名将の生き様

昨日から福岡県の柳川市に来ています。以前、流鏑馬で訪れたことがある三柱神社で戦国時代の名将で名高い立花宗茂に興味を持ち今回はその所縁を深めています。

この立花宗茂という武将は、文武両道の名将で、連歌・書道・茶道・香道・蹴鞠・狂言・能楽・笛・舞曲・料理・竹製花器・手作り仏像・弓製作など多彩の技芸にも長けていた文化人とされています。戦上手だけではなく、温厚で誠実、そして義理堅く正直であった武士の中の武士であると評されます。

かの豊臣秀吉も秀吉は19歳の宗茂を「その忠義も武勇も九州随一、九州の逸物」といい、徳川家康も宗茂を畏敬し賞賛していたといい、二条城に上洛した際、本多正信が武田信玄、上杉謙信、織田信長等の名だたる武将と比較して殿がそのように褒めるお方は誰かと問うと「天下に隠れなき立花宗茂が事よと宣ふ。」といったそうです。

この立花宗茂は厳しい時代を生き残る智慧は、戦略としても参考になりその生き方や経営はとても共感するところばかりです。戦国時代では上杉謙信と共にとても尊敬している武将で、その逸話や格言、軍略からも学ぶことばかりです。

「例えば、かの上杉謙信公は8千程度の兵を用いて戦をするのが己に適していると言われたそうだ。かく言う自分は経験上2千程度の兵数が手足の如く操れると感じたものだ。つまり大将の才、能力に適した兵力は大将の数だけあるという事。兵力の大小に固執するより己の武の型を見極め、それに見合った兵を揃えたほうが良い結果が得られるだろう」

これは私は何よりも共感するもので、人は数ではなくその戦略に応じてもっとも自分に合ったものを見極めるということが大切であるということです。己の型を見極め、それに見合った分であることがいいといいます。野戦を得意とする上杉謙信や立花宗茂もまた兵の数ではなく、そのもっとも武が活かせるかどうかということを言ったのではないかと感じます。

野戦というものは、野生のように戦いますから如何に磨かれて意思疎通がとれた仲間と共に戦うかというのが重要です。立花宗茂は人をとても大切にしたといいます。そこにはこういう言葉があります。

「特別に何流の軍法を使うわけではない。常に兵士に対してえこひいきせず、慈悲を与え、国法に触れた者はその法によって対処する。したがって戦に臨むとみな一命をなげうって力戦してくれ、それがみな拙者の功になる。その他によい方法はない」

「大将がいかに采配をとって、ただ“進め”とか“死ね”とか言ってみても、そのような下知に従う者はいない。常々上は下を子のごとく情をかけ、下は上を親のように思うように人を使えば、下知をしなくとも思い通りに動くものだ」

「戦いは兵数の多少によるものではない。一和にまとまった兵ではなくては、
どれほど大人数でも勝利は得られないものだ。」

この立花宗茂の強さは、守る強さ、大義の強さ、その生き方の強さでもあると私は思います。いざ戦になったときはこの強さが一和して家族的な和の団結力で協力できるのです。

関ケ原で何度も家康からいかなる恩賞で誘われても、「秀吉公の恩義を忘れて東軍側に付くのなら、命を絶った方が良い」といい西軍が負けて柳川に戻ったときは領民から命を共にし殿と一緒に戦うといった領民をなだめ、その後、柳川に戻ったときはその領民の子どもたちから大変歓迎された逸話もあります。また家臣がみんな浪人になった立花宗茂に着いていこうとしあまりの多さにくじで決めたともいいます。

浪人になった後は、家臣たちがみんなで何かしら働き仕送りをし続けたといいます。あるものは虚無僧になり托鉢して宗茂のために食事を集めたといいます。そのエピソードの一つに加藤清正に仕えた家臣の小野和泉があります。

