水の味

井戸水を炭で沸かして点てるお茶はいつも格別な味がします。このお茶の味の中には、井戸水の深い味わいが混じっています。この水の味というものは、今では水道水の普及と共にあまり日常的に意識して感じなくなったかもしれませんがこの水には不思議な個性の味があります。

例えば、販売してあるようなペットボトルのミネラルウォーターの水や自然からそのまま湧き出る水は同じ水ではありません。成分の違いもありますが、どの場所の水を汲んだか、さらには水を取り出した時機など、その水には様々なものが映っています。

水の不思議な力のひとつは、混ざり合う力です。どんなものとでも混ざり合い融け合わせる力を使ってどんなものも浄化していきます。ミネラルが豊富に入るのは、水の中に自然物が融けているからでもあります。

最近問題なっている酸性雨は、空気中の汚染物と融け合った水が空から降ってきているし、また水道水に入る有害物質もまた河川の汚染の影響で融け合った水が配管から流れてきているともいえます。

水は万物を循環しながら、混ざり合い全体調和によって万物全ての生き物のために融け合わせていく働きを已めません。

人間の体では、60%以上が水でできておりすべての臓器や骨格に水が含有しそれが流れ続けています。一日に約2リットルの水を摂取し排出しながら体の中にあるものと混ざり合い融け合い浄化を続けます。腎臓は、その8倍の水を常にフィルターで人間の体に適合するように再生され続けます。

井戸水がなぜいいのか、それはこの土地の木々や植物や野菜などこの地の水を取得して成長しているからです。その風土に適した水は、その風土に調和した水とも言えます。外から運んできた水は、外からもってきた水ですからその土地のものではありません。

その土地の空気や水、光や風は、見事にその土地の持つ不思議な風土と合致します。その合致した状態が調和であり、私たち人間も自然に調和を美味しいと感じます。この井戸水が美味しいと思う感覚はそこから来るのです。

お茶もまた炭を熾し、井戸水を入れ、時間をかけてゆっくりと融けだしていく万物の調和に美味しさを感じ水の不思議な感覚を覚えます。万物の根源に触れる機会があるというのは、調和を甦生する機会に出会うということでもあります。

水の不思議な力を味わいながら、思索にふける時間はとても豊かで味わい深いものです。引き続き、復古甦生を味わいながら学び直していきたいと思います。

非認知の意味

人は知識を持つことで知識によってすべてを理解できると勘違いすることがあります。現在、世界では非認知的能力の重要性が教育界でも重要視されるようになりましたが、そもそも非認知とは読んで字の如く認知しないということですから考えたり知識で理解するものではないということです。

つまりは考えないのだから直観ともいい、知識で理解しないのだから気づきのようなものともいえます。こんなことを敢えてブログで説明してもまさにこれも認知ですから言葉で理解するとわからなくなるものです。だからこそ先祖は師弟が同体験や気づきの共有を通して大切なことを伝承していきました。その人の気づきを見守ったのです。

本来、私たちはそれぞれに気づく力を持って生まれてきます。生命は生まれながらにして呼吸をし、成長過程で人間としての生活が送れるのは、生まれる前から持っているものがあるからだとも言えます。

自分たちが生まれる前は一体、どのようになっているのか。そこから気づき直すことが非認知を高めるためには効果があるかもしれません。禅問答の中に「一撃忘所知」があります。

これは香厳という唐の禅僧が、「ゴツンと一撃をくらい一切合切、一瞬にしてすべてのものを忘れてしまい、心につかえるわだかまり、とらわれも無い悟り の心境を得た」という意味で使われ経典や知識の及ばぬところに悟りの道が開けるという、禅の綱領を示した故事の一つです。

どれだけ知識を大量に得ても、経典をどれだけ読み込んでも、それを悟るわけではなく気づいたわけでもない。その一つの気づきを持つために何十年もかけて実践修行をしてきたことを心境で顕したものです。

気づくことで真理を学び生き方を正すことが目的ならば、わかることはほとんど意味がないことは自明します。自分を磨いていく砥石は、自然や真理ですからその砥石を通じて自分の心魂を磨いて研ぎ澄ませていくのは私たちの日々の実践です。

非認知の大切さは知識で教えるものではなく、先人や身近な大人たちが生き方で示していくものです。今それが世界で求められるということは、何が課題なのかはすぐに気づきます。

