ご縁を感じる力

人はご縁を感じる力というもので人生が変わっていくように思います。一つ一つのご縁の意味をどれだけ深く感じ取ってそれを実際の人生に活かすかはその人のご縁への感性に由るもののように思います。

例えば、ある人は起きている出来事を自分の思い通りかそうではないかというだけの分別だけで生きているとします。うまくいけばご縁があったといい、うまくいかなければご縁がなかったとなっていたらそのご縁はすべて自己中心的なものの見方だけで裁かれていることになります。しかし本来、そういうものはご縁と呼ぶものでもないようにも思います。

またある人は、一つのご縁の意味をしっかりと味わい深め自分にとってどうかよりもそれがどんな意味を持つのか、その出会いや別れ、つながりを真摯に受け止めそこから教えてもらったことを丁寧に学ぶ人もいます。ご縁を感じながら、一つ一つのつながりを結びそれを磨き続けている人はご縁を感じる力が高いとも言えます。

ご縁を磨く人は、どんな出来事や出会いに対しても丹誠を籠めて味わい一瞬一瞬の内省を怠らずご縁が訪れたものに誠実に向き合い、ご縁を引き寄せたものにも真心で対応し、ご縁が発生したことに感謝で順応していくのです。

このご縁を感じる力は日々の生き方や歩み方で磨かれるものであり、一期一会に生きようと決めれば自ずからご縁はすべて自分を磨く砥石になっていきます。

もちろん対人だけではなく、対物、そして対機会、対出来事、すべてにおいて自分にはわからない何かが発生していると謙虚に受け止め、それを活かそう、それをさらに伸ばそうとしている人は常にご縁の力が高まっていきます。

人は誰しも自分が今あるのは何の御蔭様かと内省すると、考えれば考えるほどにそれはあらゆるご縁の御蔭様であるという境地に至るように思います。だからこそ、この今に何の意味があるのかと常に自問自答しながらご縁を常に尊い境地で感じる修行が必要のように思います。

忙しさに流され、スケジュールに追われ、たた流されるような毎日を生きては結果や不安を解消するために使う時間ではなく、ご縁のために活かす時間にしていきたいものです。

一期一会を座右にしていますから、毎日はかけがえのないご縁そのものであることを自覚し丁寧に内省し歩んでいきたいと思います。

許し認める

人は相手に完璧を求めたり、自分と同じことを求めると相手を許せなくなるものです。自分とは異なる能力、異なる個性を持っている相手を尊重するのではなく、自分と同じものを期待して求めていてもそれは相手を理解しているのではないからです。

どうしても自分の理解を求めるあまり、相手への理解を怠れば思いやりに欠けてしまいます。わかってもららおうとするよりも、わかってあげたいと思う心の中にこそお互いを活かしあうコツがあるように思います。

人は自分のことを周囲や相手に認めさせたいや認められたいという承認欲求が高くなりすぎればなりすぎるほど、許せない気持ちも大きくなっていくものです。自分を認めてほしいと求めるよりも、先に自分が認めることができれば許せる心が育っていくようにも思います。

許さないで認めないというのは、周りに自分を認めさせたいや認められたいという心の現れのようにも思います。そのことから周囲の人間関係とこじれたり、敵対したり、トラブルに発展しているようにも思います。

マハトマガンジーに、「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、
強さの証だ。」という言葉があります。相手の思想や立場、また相手の能力や個性、相手の言い分を自分が先に認め、お互いに自分の信じる道を尊重し合おうと思いやれば長い目で大きな広さでみれば協力し合っているようにも思います。

本来は、同じ目的のために頑張っているのだから発展途上の中で自分の未熟さが周りに迷惑をかけることがあります。自分だって間違うことがあるし、相手もまた間違うこともあります。ガンジーはこう言います。「間違ったことをしている人を見たら、自分だって間違いを犯したことがあると思い起こそう。欲深い人を見たら、自分もかつてそうだったと思おう。こうやって世界中のあらゆる人に自分との共通点を見出せば、自分の幸せと同じように、人々の幸せを願うようになるだろう。」

思いやりで物事に接するならば、同じことを求めるのではなく自分との共通点を探し出せます。それはお互いに大変であることをいたわり、共にできることできないことがあることがわかり力を合わせたいと思うようになります。