小野和泉は清正家臣団からたびたび嫌がらせを受けていたようですが、清正家臣団から「わが主(清正)は勇猛でたびたび敵将の首をとった」と自慢すると小野和泉はおもむろに上半身裸となり、全身60余ヵ所ある傷のうち上半身40数ヵ所の傷を見せその傷を1つ1つ説明したといいます。 清正家臣団がたまりかねて「もういい。夜が明けてしまう」と言ったところ、「我が主(宗茂)を奮戦させないように我は務めたが、お主らは主が奮戦している間どこにいた!」と一喝したといいます。自分の主の自慢ではなく、主に奮戦させないように務めたというところに立花の家臣としての実直さ誠実さを感じます。

さらに立花宗茂の教育者としての逸話もあります。

寛永11年(1634)、宗茂は安東助四郎(あんどうすけしろう)という家中の少年がおり、その彼が13歳のときに藩の文教面における指導者に育てようと思い立ちます。翌年、宗茂は助四郎を江戸に呼び出し、嗣子・忠茂の近侍に登用し学問に励むよう命じました。

宗茂に急に登用され学問に打ち込む助四郎の姿に他の藩士たちから嫉妬をかい助四郎は病を理由に職を辞し、柳川に帰ってしまいます。しかし宗茂は、忠茂と連名で助四郎にこのような手紙を送りました。

「病はいかがか。容態はどうかと心配している。だが帰国した理由はそればかりではあるまい。お主の勉学は我らが認めたもので、我らはお主のことを少しも疑ってはいない。お主に何かと申した者たちはこちらで吟味する。どうか、気を取り戻してほしい。お主が確かな人物であることは、わかっている」と。

この心のこもった手紙に心打たれた助四郎は、発奮して一層学問に励み後に安東省庵と名乗り「関西の巨儒」と謳われる大儒学者となり柳川学問の祖となります。

この立花宗茂という人物は、戦国時代のただの戦上手で強いだけの人物ではないことはすぐにわかります。その生き方としてのお手本となるものが多く生涯、自分の信条、そして「第一義」に生きた人物でもあります。

時代がいくら変わってもその生き方は燦然と輝き続け、厳しい時代をどう生きていけばいいか、どのように経営すればいいかという模範になります。人を大切にするということがどういうことか、そして何をすることが義を優先しみんなを守ることか、引き続き学び直していきたいと思います。

無名の信仰

古民家甦生を通して信仰について深めていると、改めて官位や名がなく実践される尊さについて見直すことばかりです。今では、職業として様々なことが分かれている時代でもあります。

例えば、福祉や宗教、ボランティアや医療など職業によって区分されています。本人の生き方がどうこうではなく、こういう職業の人だと分類わけされて整理されます。なのでなぜこの人は社長なのにこんなことをするのかとか、なぜ農家なのに漁師のようなことをするのかとか、宗教者なのになぜあんなことをするのかと、職業の方ばかりを見てはその人の生き方の方はなおざりになっていることが多いのです。

世の中のニュースをみても、その人の生き方がどうかが語られず、この職業の人がまさかこんなことをというように分類分けされた職業やその人の官位によって分別されてその内容を報道されます。

本来、生き方と働き方は分かれているものではありません。それは職業である前に、生業であります。つまりはその人の生き方が職業になっているのが本来であり、先ほどの信仰の例でいえば宗教が先にあって信仰があったのではなく、信仰そのものがあるとき職業として宗教というものに分別されたということです。

かつての天神信仰や愛宕信仰、山岳信仰など信仰と名のつくものはすべて無名の信心の上に成り立っています。先日の参拝しながらお地蔵さんに榊や水替えをしながらお参りをする清々しかった方のように信心をする人たちの他力によってその信仰はいつまでも守られていくのです。

