奥深さの感性

先日、ミマモリストのブログに「物事の深さ」に気づくことで未熟さが分かったとありました。人間が今に変化をし続けていくことは、この奥深さを知り続けるのようにも私は思います。

この奥深さについて少し深めてみようと思います。

「奥深い」を辞書でひくと「表から遠い。また、ずっと奥まで続いている。」「意味が深い。簡単には究めがたい。」とあります。言い換えるのなら、分かることがない世界とも言えます。知識では知りようがない場所、到底辿り着けようのない次元のようなものです。例えるのなら宇宙の果てのようなところが奥深いところというのでしょう。

この奥深さは知れば知るほどに自分の未熟さが分かります。この時の未熟さとは、自分が知らなかったことを知り、分かった気になっていたことが分かり、如何に自分は知った気になっていただけだったのかを自覚するのです。それにもう一つは、自然の畏敬を感じるかのように如何に自分がちっぽけな存在であったかということに気づくのです。奥深さに気づけるというのは、謙虚で素直な状態であるということでもあります。

また先に知っていれば不安も恐怖もないのでしょうが、知れば知るほどに好奇心の方は働かなくなってきます。不思議を思ったり、未知を感じようと思う感性は奥深さに近づきたいと思うところから出てくるものです。

学問の醍醐味もまたそこにあり、人は出来事や体験したことを振り返り内省することでその味わったことのない新しい価値に気づき、学び直すことができるように思います。

知りえない、分からないからこそそこに奥深さがある。奥深さとは感性なのです。そして人生の奥行きが深くなるのは、「その体験をどのように感じことができるようになったか」ということだと私は思います。

福に転じるチカラというのは、この奥深さのことを指します。

どんな出来事や物事であっても、それをどのように感じてどのように捉えるかはその奥深さの感性の中にあるものです。私たちの会社の戒訓の一つ、「分かった気にならない」は道を歩むものとしての大切な徳目です。

引き続き、子どもたちの歩んでくる道が未知の面白さ、好奇心に溢れる楽園になるように奥深さの感性を磨き上げていきたいと思います。