最後に、「こんな世の中になって欲しいとあなたが願う世の中に、あなた自身が変わっていかなくてはならない。」といいます。

お互いの持ち味を活かしあえ、みんなで楽しく豊かで仕合せな社會を自然のいのちのように存分に発揮して生きるためにも、許すこと、認める実践を積み重ねていきたいとおもいます。

豊かな心

世の中にはいくら対立を避けていこうとしても対立するものがあります。お互いに思想が異なれば、それぞれに大切な守りたいものがあるのだからそこに引けない一線というものがあるものです。

そのこだわりや信念がぶつかり合えば時と場合によっては泥沼の争いに発展していくこともあります。お互いの主張やお互いの理念に対して、談笑のうちに語り合えればいいのですが時として守っているものがあるからこそ本気でぶつかり合うこともあるのです。

その中で相手を否定して排除するのではなく、いかにお互いの理を受け容れて協力していくか、これは人類に課せられた一つの大きなテーマのようにも感じます。先人たちはどのようにそれを乗り越えて、平和を築いてきたか、そして大和といわれるように民族の精神を磨いてきたか、私たちは正対する必要があるのかもしれません。

かの松下幸之助氏は、対立ということについてこう語っておられます。

「対立大いに結構。正反対大いに結構。これも一つの自然の理ではないか。対立あればこその深みである。妙味である。だから、排することに心を労するよりも、これをいかに受け入れ、これといかに調和するかに、心を労したい。」

対立することも自然の理とし、そのことで深みが出てくる。それが自然の妙味であるといいました。だからこそ如何に受け入れ調和するか、心の持ち方次第であるというのです。さらにこうも言います。

「競争も必要、対立することもあっていい。だが敵をも愛する豊かな心を持ちたい。」と。

この「敵をも愛する豊かな心」とは何かということですが、これは私は素直な心ではないかと思います。相手の言葉をその通りだと受け容れながらも、自分自身の中の答えには嘘をつかずに生きていくということ。つまりはお互いに異なっているものがあったとしてもそれを認め、その中でお互いに自分の答えを生きていこうとする真実の姿です。それぞれに役目ががあり役割がありこの世に出てきたからこそ、無理に違うものを同じ形にはめ込むことはできません。だからこそお互いの存在を尊重し合い、素直に認めて自分にしかできないことにそれぞれが専念していく。邪魔し合うのではなく、それぞれが見守り合うという関係になるということです。

豊かな心を持つことができるのなら、世の中は繫栄し平和が訪れると松下幸之助氏は信じたのではないかと私は思います。

松下幸之助氏の理念、「素直の心」にはこう記されます。

「素直な心とは、寛容にして私心なき心、広く人の教えを受ける心、分を楽しむ心であります。また、静にして動、動にして静の働きある心、真理に通ずる心であります。素直な心が生長すれば、心の働きが高まり、ものの道理が明らかになって、実相がよくつかめます。また、そのなすところ融通無碍、ついには、円満具足の人格を大成して、悟りの境地にも達するようになります。素直な心になるには、まず、それを望むことから始めねばなりません。喜んで人みなの教えを聞き、自身も工夫し精進し、これを重ねていけば、しだいにこの心境が会得できるようになるのであります。」

この心境を会得するために、日々に素直という字を書いて精進されたといいます。もしもこのような豊かな心が持てるのならば、対立もまたお互いの妙味を味わう大切なご縁に換るのかもしれません。

引き続き、いただいた機会から学び直し自分の生き方を高めていきたいと思います。

 

 

ねぎらう

人間は誰しも何らかのことで役に立ちたいと願うものです。たとえ苦労をしてもそれが役に立っていると思えば人はその苦労の甲斐があったと感じるものです。ねぎらうことやいたわることは、相手への感謝と思いやりでありそれができてはじめてお互いに助け合い協力を形にしていくことができるように思います。

この「ねぎらう(労う)」は、辞書によれば苦労や骨折りに感謝しいたわるとあります。またねぎらうというのは、働くという意味でもあります。働くことがねぎらうことであり、お互いの働きに感謝していくというのが本来のねぎらいです。