そしてこれもまた道の一つです。

民藝運動の指導者、柳宗悦氏が無銘の陶器について語った言葉がありますが私はこれもまた信仰の姿の顕れのように感じます。

「無銘品はごく平凡な人たちの仕事であるから、もしそこに美しさがあるとすると、それは個人の力から湧き出たいわゆる自力の美ではなく、大勢の人たちが愛情を通わせ支えてきたといういわば他力の美に他ならない。何か人を超えた力が背後に働いて作品を美しくさせているのである」

・・・大勢の人たちが愛情を通わせて支えてきたという他力の美。

まさに私は信仰にはこれを感じずにはおれません。天神信仰についても、産業革命以前は全国各地で人々の間で土人形がつくられ毎月25日は天神さまをお祀りする日として親しまれてきました。人々の愛情を通させてきたからこそ信仰は育まれたのです。

そして、「何か人を超えた力が背後に働いて作品を美しくさせる」という言葉。

まさにその御蔭様の力によっていつまでもそのものが神々しくいのちを宿らせ輝かせ続けるということです。神社の境内を清掃したり、古民家の手入れを愛情をもって行うなかでそのものが神々しく清々しく光輝く様子を何回も見てきました。

その都度、私は人が真心と愛情をこめて無我に磨いたものにはそこに本来宿っいたものが甦生するという感覚が出てくるのです。このいのちを磨くということは、信仰の原点であり、そこに真心を盡して実践することでさらにその徳が高まっていくのです。

私は無名ですし、何の官位も持っていません。

しかし信仰についての思いは心の中にあり、その御蔭様の偉大さにいつも心は見守られている実感があります。世の中の刷り込みを取り払い、本来の原点、その初心伝承を究めて伝承していきたいと思います。

煤竹の伝承

現在、おくどさんのある厨房の天井に時代ものの煤竹を磨き直して設置しています。最近の家屋ではほとんど見かけなくなりましたが、本来この煤竹は私たちの先祖が編み出した偉大な智慧の一つです。

普通の竹は、そのままにしていればすぐに乾燥して割れて朽ちていきますが煤竹にすると百年から数百年、生き続けて形を維持します。煤竹についてはウィキペディアにはこう紹介されます。

煤竹(すすだけ)とは、古い藁葺き屋根民家の屋根裏や天井からとれる竹のこと。100年から200年以上という永い年月をかけ、囲炉裏の煙で燻されて自然についた独特の茶褐色や飴色に変色しているのが特徴。煙が直接当たっている部分は色濃く変色しているが、縄などが巻かれて直接煙が当たらなかった部分は変色が薄く、ゆえに1本の竹に濃淡が出て美しい表情をもつ。昨今は煤竹そのものの数が希少傾向にあり、価格は1本で数十万円以上することも普通である。」

今回の煤竹は、富山県のある藁葺きの数百年前の古民家から譲っていただいたものです。この飴色になった煤竹は、囲炉裏を中心に代々の家族が食卓を囲み、そこで様々に暮らす人々の物語の様子を見守りながら生きてきたものです。

私たちよりも数倍以上長く存在する煤竹の光や模様からは、改めて息づいてきた時代を感じさせその煤竹を天井に設えれば不思議な空間を演出してくれます。

この煤竹は、他には工芸品に形を変えて暮らしの道具にもなります。私が常備している煤竹の箸や、聴福庵に置いてある炭斗や花かごなども煤竹が加工されたものです。虫にも食べられず丈夫で、そしてうっとりする美しい光を放ち何よりも長持ちします。

囲炉裏を使い燻し続けた先人の智慧は、とても偉大で高温多湿の厳しい環境下にあった日本の民家はこの「燻す」ことで長持ちするのです。風を通すため隙間の多い日本家屋は、敢えて外と中の境界を創らずに自然のままに建てられます。だから虫が入ってくるし、またカビなども発生しやすいので燻すことをやめればすぐに傷んでしまうのです。

