道は続く、歩み続ける

人生には出会いと別れがあります。そして道があります。道は続いていくものだから私たちは道を歩み続けます。道中に仲間ができて一緒に歩めますが、その仲間とずっと一緒に居られるとは限りません。一緒に居られるご縁というのは有難く、それは同じ道を歩み続けられるという奇跡の邂逅です。

私たちの会社の初心伝承ブックのはじめには論語の一文が入っています。

『子日わく、与に共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべし、未だ与に立つべからず。与に立つべし、未だ与に権るべからず。』

これは意訳ですが、孔子は言った「共に同じ道理を学ぶことはできても、共にその同じ道理を実践することは簡単にできるものではない。そして共に同じ道理を実践することができても、同じ認識に立つことは更に困難なことである。そしてたとえ認識を共有することはできても、同じ境地で運命を共にすることのできる人物は、滅多に得られるものではない」と。

私も理念を定め初心を歩んでいく中で、多くの出会いと別れがありました。道を歩むというのは、道の中にある本質や理念を深めて自分のものにしていくということでもあります。しかし実践といっても道理のままに実践できる日もあればできない日もあり、日々に実践を継続する中で実践を省みていくなかではじめて習慣となり心身に染み付いてきます。

さらに道理を実践していたとしても、分かった気になっているだけで同じ認識を持てるようになる人はかなり少なく、共に話しをしていても同じ認識で話せる人はなかなか現れません。それは実践からどれだけ本質や道理を掴んだか、それを捉え続けられるかといった本気の覚悟や決心、自己研鑽と自修錬磨が深くかかわっているからです。

そしてたとえ認識が同じ深さまで来たとしても、その境地を会得したままで人生丸ごと運命を共にでき天命に任せるままに一心同体になれる人はほぼいないということです。

私にはまだまだ自分や情が強くあり、どうしても出会い別れが慣れません。本来は道は続いていくものだから、歩み続けるだけで歩まないものを連れてはいけませんし、別の道を往くものを引き留めることもできません。

しかし思えばご縁というものは、一つの道を歩む中でどこまで道中をその人物と一緒に歩めるかということが道の途中でもあります。人生にはどこに往くのかと誰と往くのかもあります。私はどうしても誰と往くのかの方が興味があるようです。そして誰の人生にも必ず死があり、甦生し、また身体を入れ替えて引き続き道を歩める日が来るまで何度も何度も繰り返し出会い別れと共に歩み続けているともいえます。

そう考えてみると道中の複雑な想いや感情の中でも一緒に歩むことができる同志や仲間の存在が如何に奇跡であるか、そうやって道を共有できることが如何に仕合せであるかを実感するのです。

道縁はやはり無窮なのです。

最後に人生の醍醐味は、決して欲望や願望が満たされるときや結果の報酬や他人から認められることで得られないように思います。辛酸を舐め、諦めずに遣り切ったとき自分に誇りと自信を持ちその時々の道中の思い出が深い味わいを与えてくれるように思います。

いつの日か、ある境地を体得してまた出会える日を楽しみに待ちたいものです。その日に向かって私自身、決してご縁に恥じないような道を歩み続けたいと思います。

ありがとうございました。