたのです。

御祭りも同じで、結束を確認し、結束を強くするために使われてきた伝統行事です。伝統というものは、理念であり初心のことです。それを継続することで継承するのが私たち子孫の姿です。

御祭りが続いていくというのは、御祭りの本質を守り続けていくということです。今の時代のように単なるお祭り騒ぎやイベントを御祭りにしていてもそれは結束を強くするものではなく娯楽の域を超えません。

大事なことは何のためにそれが行われるのかを忘れないことです。改めて継続しているからこそ、初心を忘れずに本来の目的を見落とさないように大切に改善を続けていきたいと思います。すべての行事は神事であり、私たちは先祖と一緒に結ばれていますからそのままの真心を大切に紡いでいきたいと思います。

御祭りに御先祖様と風土をお祈りしたいと思います。

 

御祭りの原点

かつて神話の中にあった御祭りに現代における御祭りの意味に通じるものを深めてみると色々と観えてくるものがあります。

御祭りの語源は、民俗学の折口信夫は「たてまつる」とし柳田国男は「まつらふ」としました。つまり「祭り」「祭る」の語幹である「まつ」と「待つ」がそのものであると二人は言いました。以前、京都の町家の主から祇園際のことをお聞きしたことがあります。その際お祭りはお祭りの前の夜こそが本当の御祭りであり心の穢れを祓い清め、神様が降臨されるのを籠ってじっと待つことこそが御祭りの本質だと伺いました。そして夜に待ちに待った神様が顕れたことを籠った方から外界の人々へと伝えると、「芽出度い!」と民衆たちが御祝いをしたのが今の御祭りの姿になっているということです。

籠って待ったものは目立ちませんから、その後の「御祝い」の方が御祭りとして目立ったということです。本来のお祭りはすべて神様が降臨するのを待つことであり、その待つ心の中に信仰の根源があるように私は思います。待つことは信じることであり、信じることが待つことですから「まつらう」ことも「たてまつる」こともこの「まつ」があってこそのものです。

そして神話の中で最初に御祭りしお待ちした有名な伝承神事はアメノウズメと神々による有名な天照大御神の「岩戸隠れ」の物語です。これは「天照大御神の弟である素戔嗚尊の傍若無人な振る舞いに天照大御神が天の岩戸の中に隠れ引きこもってしまいました。すると国中から光りが消えてしまいこれに困った八百万の神々はなんとかまた出てきてもらおうとあらゆる計画を立てました。彼らは岩の中の天照大御神の気を引こうと、鳥を鳴かせたり、鏡や勾玉を捧げたり、祝詞を読み上げたりといった宴会を行ない騒ぎ立てても一向にでてきません。そこでアメノウズメという女神が自ら全てをさらけ出し裸になってでも真心で舞を踊ったところ他の神々は大いに笑い心が開け明るくなりました。そして天照大御神が岩戸から顔を出し再び世界に光が戻った」という物語です。

これは私の解釈ですが、アメノウズメは禍を転じて福にした神です。世の中が暗く陰気に気枯れてしまってどうしようもないとき、和来い(笑い)によって人々の穢れを取り払い洗い清め福に転じたことで世の中が明るくなったということです。

この物語は日本の御祭りの原型を顕すものです。つまりは、「禍を転じて福にする」という御祭りの本義を示しています。私たち日本人はお天道様に恥ずかしくないようにと、清く明かるく美しく正直に思いやりをもって勇気を出して暮らしていくなかでどうしてもその気が弱っていくことがあります。その気をお祭りによって甦生し再生することでいつまでも神様の波長や波動に合わせて生きていこうとするのが御祭りの神事です。

こういう日本らしさというものは、自然の波長や波動、気候風土に沿って暮らしていこうとした先祖からの智慧の塊です。

引き続きお祭りを深めつつ、何を温故知新するか、何を復古創新するか、実践を積み重ねていきたいと思います。

練り歩く

先日、御神輿を担ぎ街中を練り歩きましたがこれは列になってゆっくりと歩くことだと言われます。しかしこの練るという言葉は、単にゆっくりと列になって歩くことだけを意味するのではなく混然と融け合ったり、こねて粘らせていくなどの意味もあります。