引き続き、子どもを信じきる生き方を磨いて子どもに豊かな未来を譲り遺していけるように実践を積み重ねていきたいと思います。

道と志

数年前から鹿児島に一年に何度も訪問するご縁があり、西郷隆盛や郷中教育のことを深めています。西郷隆盛については今年は大河ドラマの主役ですから、いろいろとわかることも増えていくと思いますがどのような人物であったかはその足跡や言葉を自分の足で辿ってみなければわからないものです。

頭でこうだろうといくら思っても、歩いてみないとわからないものもあるし、いくら知識で補おうとも体験してみなければわからないものもあります。大事なのはその人の生き方に触れることで、どのような心境であったかを深く共感しその生き様を自分に投影し心を磨いていくことのように思います。

その西郷隆盛が尊敬した人物に、山岡鉄舟がいます。この二人を観るとき、私には同じ生き方をする二人に観え、志を貫く生き様には学ぶことばかりです。その山岡鉄舟のことを西郷隆盛はこう評します。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

こういう西郷隆盛もまた同様な生き方をしていたからこそ、その山岡鉄舟の生き様をみて共感したのではないかと思います。無心無私の生き方は、何にもとらわれず無為自然であり天道真理に沿っているからこそ人知を超えたものに命を懸けられるということなのかもしれません。

人は誰しも、自分の命を惜しみ、名誉を求め、地位や権力、お金などの影響を受けるものです。それは欲があるかないかの話ではなく、志で生きるかどうかの覚悟を持っているかどうかということです。無欲だからいいのではなく、志を貫く信念があるかどうか、損得や営利などで判断することがない人は扱いが難しいというのは理屈ではなく理想を求めているからです。大業や大志を実現しようとするからこそ、艱難が訪れますがそれを共にできるものは志が高い人たちのみです。

同時代の高杉晋作は、「艱難を共にすべく、富貴を共にすべからず」といいました。志は命もいらず名もいらず、官位も金もいらないからこそ共にできるということでしょう。

山岡鉄舟は、最後まで清貧忠義を貫き弱いものを助け強いものをくじく生き方を貫きました。最後に、無刀流を極めた達人の山岡鉄舟の箴言です。

「道は千載不滅だよ。いかなる大敵でも、道には勝てぬ。」

いかなる大敵でも、道には勝てぬ。これはとても勇気をいただける言葉です。世界がどのように変化して大きな壁が立ちはだかったとしても道には勝てないのです。道を継ぐことは志を継ぐことですから、道と志を子孫へ伝承していきたいと思います。

 

自分の人生

人間は「わかる」というものと「きづく」というものとで自己との対話をしていきます。わかるというのは、理解することですがきづくというのは覚めるということです。

先日ある人が、主体性のない部下に対して「あなたは一体どうしたいのか?」と聞いても本人がどうしたいかわからないという返答で困っているという相談がありました。主体的に自分で決めたことをやった方が楽しいし本当の人生だからと善意で話をしても本人は、「考えれば考えるほど自分のことが分からない」とより一層悩みが深まって困ってしまうという話です。

本当の自分のことを抑え込んで世間体や周りの空気を読んで周囲にとっていい人でいようと自我を無視して誰かのいう正しいを正しいことと盲目に信じてその場しのぎで楽をしてきたことでわかりのいい人になりきづくことができなくなってしまったのかもしれません。すぐにわかるわりに、気づくことがないのはわかりのいい人が長かったからかもしれません。

この場合のわかるとは、周りをみてわかることです。自分がどうしたいかを常に周りをみながら決めてきた人生を送れば、周りを関係なく自分はどうしたいかという選択肢はなくなってしまうものです。そうなると、自分は世間体や評価、周囲の期待に応える自分を自分と思い込んでしまい自分がしたいことが何かと聞かれても周りがどう思っているかということや周りはどうしてほしいのかがわからないという具合で本当の自己のことはもう見失ってしまっていることが多いように思います。周りの中でつくりあげてきた自分のことを自分だと思い込んでしまうことをやめないかぎり自分のことには気づけないのです。

本来、自分がどうしたいのかというのは自分はどういう生き方をするかという自分自身を貫いていく人生のことでもあります。人生は何のために生きるのかからはじまり、そのためにどう生きるかを決めます。その決めたものが生き方ですから、常に自分は何がしたいのかというのは常日頃から自己との対話によって覚悟を磨いていくものです。