しかしこの煤竹のように囲炉裏の火で燻していけば何年も、また何百年も家が酸化せずにカビの増殖を防ぎ、防虫効果、さらに病原菌からも防護できます。まさに風土に沿った偉大な仕組みがこの煤竹に適応されているのです。

煤竹の甦生は、日本の智慧を甦生することでもあり、時代感のあるこの煤竹がおくどさんの部屋の天井にあることで一気に古民家の風合いがよくなります。長く共に暮らしてきたパートナーがまた新たに私たちの食卓を見守ってくれるという安心感。

子どもたちがいつの日かこのおくどさんで食事をするときもまたこの煤竹が見守ってくれると思うと有難い思いがします。古民家が少なくなってきた現代はこの囲炉裏で燻された時代感のある懐かしい煤竹を見かけることも少なくなりました。

引き続き子どもたちに先祖の智慧が途切れないように、一つ一つ丁寧に復古創新していきたいと思います。

自然循環型の未来

あるものを長く使うという考え方は古来から私たちが暮らしの中で培ってきた智慧です。それは衣食住はじめ、資源が今のように摂取できない時代だったからこそどんなものでもできるだけ長く使おうとしたともいえます。

それは今までの歴史の中で、そんなことをすると滅びることを本能が知っているからです。人は少ない中で工夫することの方が長い歴史があり、ありあまるほどの量の中でどうしていいかがわからないとも言えます。

人類は何をすれば滅びないか、それを常に探求してきたはずですがもっとも滅ばないという感覚になったときが一番危険なのかもしれません。当たり前のことがわからないということが何よりも感覚が鈍っているからです。

ネイティブインディアンの言葉に「蛙は自分の住んでいる池の水を飲み干したりしない。」とあります。自らそんな馬鹿なことをしないと揶揄していますが、人間は空気を汚しいよいよ住みにくい世界に変えてきています。

大事な資源を如何に汚さずに使っていくか、たとえ不便であったとしてもその不便の持つ側面として豊かさ、周りを活かして尊重する仕合せを大切に暮らしてきたとも言えます。循環型社会とかいっても、人間中心の循環型と地球を中心にしたときの循環型では意味が異なります。本来の循環型とは、分を弁えて分度を守ることにあるように思います。そしてその分を超えるものを少しでも子孫へ譲っていくということでしょう。二宮尊徳の言うような、分度、推譲、勤労、至誠は地球中心の循環型の至言でもあります。

また生きている先祖としての祖父母の体験の智慧が、子どもたちに生き方の判断を投げかけてきます。そういう意味で如何にそのお年寄りと子どもたちが智慧を分かち合うことが人類存続の鍵でもあります。

先ほどのネイティブアメリカンの言葉に「お年寄りと子どもをはなしてはいけない。彼らを引き離すことは、過去と未来を断つことと同じだ。」というものがあります。

今の時代は、お年寄りは老人ホームに、子どもは保育園に、また核家族化が進んでいますが本来の伝承の仕組みをどうやって維持していくか、虚構経済ばかりを優先するためにお年寄りと子どもを引き離すのではなく、本来の暮らしからみてどうあるべきか私たちは向き合う必要があるようにおもいます。

引き続き、何が子ども第一義か、常に確認しながら実践を積み重ねていきたいと思います。

 

 

 

家主の文化

昨日、京都の祇園祭を見学するご縁をいただきました。日本三大祭りの一つといわれるこの祇園祭は京都市東山区の八坂神社のお祭です。京都の夏の風物詩でもあり、7月1日から1か月にわたって行われ中でも「宵山」や32基による「山鉾巡行」「神輿渡御」などが有名です。

今回は、私が古民家甦生や町家主人としての心構えを学んでいる秦家の宵宮にお伺いするために京都に来ました。秦家の前には、とても美しい太子町の山鉾がご鎮座し神々しい雰囲気が醸し出されていました。