和を背負い、和を一緒にしていくというのは御神輿を担ぎながら一人ひとりが錬成していくということです。錬成とは、ねりきたえ立派な人に成ることをいいます。錬磨育成という言葉もあります。練り歩くというのは、練磨するということであり歩くことで心身や精神を磨いていくということです。

御祭りというものは、日々の暮らしの延長にあるものです。日々の暮らしは御蔭様に感謝し、自分自身を見守り支えてくださっているものへの恩返しとして御蔭様に貢献しようとする実践です。日々の年中行事もまたすべてはその御蔭様を忘れないために行っているものであり、目には見えないけれど自分をいつも陰ひなたから助けてくださっている存在への御礼として慎み執り行っているものの線上にあるものです。

この練るという言葉は「磨く」という言葉と同じ意味を顕します。つまりは磨き続けることで光り続ける、古民家再生で磨き直していても分かりますが古いものが新しくなり甦生するということです。

この甦生というのは、練り歩くことで実現します。練り歩くというのは磨き直すということで、常に日々に自分を磨き続けることで本質を維持し続けるということです。そしてそれを甦生とも言います。甦生は単によみがえることだけを言うのではなく温故知新していくということもあります。

本来の姿が、くすんでしまわないように、汚れて隠れてしまわないように、埃かぶって埋もれてしまわないようにと「練る」「磨く」のが甦生です。そしてこの御祭りの本質もまたこの甦生を意味します。

古くなっていくからこそ、磨き直す必要がある。自然の中においては自然が自然に戻そうと「回帰するチカラ」が働くからこそ、いつまでもこの世に遺しておこうと「維持するチカラ」を働かせるのです。

これが初心伝承の仕組みなのです。

御祭りを通して甦生を学び直しましたが、この甦生は単に町の甦生や人々の甦生に限らず、日本の甦生であり、魂の甦生にもなります。私たちが日々に生きている一日一日は御神輿を一緒に担ぎ道を練り歩いていることと同じです。何を実践することが御祭りなのか、その意味を間違うことなく本質を守り抜いていきたいと思います。

暮らしを祀る実践

御祭りの体験からいろいろと現代社会のことを省みる機会が増えています。都内だけではなく全国各地では年々御祭りに参加する人も少なくなり御祭りが次第に廃れてなくなっていくところが出ているともいいます。人口の減少、少子高齢、過疎、都市化、神社の荒廃と共に、お祭りができなくなっていくところや伝統の価値が消失し人気が失せて続けられなくなったところもあります。

かつて日本では御祭りというのは暮らしの年中行事であり、当たり前に実施されていたものです。お米づくりにはじまり収穫祭、その他の穢れを払う年中行事のなかであらゆる御祭りは神事として皆で大切に執り行われました。

今では御祭りはかつての伝統の神事としてよりも経済活動や一過性の地域活性化の企画としてイベント化しているところも増えています。イベントになってしまえば企画次第ではやったりやらなかったり、それまでの御祭りの本質を歪めてしまっています。

本来、先祖たちが当たり前に大切にされてきた感謝報恩の御参りやいつも心を澄まして周りと助け合い思いやりを和を優先していこうとした生き方などが行事を通して実践していたのです。しかし今日では、その実践することだけが失われてしまったということです。実践というものは初心を忘れないために行うものですから、実践しなくなればすぐに初心は失われてしまうのです。

そしてこの実践というものは一過性の経済効果や結果だけをみて一喜一憂すればいいというものではありません。実践は、初心を忘れないために続けていくことや省みること改善することを通してその体験は何だったかをそれぞれが自己の内面と深く対峙してその体験を積み重ねてその本質を磨き昇華していくことです。それは真玉磨きであり、魂を高め真魂を透明に澄ます日本民族の思想根本と繋がっているのです。

そして日本の御祭りにおいては更に「和」の心を尊び、自然に沿った道を歩んでいこうとあらゆる御祭り行われてきました。また穢れを払い、洗い清めれば和楽が訪れるという神話の歴史で語り継がれてきたような体験をいつまでも忘れないように実践で伝承し継承されてきました。