またねぎらうの語源は「ねぐ」であり、これは神を慰め、恵みを祈るという意味でもありました。

当たり前ではない存在に如何に感謝していくか、そこには「いつもありがとう」や「苦労をかけたね」とか「お疲れ様」とか、「助かります」とか、「無理しないでね」といった相手を思う思いやりが生きています。

それは目上から目下へなどのねぎらいではなく、お互いに当たり前ではない働きに感謝していこうとする思いやりの言葉をかけていくということです。

人は、労い感謝されればさらにやる気が出てきます。逆にどんなにやる気があっても、感謝されていないと思えばやる気は減退してしまいます。人間は感謝することによってお互いを活かしあい、感謝によってお互いの存在の価値を感じ合うのです。

どのような心で相手に接するか、親しい仲こそ日ごろの労を労い、感謝の言葉でお互いに伝え合うことが一緒に生きている証であり、共に苦労を分かち合い生きていく仕合せを味わうことのように思います。

言葉は、心を映す鏡ですから自分の使っている言葉が感謝になっているか、思いやりで満ちているかを常に反省し、日々を改善していきたいと思います。

変化を楽しむ

色々な物事を進めていく中で、人は何のためにそれをやるのかと何度も向き合う機会をいただけるものです。この問題は一体何か、何を教えていただいているのか、ここから何を学びとるのかと物事に対して素直である人は変化を楽しんでいくことができます。

感情や怒りは、自分が変化しなければならない合図でありその時こそ如何にそれに早めに気づき自分の方を変えていくかで人は成長し前進していくことができるように思います。

人間にはそれぞれの価値観があり、それぞれに引くに引けない自分の信念のようなものを持っていることがあります。そういうものがぶつかり合い敵対するよりも、あなたの考えもまた一理あると認め合いお互いの持ち味を生かして助け合うことの方がより仕合せに楽しく協力し合っていけるように思います。

しかし実際には、自分が正しいとそれぞれの正論をぶつけてはお互いに争い疲弊して最後は戦争のようになってしまうのはお互いを認め合う対話を避けてしまうからのように思います。

変化を避けるために対話をいつまでも避けていたら、お互いのことを理解し合い認め合い協力をすることもできなくなります。どうしても関わらなければならないところがあるのならばやはり対話を通してお互いの考えを尊重しながら歩んでいくしかありません。

変化というものが急に来てしまうと、人はそれを怖がり不安になるものです。しかしその変化は学び気づくためのチャンスだと前向きに捉えることができたならその時点でもう変わっているということになります。

斎藤一人さんに「困ったこと、嫌なことが起きたというのは、あなたの間違いを神さまが正そうとしてくれているのだから『悪いこと』ではありません」というものがあります。

自分が何を間違えたか、自分が何の配慮が足りなかったかと、自分の思いやりが欠けていたことに気づけばそこから反省し新しい自分に出会っていきます。

さらりとしなやかに変わるのは素直さと謙虚さ、感謝が必要ですが怒りが来たときこそ自分が変わるチャンスだと受け止めて本来の目的や初心に立ち返り、自分が間違っていることに気付けるような生き方をしていきたいと思います。

子どもたちもまた多様な価値観の中で、社會を形成していきますから自分自身も子どもたちの一つのモデルになるようにお互いの理を合わせて協業できるような仕事にしていけるよう精進していきたいと思います。

教育のありがたさ

昨日、ある高校で一円対話を通して関わった高校生たちと一緒に一年間の振り返りを行いました。振り返りは動画を編集し、それぞれの生徒たちの写真と先生からのメッセージ、理事長からの感想などが入り一緒に見た場はとても豊かで幸せな時間でした。

私も高校1年生から一緒に関わる中で、自分たちの会社と同じようにそれぞれが主体的に働き持ち味を生かすような場や環境を醸成できるように関わってきましたがまるで自分の会社にいるかのような安心感と落ち着きがクラスの中にあります。

一人一人の人柄や人間性が保障され、いつもオープンに素のままでいられる環境の中でみんなとても素直に育っていきます。一人一人が認められ自分らしくいられ、自分のままでいいと感じられる空間は居心地がいいものです。

