自然調和

昨日は自然農の畑で春野菜の種まきと、高菜の手助けをしてきました。毎年気候の差はありますが、特に今年は虫たちの様子が異なり昨年にはいなかった虫たちが大量に発生していました。

自然は、常に変化を繰り返し調和しています。気候というのは、常に中心を保とうとしますから暑くなれば寒くなり、乾燥すれば雨が降るというように片時も変化は已みません。その中で、自然と共に生きている生き物たちは同時に自分たちが変化していくことで自然の調和をいっしょに満たすハタラキをするものです。

例えば、ある虫たちが発生するというのは気候の変化に対してすべての生命は循環していますが何かが増えすぎるのを抑制しているとも言えます。同時に今度はその生き物たちが増えたものを調整するためにまたあらゆる植物や動物、生き物たちが増減しその生き物を中和します。つまりは自然一体にすべての生命は中心を維持するために助け合って共に悠久を生き続けていくのです。

変化というものの本質は偏れば戻り、戻れば偏るというように循環し続ける球体円環の中で調和することを言います。何度も行き来することは、調和しようとする作用であり、その行き来する中で最適を見出していくのが変化しているということです。

もしもこれを誰かの我儘や人間の一方的な都合で止めてしまえば、その歪は必ずどこかで出てきます。一つを止めれば、また別のものを止める必要が出てきて、それを全部止めようとすれば大変なエネルギーが必要になります。つまり多大な迷惑をかけてしまうのです。迷惑とは変化を止めるということです。

しかし実際には、私たち人間は自然の流れを人間の都合で加工していきます。ダムや道路、その他、薬や遺伝子組み換えまでして自分たちの都合で変えていきます。全体調和をする自然から離れれば循環からも外れますから余計にまた別のものを抑制するために多大なエネルギーを費やすことになります。

今はそれを産業と呼び、お金が流れる仕組みになっていますがもしもお金のために働かないような世の中であれば決して自然の道理に反するとばかりを繰り返す人はいないとおもいます。調和するのに自然に任せておけば解決するものをわざわざ人間の加工を使ってさらなる問題を増やしていくような暇はないからです。

人間は都合のいい技術を増やし一体何のためにいつまでこれをやるのだろうかと疑問にも思いますが、きっと短絡的にその目の前の非循環非調和するものをすぐに解決することに躍起になるのだろう思います。

自然に任せるというのは、例えば土が分解する力を借りたり、風化する力に任せたり、水の浄化力、太陽の燃焼力に委ねるようなものです。時間がかかるからと余計なことばかりしていたら、結局は意味のない資源の偏った無駄遣いです。

自然と共に生きていくというのは、自然の力を活かすということです。あるがままの自然に寄り添って変化していくというのは、「今はこういう調和が起きている」と信じて逆らわないことです。そのうえで、どのように対処していくか、それは自分から素直に順応して進んで流れに任せて調和していくことが必要になります。長い目で観て必要な変化はすべてこの調和によって行われていると信じることです。

収穫が多い年もあれば、少ない年もある。その工夫を調和をみながら様々な作物を育てて対応していたのが昔の農家の方々の智慧です。引き続き自然農をしながら、智慧を働かせて子どもたちに地球や宇宙と調和する価値を伝承していきたいと思います。