秦家のHPにはこう紹介されます。

『7月、鉾の辻を静かに流れる祇園囃子の音色を鉾町に住まう私たちは親しみを込めて「二階囃子」と呼んで山鉾の巨体が通りに現れるのを心待ちにします。太子山町は鉾町では一番西の端に位置している「太子山」という「山」の出るお町内です。ここに住んでいる家々は皆八坂神社の氏子。祭りの期間中は仕事を休んでも祭りに関わることを優先する心意気は今も健在です。』

伝統的な町家でもある秦家の玄関先には、時代感のある朱の提灯と和傘、そして格子戸の隙間からはかつての店先に荘厳な祭壇がしつらえてあり、そのお飾りを多くの観光客の方が行列をつくって見学に来られていました。

この日の秦家の自然体で凛とした品のある風情にいつも以上に私は魂が揺さぶられました。夏のしつらえとしての御庭と御簾、葦戸もまた町家の美点を最大限に引き出されている感じがして日本家屋の魅力に再び気づき直した思いです。

いつもここに来るとその佇まいの凛とする様子に、歴が精神に溶け込んでいく思いがします。時間と空間というもの、これも「間」といいますがこの間には一体何が入っているかということです。

現代はすぐに物事を分解して理解したり、便利な知識で分かった気になりますがこの「間」というものを感じる感性は、丸ごとで味わったり、直観したり、根本や一つであるところで実感するものです。

秦家の持つ凛とした佇まいは、単なる家ではなく代々の主人の生き方が顕れている気がして私がここに来るといつも勇気と元気をもらえます。

世界中のどの民族もその歴史の中で、先祖が経験した体験を智慧として子孫へと伝承され見守りの中で私たちは暮らしを営んできました。先祖が命懸けで実体験した実験から得た教訓や学びを教えずして智慧として子孫はその恩恵を受けて見守られ今も生をつないできたともいえます。

その智慧は代々文化として、暮らしを通して伝承されてきました。しかし今では、その先祖との根のつながりが失われ智慧が継承されにくくなってきています。日本は特にこの暮らしの智慧が豊富で、その文化を通して何をやってはならないか、何をしなければならないかを常に教えずにして教えるという仕組みがあったのです。

それを忘れてはならぬと先祖の厳しい回訓がありそれを守ってきたのが代々の一家の主人であったのです。家訓とはそういうものであると私は思います。私がここ秦家で学び直しているのはその家主の魂、家主の智慧、家主の文化そのものなのです。

引き続き、子どもたちのためにも暮らしを学び直して次世代へと先祖の智慧を譲り渡していきたいと思います。

 

 

信仰の大元

古来から信仰というものは形を変えながら、あるいは変わらないままに人々の心に生きています。最近では、信仰という言葉もあまり使われず宗教とひとくくりにされていますが本来はそれは分かれていなかったものです。

信仰そのものが本来の姿であったものが、今ではわからなくなったきたのでしょう。

シンガーソングライター、俳優、演出家、タレントの美輪明宏氏は、宗教と信仰の違いを下記のように定義しています。

「神様と人間の間に立ち、中間の卸問屋をやって、こういう拝み方がありまっせーと言っているのが宗教。清らかで温かで美しく、厳しく強い、エネルギー体である神仏に対し、お力をお与えくださいと仰ぎ、日常生活のさまざまな出来事の中で自分自身をもまた神仏と同じレベルの魂にまで高めていく作業を信仰というのです。宗教と信仰の違いを見極めなければいけません。」

先日、ある霊山を訪ね参拝に登頂しているとき道の先々で見守ってくださっている50体のお地蔵様に榊やお花をお供えしながら拝んでいる人がいました。その姿は遠目にみても神々しく、挨拶をすると和かな笑顔で仕合せそうに返してくださいました。もちろん見た目だけや行為がどうこうではなく、信仰を見たような心持になりこちらが清々しい思いがしました。

