季節をお手本にする生き方~歳時記~

かつての日本の暮らしには「歳時記」というものがありました。1872年に明治政府がそれまでの太陰暦を太陽暦に無理やり変更しました。欧米に追い付け追い越せと急いでいたため今までの日本の文化や習慣を強引に変更したことでそれまでのものが取り入れられず進化させることが間に合わなかったとも言えます。

そしてこの改暦の布告から施工までの期間はわずか23日間。従来の年中行事も慣習も全部無茶苦茶になり当時はかなり混乱したといわれています。当時の新聞には「世の中の絶無の例とされていた晦日に月が出るようになった」「十五日に仲秋の月もなく、三十日(みそか)に月の出る代と変わりけり」「三十日に月もいづれば玉子の四角もあるべし」などと書かれました。農家などは従来の慣習によらないと種まきから収穫までさっぱり見当がつかなくなったといいます。

そして季語を命とする詩歌俳諧の世界も混乱し「同じき年の冬(明治五年)十一月に布告ありて、来月三日は西洋の一月一日なれば吾邦も西洋の暦を用ふべしとて、十二月は僅か二日にして一月一日となりぬ、されば暮の餅つくこともあわただしく、あるは元旦の餅のみを餅屋にかひもとめて、ことをすますものあり(中略)、詩歌を作るにも初春といひ梅柳の景物もなく、春といふべからねば、桃李櫻花も皆夏咲くことになりて、趣向大ちがいとなれり」(浅野梅堂『随筆聽興』)とまったく季節と歴が分離されてしまいました。

旧暦を時代遅れと糾弾し、いきなり新暦に換えましたがそのことから長年日本人が季節と共に暮らし、自然と共生してきた智慧をも手放していきました。年中行事や慣習はそのころから失われ始め、今ではほとんどの家庭で年中行事が行われなくなり経済効果の高いイベントが新しい慣習として国民に根付いてきています。

歳時記というものはこの旧暦と共に存在していたものです。歳時記のはじまりは中国から渡来したものですが、それを日本の風土に照らしてはじめて著書として遺したのは貝原益軒です。書名は《重鐫(じゆうせん)日本歳時記》また《榑桑(ふそう)歳時記》ともいいます。

1688年(貞享5)3月京都日新堂刊され大本7巻7冊、半紙本4冊あり〈三百六旬の間の故実雑事を,唐土の文に出たるをば我国の文字にやはらげ,又我国の事をば見もし聞けるにしたがひて書つゞけ侍りぬ〉と述べて,民間を対象に歳時の事宜を叙述したとあります。四季12ヵ月に分かち,各月に公事,祭礼,農事,衣食等を年中行事風に配列し,異名,漢名,来由,故事を説き,図解や詩歌の作例をも掲げるなど啓蒙的な歳時記として今でも日本の伝統を確認できるものです。(世界大百科事典より)

二十四節気や七十二候など季節に密着して暮らしてきた日本人の姿が見えてきます。私たちは身の回りの自然と共に生きてきましたから、いつも周りの変化をみながら季節を常に観察していたとも言えます。

季節外れのというような感覚は、この歳時記に沿って生きてきたから察知できるものでありいつも歳時記に照らしながら変化に対して順応してきたから私たちは豊かに仕合せに生きてこられました。

今は歳時記が消え、人間都合の時間に追われ心の余裕やゆとりも失い、季節感もなくなりただ時間というスピードだけが加速度的に増してくる時代になっています。そのことから心を崩して疲れている人も増えてきています。

もう一度、日本人の生き方や暮らしを見直す時機が来ているように私は感じます、人間としての本来の幸福はこの暮らしの中に存在するからです。引き続き子どもたちのためにも歴史の問題点を見抜き、自分たちの時代で検証したものはすぐに改善していきたいと思います。