視野と関心

物事には視野というものがあります。

この視野とは何かといえば、自分がどれくらい関心を持っているかということです。

人間は結局は、どれくらいの視野で物事を見てそして優先順位を決めているかで自分の活かし方もまた変化してきます。世界の広さで物事を観て、今日の一日を過ごす人と自分の視野だけで物事を観て一日を過ごす人ではその一生の活動においてその質が異なるのは明白です。

この視野を高めるために必要なのは、すべてのことを自分のことのように置き換えることで高まっていくように私は思います。自分のことにしか関心がなく、他のことを他人事のように考える人は視野が狭い人です。

視野の寛い人は、思いやりが深く配慮があり、常に世界に関心を持っています。狭い自分の価値観や自分だけの人生だけで自分をいっぱいにすることはなく、常に自分の周囲だけではなくその先にある子どもたちやその後に続くであろう人々に心を運んでいきます。

自他一体に、相手のことを自分のことのように思えるのは視野がある境地に達しているともいえます。例えば、相手に起きることは実は自分のことではないか、このご縁は自分が体験させていただきながら誰かのお役に立つためのものではないか、今起きているすべては必然ではないか、この人の問題は私の問題で会社の問題は自分の問題ではないかとすべてを同一にまで高めることができる人は視野を持てるようになっているともいえます。

視野という言葉と共に視座というものもあります。

これは相手がどの高さで物事を観ているかを知るということです。人は視野が高くなると同時に視座も高くなってきます。問題意識が高い人は視座が高い人だとも言えます。人は自分の高さで物事を見てもそれは問題意識の高い人の視点の高さで観ることができません。

自分の視座を高めるためには、相手の物事の観る視座を持たなければ対話をすることもできません。例えば、国家であれば首相の問題意識で物事を見る人、会社であれば社長の問題意識で物事を見る人、それで視野も視座も異なります。

全体を観るというのは、物事をどの高さで捉えているか、物事をどの視点で考えているか、物事をどの境地で観ているかということに由ります。

だからこそ常に相手の話を聞くときに、自分の視野や視点にだけ囚われるのではなく常に相手の立場に立って自分事としてとらえることで視野は寛がり、視座も高まるように私は思います。

松下幸之助氏の言葉に、「視野の狭い人は、我が身を処する道を誤るだけでなく、人にも迷惑をかける。」という言葉があります。常に自分本位、自分の視点だけで周りを見ないという自分勝手なことをしていてはいつまでも視野は変わりません。

だからこそ常に相手の立場で物事を考える実践や、常に相手が自分だったらと思いやることで視野を切り替える訓練を通して人は成長していけるように思います。

自分の思っている以上のことがその物事にはある、そして自分はわからないことがきっとあると自分の慢心を戒め、常に自分の視野が曇らないようにしていくことが最初の取り組みのように私は思います。

自分本位自分勝手な視野は、すべてを狭くします。関心とは心の関わりと書きますが、心がつながっていくことで視野は大きくなっていきます。常に心を開いて心からかかわっていきたいと思います。