実際に教育の現場に関わる中で感じるのは、教育のありがたみです。昨日理事長と話をする中で印象に残ったのは「大人にとってはたった3年間でも、生徒にとってはこの3年間は一生の中で何よりも大切な3年間になるからこそ私たちは一緒にその時間を生徒と味わうことが必要なのです」と仰っていたことです。

大人になっていくにつれて、私たちはさらにいろいろなことを体験し自分が変わっていきます。私たちは思い出の積み重ねによって人生を作り上げていくのです。その時、この学校で学んだ期間や思い出がその後の人生にとても大きな影響を与えたことを実感します。あの頃の仲間との思い出や先生からの真心や愛情、周囲の大人たちの生き方や関わり、そして忘れられないような楽しい体験、そのすべては教育のありがたさであったと感じるのです。

この教育がありがたさを感じるのは、思い出を懐かしむ自分の心の中にこそ生きています。今回一年間を通して関わったクラスのように、他人の話をしっかり傾聴し、共感し、受容し、みんなで気づいたことから学び直し、味わい深い一期一会の時間を仲間や師友と共に過ごしていく中で私たちは道中の自分自身の思い出を築き上げていきます。その築き上げた思い出はその後のその人の人生を支え、その後の人生に自信と誇りを育てていきます。

一人一人がよりよく生きていくために「心の持ち方を共に学ぶ」ことは本来の学校の本質でもあり、学校が子どもたちの心の楽園になることで未来の社會もまた変わっていきます。どのような社會にしていきたいか、どのような思い出を残していきたいか、それはどのような教育を志していくかに懸かっています。そしてそれは日々の学校生活を通して培っていくのです。

自分たちの生き方や背中が子どもたちの心のそのままに反映していくからこそ、私たち大人はその生き方や生き様を磨き上げていくことを已めてはならないように思います。

今回は改めて教育のありがたさ、教育者の生き方を考え直すいい機会になりました。

引き続き、子どもの憧れる生き方働き方の理念を実践して子ども第一義の理念を優先していきたいと思います。

運のいい人

現在のパナソニックの創業者、松下幸之助氏は人を採用するときに運がいい人かどうかを基準にしていたといいます。「あなたは運がいい人ですか?」という質問で運が悪いと答えた人はどんなに優秀な人でも採用しなかったといいます。

それにはこだわりがあり、松下幸之助氏はこういいます。

「わしは運命が100%とは言っておらん。90%やと。実は、残りの10%が人間にとっては大切だということや。いわば、自分に与えられた人生を、自分なりに完成させるか、させないかという、大事な10%なんだということ。ほとんどは運命によって定められているけれど、肝心なところは、ひょっとしたら、人間に任せられているのではないか。」

この「運のいい人とはいったい何か」ということです。

人はどこで生れ落ちるかも性別もどのような姿で出てくるのかはわかりません。与えられた場所で与えられた役割を果たして地球の中の生命の一つとして循環していく存在ともいえます。

自分に与えていただいたものを選んでいる人というのは、自分を誰かとの比較によって運の良し悪しを判断していくものです。どんな天命があって何をするのかは自分ではきめられないのだからそこに不平不満を言っても仕方がないともいえます。

運が悪くなるというのは、自分の運に対して素直になれず不足ばかりを思うことで運を高めたり伸ばしたりすることができなくなります。実際に運を伸ばす人はどのような境遇にあったとしてもそこに幸せを感じて豊さを周囲に広げていくものです。

もしもそういう人が集まれば、自然界の豊かな生態系がイキイキと働くように幸運の楽園ができていきます。もしも不平不満ばかりを並べてはいつまでもないものばかりを数えてあるものを観ようとしなければ運が悪くなっていくものです。あるがままの生き物たちは生きる力があり元気があります。

天が与えてくれる機会やご縁に対して謙虚に「何を教えてくださっているのか?」と自分自身を見つめる人は運を伸ばしていくことができます。そしていつもその自分に与えられた運に感謝できる人は運を高めていくことができます。

運のいい人というのは、なんでも自分がやったとは思っていません。それは出来事は運に由って行われその運に対して学んでいく人であるから自他ともに運のいい人になるのです。だからこそ自分は運がいいと言える人は、どんなことからも学び成長して道に入り目的を成就させていくように思います。

