誠の道

自然農の高菜を無事に収穫することができました。全体的に小ぶりですが、生命力に溢れ芯のあるしっかりしたものに育ってくれました。今年は虫や猪のおかげで三回ほどやり直して種蒔きをすることになりましたが、諦めずに何度も何度も訪問しては祈るように育てた期間が今は懐かしく思います。

特に今年は、古民家甦生や地域への恩返しもはじまり、また本業の方も新しい展開が増えたりと体力も時間も精神力も根気もすべて注ぎこむほどのことばかりでその中でも余裕を持つことができていただろうかと振り返ると、長い目でみたらよくやったとほめてあげたいことばかりです。

物事には短期的な目線と長期的な目線があります。長い目でみている人は、今やっていることをお座なりにすることはありません。そして短い目で見ている人は、今やるべきことに全力を注力します。結局は、今というものをやり遂げるには遠大な展望を抱きつつ脚下の実践を怠らないということのように私は思います。

収穫した高菜は、天日干しをし一つ一つを丁寧に洗い塩をまぶして仮漬けをしました。これから数日経ってのち、ウコンと塩で本漬けを行います。昔は、商品価値があるかどうかではなく食べ繋いでいけるかどうかが大切でした。

今回、育った高菜はほとんど商品価値がありません。もっと大きく形がいいものでなければ売り物にはなりません。先日、椎茸栽培している農家さんと話したときも美味しいけれど椎茸が開いたら商品価値がなくなると嘆いていました。高菜も薹が立つと売り物になりませんが、漬物にするとこの薹が立っているほうが美味しいものです。

お金を優先してつくられた商品価値と、私が自然農に取り組んでつくられる価値はどれだけその価値が異なるのでしょうか。

今回の体験の価値は決して値がつけられるものではなく、唯一無二の掛け替えのない価値が光り輝いています。誰かによって価値を定められることに準じるのではなく、自分がどれだけそのものの価値を感じているか。そしてその価値のために命がけで挑戦するか、人生とはその連続のように私は思います。

時折、短期的に遣り切ったとき振り返るとなんでこんなことをやっているのだろうかと自問自答するときもあります。しかしそんな時こそ長期的に遣り切ってきた歴史を鑑みて自分の信念や魂の導きを省みます。

そうすれば、私の場合はすべて「子ども第一義」の理念や初心に適ったことを実践して経験を積み、それを先祖子孫への伝承だけではなく民族の魂として一緒に働く人たちに還元できているのが分かります。

「そんなことをして一体何になるのか」「それをやってこれから一体どうするのか」、そんなことばかりを聴かれる私の滑稽な人生ですが、これを思う時、吉田松陰の『世の人は よしあしごとも いわばいえ 賤(しず)が誠(まこと)は神ぞ知るらん』の句が心に響いてきます。

やろうとした動機が心に浮かんでそれが誠であると信じるのなら、やると決めたら遣り切るのが誠の道です。引き続き、自然に教えられ家に教えられ、そして体験に教えられる人生を歩んでいきたいと思います。