今ではその初心伝承をするためというよりも、集客力があり経済効果があるイベントとして主催者が一方的に行っているものになりました。御祭りは地域の人々みんなが参画して感謝のカタチをいつも見守り鎮守してくださっているその土地の神様に示すものです。

本来は御祭りは自分の暮らしにとても密着していたものです、暮らしが消失しているからこそ御祭りもまた消失していきます。政府は「働き方の改善を」と言いますが、実際に暮らしが仕事と切り離され、働くために仕事をする人ばかりになってしまった今日、かつての先祖たちのように暮らすために働く人がどれだけ増えるかは政治の在り方と人々の生き方に懸っています。

神事と共に暮らしていく豊かさというものは、御祭りを通して再認識できるものです。先祖たちが今まで私たちに繋いでくれたもの、今の自分たちを下支えしてくださっている存在、それまでのさまざまな御恩、暮らしはそういうものとつながって生きていく私たちの人生の実践であるのです。その暮らしは年中行事に顕れていますから御祭りはその「暮らしを祀る実践」ということになるはずです。

引き続き、何が日本人で何を実践するのが日本なのか。視野を広くして深めてみたいと思います。

御祭り~和魂を揺さぶる~

昨日は、稲刈りをしたあと東京都の目白にある御祭りに参加し御神輿を担ぐ御縁をいただきました。人生ではじめて御神輿を担いで二時間ほど街を練り歩きましたが、今までにない体験をすることができました。

そもそも日本の御祭りは、民族の伝統文化です。世の中には宗教とかいう人もいますがこれは生活文化であり日本人が古来から大切にしてきた生き方を示すものであり道徳の姿を遺すものです。つまりは私たちの先祖が、どのように暮らしてきたか、何を大切にみんなで優先してきたかを体験をもって伝承していく大切な伝統なのです。

御神輿のルーツとして有名なのは、奈良時代(749年)に九州の宇佐神宮にある八幡の神が、東大寺の大仏建立に無事祈願というお告げを出しました。その八幡の神が遷座する紫色の輿のがはじまりだと言われています。

つまりは私達を見守ってくださる高貴な神様(御魂)が、別の場所へと移動するときに使われたものということです。以前、氏子として地元の神社の御社の建て替えに参加したことがあります。その際にも、神様に御神輿のようなものへ入って移っていただきみんなで新たな御社へと運んでいきました。

日頃、御山に鎮座する神様が御神輿に乗って街を練り歩くのは人々の心の穢れを払うために行われたと言います。皆で、私たちの土地や風土を見守ってくださっている存在に祈り祀り、心を澄ませて仲良く助け合い思いやる様にと和を尊び待ち望む。

御祭りの「わっしょい」という掛け声も、語源には「和を背負う」「和一処」「和一緒意」となったともいいます。和を一処にするというのは、どのように子孫たちが道を歩んでいけばいいか、先祖や親祖が子ども達に何を大切に暮らしていけばいいかとその祭りの神事、行事によって先祖たちが大切にしてきた真心の暗黙知をカラダで伝承するのです。

重たい御神輿も、みんなで息を合わせて声を合わせて担ぐと不思議と苦しさよりも有難さが増して大変ですが楽しく豊かな時間を過ごせます。御神輿を揺らし、御神輿を掲げ、さらに揺さぶれば神威が増していきます。この神威とは何か、それは私たちの民族の根底に深く眠る魂の故郷のことです。

古来より時代を超えて魂が揺さぶられる体験というのは、このお祭りによって行われるのでしょう。もう一度、急激な近代化によって停滞した民族の和魂を揺さぶり起こし、呼び覚ますのはこのお祭りのチカラからもしれません。

和を取り戻す一つの仕組みとしてのこのお祭りの意味を、子どもたちの未来の伝承へ向けて再発見し、日本に祈りたいと思います。新たな三種の神器を得た気がして有り難い御情けとご縁に勇気が湧いたとともに感謝の心に充ちました。引き続き、子ども達に譲れるものを温故知新して社業に邁進していきたいと思います。