自然循環型の未来

あるものを長く使うという考え方は古来から私たちが暮らしの中で培ってきた智慧です。それは衣食住はじめ、資源が今のように摂取できない時代だったからこそどんなものでもできるだけ長く使おうとしたともいえます。

それは今までの歴史の中で、そんなことをすると滅びることを本能が知っているからです。人は少ない中で工夫することの方が長い歴史があり、ありあまるほどの量の中でどうしていいかがわからないとも言えます。

人類は何をすれば滅びないか、それを常に探求してきたはずですがもっとも滅ばないという感覚になったときが一番危険なのかもしれません。当たり前のことがわからないということが何よりも感覚が鈍っているからです。

ネイティブインディアンの言葉に「蛙は自分の住んでいる池の水を飲み干したりしない。」とあります。自らそんな馬鹿なことをしないと揶揄していますが、人間は空気を汚しいよいよ住みにくい世界に変えてきています。

大事な資源を如何に汚さずに使っていくか、たとえ不便であったとしてもその不便の持つ側面として豊かさ、周りを活かして尊重する仕合せを大切に暮らしてきたとも言えます。循環型社会とかいっても、人間中心の循環型と地球を中心にしたときの循環型では意味が異なります。本来の循環型とは、分を弁えて分度を守ることにあるように思います。そしてその分を超えるものを少しでも子孫へ譲っていくということでしょう。二宮尊徳の言うような、分度、推譲、勤労、至誠は地球中心の循環型の至言でもあります。

また生きている先祖としての祖父母の体験の智慧が、子どもたちに生き方の判断を投げかけてきます。そういう意味で如何にそのお年寄りと子どもたちが智慧を分かち合うことが人類存続の鍵でもあります。

先ほどのネイティブアメリカンの言葉に「お年寄りと子どもをはなしてはいけない。彼らを引き離すことは、過去と未来を断つことと同じだ。」というものがあります。

今の時代は、お年寄りは老人ホームに、子どもは保育園に、また核家族化が進んでいますが本来の伝承の仕組みをどうやって維持していくか、虚構経済ばかりを優先するためにお年寄りと子どもを引き離すのではなく、本来の暮らしからみてどうあるべきか私たちは向き合う必要があるようにおもいます。

引き続き、何が子ども第一義か、常に確認しながら実践を積み重ねていきたいと思います。