全国にお地蔵さんがあり、そのお地蔵さんはその土地を離れずにいつも人々を片時も離れずに見守ってくださっています。現在は、あまりお地蔵さんが大切にされていないようにも感じあちこちで放置されたお地蔵さんを見かけます。

中心社の常岡一郎氏は、信仰をこう定義します。

「神仏を拝むことが信仰だと思っている人がある。しかし拝むことよりも、拝まずにはいられない心、これを育て上げることのほうが大切である。天地のめぐみを味わえる人になること、ご恩を強く感じること、それが合掌となり、拝まずにはいられない心がわく。これが信仰の本質である。」(常岡一郎一日一言:致知出版)

拝まずにはいられない心がわく・・

私も同感で信仰とは、何ものかの御蔭様でなんと今まで自分が無事であること、片時も離れずに常に一心同体に見守ってくださっている存在、そういうものを深く感じてその真心に対して拝まずにはおられない感謝こそが信仰の原点ではないかと思います。

少し何かをいうと宗教だとか、何かの信者かなどといわれる時代ですが本来日本人が古来から大切にしてきた習慣や真心が消えてそういうことが理解できなくなってきているともいえます。分かれていなかったものまで分解し分けてしまっては、一つであったものの存在が観えなくなっていくのでしょう。

もう一度、子どもたちに古来からの先祖の恩恵や見守り、そして智慧を伝承していくためにも原点回帰し、信仰の大元からやり直して磨き直してみたいと思います。

 

 

愛宕さん

古民家甦生をする中で、台所に神棚には三宝荒神様をお祀りし、竈やおくどさんの近くには火の用心の御札を貼っています。京都の台所には「火廼要慎(ひのようじん)」と書かれた「阿多古(愛宕)」の御札が火難除けとして貼られています。この愛宕神社は、京都の北西部の愛宕山山頂にあり主祭神は伊弉冉尊とその子の火神である迦遇槌命が祀られています。

大宝年間701年~704年に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって朝日峰に神廟が建立されたのが創建であるといわれます。

この神社は古来より「火伏せの神」として信仰されてきました。平安時代から修験の霊場として栄え、その後、その修験者が全国に散らばり、全国的に愛宕の地名を伝えたといいます。

全国に1000社以上ある、愛宕神社の総本山であり「愛宕さん」といって今でも親しまれています。

また天狗の山としても有名で「愛宕太郎坊」という大天狗がいると恐れられ、中世頃には愛宕の本地は勝軍地蔵(しょうぐんじぞう)といわれたことから武家の信仰が盛んとなりました。一説によると、あの直江兼続の兜にある「愛」の字も、愛宕権現の字を象ったのではないかともいわれます。また武家が統治している土地にも地名として「愛宕」をつけた場合もあるといいます。武運の神様としても信仰されます。

さらに何かの覚悟を決めたり、決心を固いことを表明する言葉に「愛宕白山(あたごはくさん)」というものがあるといいます。これは加賀の白山とともに京都の愛宕が、決意を固める神として信仰されていたからだそうです。明智光秀も本能寺の変の決意を固めたのもこの愛宕山に籠って行ったといいます。

私にとってもこの愛宕山信仰は特別であり、伊弉冉と地蔵菩薩、天狗太郎坊とそしてカグツチという火の神様、ここに様々なつながりと物語を感じずにはおれません。特に聴福庵は、囲炉裏の豊かなぬくもりによって冷えてしまった人々の心をあたためようとしていますからこの生死の巡りの元、循環の要でもある火は私のもっとも大切なパートナーです。

日本にはさまざまな信仰がまだまだ残っています。それを受け継いでいくのは日本人らしさの源泉であり、日本的精神を磨く大切な材料です。

引き続き、古民家甦生を通して初心伝承を深めていきたいと思います。

 

信仰のかたち

天神祭に向けて菅原道真公のことを深めていますが時代の変遷と伝承を通してその天神信仰のかたちができてきているように感じます。菅原道真公がお亡くなりになってからすぐに天満大自在天神として祀られてから現代にいたるまで約1100年間、天神様として子孫を見守り続けている人物として奉られています。