そしてその運の要素として運を「待てるか待てないかは信じる力に由る」ように思います。その信じる力がある人は運のいい人であり、信じることができない人は運を活かせない人ということになります。運を伸ばし高め活かせる人、つまり運を信じて待てる人こそ運のいい人であり、きっと松下幸之助氏はこの運のままに生きた生き方を貫かれた人物だったのではないかと私は感じました。その運を待つためにする努力こそ、人間に与えられた精進ではないかと思います。

最後に松下幸之助氏のことばです。

「成功は自分の努力ではなく、運のおかげである」

運の御蔭であるといえる人生は幸福です。子どもたちのためにも引き続き運命に対して選ばない生き方を実践して信じる背中を見せていきたいと思います。

いのちの智慧

聴福庵の土壁の打ち合わせを伝統の左官職人さんたちと一緒に行いました。土壁の修理はこの古民家甦生はじまってからの念願であり、呼吸する家にとっては土壁の存在は欠かせないものです。

現在は、ほとんど化学合成のクロスやコンクリートなどで家の壁面を内装していますが風土や気候のことを考えれば高温多湿の日本では土、紙、木がなければ快適に過ごしていくことができません。

化学合成のクロスや石、プラスチックは水をはじくので常に乾燥させるために空調を運転させていなければなりません。そして密閉空間にして水が外から入ってこないようにしなければなりません。

先祖の建築における智慧はもともと快適かどうかもありますが、どれだけ永く持つ建物にするかということも大切になっています。数十年程度で腐食し倒れてしまうようなものを先祖は建てようとはしませんでした。子孫のことを考え、代々家がない暮らしをしなくていいようにと自分たちの代を真摯に発展させ次世代へと譲っていったように思います。

だからこそどのように生きるのか、何をするのか、そのようなことを家を中心に組み立てたように思います。

昔の家屋は確かに隙間風が入ってくるし、冬は寒いです。しかし冬には囲炉裏の火を囲み煤で家屋を燻製にして腐食を防ぎ家を生き永らえさせます。もしも燻すのをやめて空調にすれば燻されない家屋は傷んでいきます。そしてもっとも蒸し暑い夏には風を通すことで家を新鮮に保ちます。春はその煤や埃を落として水気が家屋に溜まらないように清潔にします。秋は、冬の準備に建具の入れ替えと合わせて掃除をします。

民家での暮らしで観えてきたのは、一年間の四季を通して日本家屋を維持する知恵にあふれているということです。その季節季節に暮らしを維持するのは、日本の気候風土に合わせて家を守っていく智慧であるということです。

今の家は人間の都合で建てる建物ばかりです。しかし先祖は、太陽や月を眺め自然の四季折々に暮らしにつながるように建てていました。それはいのち永らえる智慧、無病息災に生きる智慧、家や道具を長持ちさせるための智慧、豊かな人生を送るための智慧が凝縮されてあったのでしょう。

世界には多様な風土があるような多様な智慧があります、確かに西洋から入ってくる新しい技術や智慧もどれも目新しく感じられ感動するものです。しかし日本古来からのこの日本風土で醸成された智慧の偉大さはこの民家での暮らしによって改めて目覚める思いがします。

子どもたちに日本の伝統文化が伝承できるような場を引き続き醸成し、暮らしを見直していきたいと思います。

暮らしの見直し~火の智慧~

聴福庵のトイレの壁紙は手漉きの和紙にしましたが、他の木の部分は渋墨を塗りこんでいきました。この和紙と渋墨のコントラストと香りが味わい深く、心地よい空間ができあがりました。自然物の色合いは化学塗料の色合いとは異なり、和かい雰囲気がでます。

今回、用いた渋墨ですがこれは松の木の煤と柿渋を混ぜてつくられます。効果は防虫防腐の効果があります。以前、竪穴式住居のある遺跡を訪問したときも真ん中に囲炉裏がありそれが家全体を保ちました。煤竹などもそうですが、数年でなくなるはずの竹が煤竹になることで百年以上、数百年形をそのままに保ちます。

燻製と同じ仕組みで細菌やカビが寄り付かず、さらに外気からの風化を遮蔽する効果もあるのです。囲炉裏で家を燻すのは病気の予防でもありました。ウイルスや細菌は煤を嫌いその空間の中に長く留まることができないのです。寺社仏閣では線香や蝋燭によって空間を清潔に保ちますし、僧侶や山伏もまたその煤を身体に纏っていることで病害虫から身を守るのです。

この煤で身を纏うことの智慧はその後塗料として室内装飾にも活用されていきます。書家が用いる墨汁もそうですが、煤を使えればあらゆるものを長持ちさせていくことができるのです。それが次第に着物や室内装飾にも活用されていきます。

民家が長く続き、古民家として維持するためにはその家が自然淘汰の仕組みの中でもいのち永らえる智慧がなくてはなりません。特に日本のような高温多湿の風土の中では、この火と煙、煤、炭、灰、といった火の智慧が必要なのです。日本は水が多く、水気がありとあらゆるところにあふれている風土の中にあって如何に「水と火の調和」を工夫し施すか。それが私たちがこの風土の中で末永く暮らしていく智慧であったのは間違いありません。人類はこれらの智慧を働かせることであらゆる環境に適応していったのです。

現代は風土を無視して昔の智慧を暮らしから排除していますが、風土そのものは以前から何も変わっていません。変わったのは風土を無視した人間が変わっただけです。何百年も何千年も、この地は緩やかな変化の中で周りの動植物は風土の智慧と一体に生きてきました。私たちはこの風土の中に如何に共に生き延びるのかを工夫してきたのです。

近代化という歴史の中で、電気やガス、石油を使って無理矢理に人間が風土を無視して人間の快適さを追求したことで様々な公害や問題が出てきています。温暖化や環境汚染の理由はすべて人間が巻き起こしたものです。その対処療法にかける税金や子孫への負担はますます大きくなりもうほとんど手の施しようがなくなってきています。

私たちの世代はもう数十年で死にますが私たちの子どもたち、そしてその子どもたちの時代はどのような風土環境が残されているでしょうか。それを思えば、いつまでもこの美しい風土をそのままに譲りたいと願うのではないでしょうか。

日本を変えるのは一人ひとりの暮らしを変えることです。

先祖たちから生き方やあり方を学び直して今の世代の責任者として自分のできるところから暮らしを見直し、暮らしの改善を進めていきたいと思います。

 

 

 

智慧の甦生

時間をかけてゆっくりじっくり少しずつやるというのは周囲への思いやりにもなっています。私は性格上、昔は勢いで一気にとやっていましたがその分、周囲の人たちにたくさんの迷惑をかけました。今でも、時には癖でそうなることもあるかもしれませんがそういうときこそ急いでいないか、焦ってはいないかと気を付けるようにしています。

自然の力を借りるとき、何よりも必要なのはこの「ゆっくり」ということです。そしてそれを受けてこちらは「じっくり」というものがいいように思います。英語ではスローだとか言われますが、これは私にとっては自然の流れに従い、自然の流れに沿うということです。

しかし実際には今は、タイムスケジュールで世の中は動いていて自然とはかけ離れたところで時間は流れています。そのせいか、すべての行動や時間が人間都合になってしまっていて誰かに合わせて日程を調整しなければならないためそれぞれに自分の時間を取り合っているようにも思います。

かつては自然の四季のめぐり、悠久の変化に合わせて人間側が合わせていましたから地域でのお祭りや行事、農事なども一緒になる機会が多かったように思います。これは人間に限らず、あらゆる草花や動物たち、昆虫たちとも自然のめぐりの中で出会って共に感謝の暮らしを味わってからのように感じます。

季節の室礼についても、室内に四季への感謝を取り入れることで人間都合の時間の流れに対して自然の流れを忘れまいとした先祖、もしくはそのころの懐かしさを味わい豊かな情緒を楽しんでいたのかもしれません。

梅雨になれば梅雨の情緒、花鳥風月の美しさが彩られていきます。それはすべてにおいて自然の流れの中で同時にいのちが時々の自然と調和していることを意味します。

私たちは今一度、人間だけが進めてしまっている時を見つめ直し、そして進みすぎてしまった文明を省みる時期に入っているようにも思います。日本は世界の役割の中で必要なのはこの自然と共生し暮らしていく智慧の甦生ではないかと私は感じます。

引き続き子どもたちのためにも、智慧の甦生につとめていきたいと思います。