神社に祀られる切っ掛けになったのは道真公がお亡くなりになった後、平安京で雷、疫病、大火などの天変地異が相次ぎ、清涼殿落雷事件などもあり、雷の神である天神と関連付けて考えられるようになったといいます。そして「天満」の名は、道真公が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真公の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来だといいます。

この道真公の怨霊が雷神になり、それが天に満ちたというとなんだか恐ろしい感じがしますが私はこれは個人としての菅原道真公のことを指してはいないように思います。怨念や怨霊というのは、何かしらの恨みをもって生きているものの念や霊が影響を与えることをいいますが、菅原道真公自身はというと大宰府に左遷されたあとも、無実の罪をきせられ改革がもう少しのところで頓挫するのは無念ではありましたが国家安寧を祈り、苦しい暮らしの中でも平常心を失わず学問を実践し続け修養し続けたといいます。

その証拠に左遷後も優れた漢詩をいくつも残し、この時期に大宰府で詠まれた詩は「菅家後集」三十八首にまとめられているといいます。彼は無実を叫びつつも天皇への忠誠を心の支えとして栄華の日々を懐かしみ、荘子や仏道の教えを学び続けました。流罪になった年の九月十日に一年前の内宴で天皇に詩を献じて御衣を拝領した事を回想し、詠んだ「九月十日」という詩は有名です。

去年今夜侍清涼  去年の今夜 清涼に侍す
秋思詩篇独断腸  秋思の詩篇 独り腸を断つ
恩賜御衣今在此  恩賜の御衣 今ここに在り
捧持毎日拝余香  捧持して毎日 余香を拝す

意訳ですが「昨年の今夜は清涼殿での内宴に侍し、「秋思」の題で詩を賦したが、今はただ一人断腸の思いです。天皇陛下から賜った衣服は今ここにあり、これを捧げ持って日々残り香を仰いでこれを拝んでおります。」と。

無実の罪を着せられ一族郎党みな悲惨な目に遭い、それでもただ一筋に天への忠義に生きるというのは、その後に現れる楠木正成や吉田松陰などにも似ています。そしてその誰もが今では湊川神社、松陰神社になって人々に祀られています。

つまり菅原道真公の怨念や怨霊ではなく、民のために天皇陛下のために国民国家に真心を盡したような素直で立派な人物に罪に着せて酷いことをするということに人々が怨念を持ったのだと思います。人々の政治に対する不信や不満が、その後、厄災があるたびにこの正直ではない出来事が脳裏に浮かび、また心に引っかかり、いつまでもそれが政治不信として世の中の人々の怨嗟を呼んだのかもしれません。

その怨嗟を鎮めるために、菅原道真公の罪を赦し、さらには神格を与えて祀ることで民衆の怨嗟を和らげようとしたのではないかと私は思います。つまり菅原道真公の怨霊ではなく、民衆の怨嗟が怨念や怨霊になったということです。

その後、その怨嗟が消えてからは慈悲の神、正直の神、冤罪を晴らす神、和歌・連歌など芸能の神、現世の長寿と来世の極楽往生に導く神、子どもを見守る神、そして現代では学問の神として崇め奉られています。

日本人はこのように素晴らしい人物や、大義に生きる人の伝説を語り継ぐことによって政治として何が大切かということを教えずにして教えていきます。伝承というのは、信仰をつなぐ役割があり、私たちの生き方として何のために学問をするのか、何のために生きるのかということの本質を導くものです。

引き続き天神祭に向けて、ご縁と直観を感じながら信仰のかたちを見極めていきたいと思います。

 

時の旅人

古いもの、いにしえのものに触れていると心が懐かしく感じるものです。フランス語でノスタルジーといういい方もしますが、これは「故郷や過ぎ去った時代を懐かしむ気持ち」という意味です。 日本語では「望郷(ぼうきょう)」や「郷愁(きょうしゅう)」といいます。

この時代を懐かしむというのは、歴史を感じる心です。

私たちははじまりの親祖から今にいたるまで、長い年月の歴史を生き継いで受け継いでここまで来ました。長い年月、どのように暮らしてきたか、また古代からの仕合せ、自然と親しみ平和な日々を歩んだことをいつまでも心に覚えているものです。

幼少期の記憶は、人類の初心のころの記憶であり純粋無垢に生きてきたころのことを懐かしく感じるように私は思います。

今の時代は、IT化も落ち着いてきてそろそろAI化といって人工知能との共存が急速に発展していく時代です。もう10年もすれば、世の中はほとんどAIによって塗り替えられてしまっているでしょう。どんどん古いものが失われ、新しいものばかりが出てくる世の中ですが私たちの心や魂が時代に追いついていくにはもう少し時間が必要のように思います。

私たちが懐かしいと感じるとき、私たちは時を旅します。

古民家甦生を通して、様々な時代のものに触れていますがその道具を一つ一つ手入れをして磨いていると時が甦ってきます。そのものの持つ時代が懐かしく感じられるとき、わたしたちは時の旅人になっているのです。

歴史は知識で学ぶものではありません、歴史は時を旅して学ぶものです。その旅を共にすることにより、懐かしさを感じるとき人は魂が揺さぶられます。そして魂が故郷に帰るのです。

時代の過渡期、この潮目がまた変化する節目だからこそ改めて子どもたちのために何を譲り遺していけばいいのかを思います。引き続き、初心を守り初志を貫徹していきたいと思います。

 

一休み

先日、久しぶりにアニメの漫画の一休さんを見る機会がありました。私の幼いころのアニメとしては馴染み深く、頓智を使って次々に難問を解決していく一休さんに憧れたこともありました。

その一休さんの代表的なコピーに、「慌てない慌てない、一休み一休み」というものがあります。これも今でも心に残っていて、今思えばとても深い教えを幼いころの意識に触れていたように思います。

この「慌」てるという字は、心が荒れると書きます。意味は、落ち着きを失う、驚きうろたえる、平常心でいられないという意味です。心は日ごろは穏やかですが、何かに囚われて執着すると心が穏やかでいられなくなり落ち着かなくなります。こういう時は、判断能力を見失い感情に呑まれたりして、平素の本来の自分でいることができなくなるものです。

一休さんが、慌てない慌てない、一休み一休みという文言は、焦らずに穏やかにいつもの通りに冷静に一呼吸置いて取り組むという姿勢を自分自身で言い聞かせていたように思います。

心がざわつくのは、何か自分の中で妄想が膨らんだり、将来の不安を感じたり、過去の嫌な体験を思い出したり、トラウマや劣等感など、様々な感情が沸き立ってくるからです。ネガティブな感情が沸けば慌ててしまい、焦ったり、急いだり、結果ばかりが気になるものです。

そういうときこそ、この「一休み」の価値があるように思います。

私たちが取り組んでいる活動の一つに致知出版社が広めている木鶏会というものがあります。この木鶏というのは、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉で、木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさします。つまりは不動の境地を持った状態ということです。

何かあればすぐに心を動かされるというのは日々の鍛錬が足りないように思います。そういう時にはいつもこの慌てない慌てない一休み一休みと、心を無にして何事にも執着せずにお気楽にポジティブに過ごしていくことです。

禍転じて福にする、人間万事塞翁が馬と、物事の善い方へと転じていこうとする実践が一休み一休みということかもしれません。物事は自分にとって大変なことのように思えても、自分の思ってもいないところで偉大な運命が働いていたりするものです。

天を丸ごと信じて歩んでいく心が、この不動心を育むように思います。

引き続き、木鶏を目指して日々に一休みしながら実践していきたいと思います。