もしも今まで自分の心の声に従うのではなく、周りをみて空気を読んで従っている癖があれば周りの声のことを自分の声だと勘違いしてしまうかもしれません。周りの評価を気にしては自分をさらけ出すこともできず、あるがままの自分を隠しては周りの期待する人に近づこうと頑張ってしまいます。本当の自分ではない付き合いをする人は、その後の人生でも無理をして本当の自分を偽りますから真実の信頼関係がもたなかったり、自分自身も本来のつながりや絆を結ぶことができずに孤立してしまうものです。

大事なことは、周りとか空気とか世間体とかを一時忘れて、本当はどうしたいのかと自分の初心を確認することだと思います。そしてひとたび初心を思い出したのなら、その初心を忘れないようにしていくことが自分の声に従い自己との対話を通して覚悟を定める生き方になっていくように思います。

自分自身に素直になる人は、他人にも素直になれますし、自分自身を信頼できる人は、他人のことも信頼できる人になります。まずは自己というものを自覚すること、つまりはわかろうとするよりもきづくことを優先することのように思います。

きづくとは、「本当は何か」と自問自答することです。

引き続き、その人らしいその人の個性をみんなが喜び活かせるように自分の人生や生き方を思い出し主人公と自覚できるような環境を子どもたちに用意していきたいと思います。

知識から智慧へ

人は頭で知識で分かったことがあったとしても、それは他人の知識を借りてきているだけですから知ったからといって本質や真理に気づきそれを会得したわけではありません。

ひとつのことを知ろうとすればするほどに、長い年月がかかりそれを弛まない実践と実行、つまり日々の行動をすることで積み重ねていくうちに次第に達して得ることができるように思います。

人は先に知るというのは、知って理解すればするほどにそれだけわからないことに苦しみます。気づきというものは、知るものではなく気づくものですから知ることは後でいいことなのですが先に気づこうとして知ろうとします。しかし実際には、同じ境地に達するのにはその人がかけた時間や取り組んだ質量、素直さや謙虚さによっても異なりますから簡単にはいきません。それに先に分かってしまったせいで、先入観にとらわれ知識で理解したものをなかなか手放すことができず知識から智慧に転換されるまでにはかなりの行動が必要になります。

この手放すという努力は、行動するという事であり手放せないのは行動できていないからであるときが多いように思います。

知識というものは、そもそもが簡単便利に自分がやらなくてもすぐに使える認識できる言葉の道具のようなものです。誰かのつくった便利な道具は使えても、その道具を作れるかといえばつくることはかなり難しいことです。それに似ていて、知っていても気づいていないというのは道具は使えても本質が分からないという事に似ています。

道具を本当の意味で使いこなすには、その道具の本質を掴む必要があります。便利な道具は応用が利きにくく、昔からある道具は智慧が利きます。これは大工道具一つでも同様に、鉋や鋸なども昔のものの方が腕の善い大工さん、番匠師には重宝されます。

便利な道具で通用しないのは、難しい仕事になればなるほどわかります。だからこそ私たちは借り物の知識ではなく、自分から会得した智慧で勝負するようになります。一流と呼ばれる人たちは、その知識を智慧に転換して気づきを会得している人たちです。

そのためには、知識ばかり詰め込むのではなく行動の質量を増やして失敗から学び直し、その失敗を検証し、さらに挑戦しまた内省し改善するという時間と回数を人並以上に取り組んでいく必要があります。

行動することの価値は偉大であり、気づきや智慧を会得する唯一の方法ともいえます。愚直に行動を起こすことで、他でも気づかなかったことにも気づかされることもあります。

私も多動とか、じっとしていないとか言われますがその分、誰よりも気づきたいことが多く、行動していくことで深まっていく知識が智慧に転換するのが楽しいのです。

引き続き、知識を智慧に転換して子どもたちに学び直しの喜びを伝道していきたいと思います。

日本の心と自己錬磨

私が尊敬する方の一人に日本の将棋棋士で永世七冠の羽生善治氏がいます。いくつかの著書を拝見していますが、そのどれも自己との対話や感情との折り合い、調和への心の姿勢などどれもとても参考になります。実戦により鍛錬されたその思想や感情、どのように向き合って自己錬磨されているか、それは事物に挑むときの指針になります。例えば、自己との勝敗を決める岐路について磨かれている言葉には下記のようなものがあります。

「自分から踏み込むことは勝負を決める大きな要素である。」

「基本的に人間というのは怠け者です。何も意識しないでいると、つい楽な方向や平均点をとる方向にいってしまいます。だから相当意志を強く持って、志を高く揚げ核となっている大きな支えを持たないと、一生懸命にやっているつもりでも、無意識のうちに楽な方へ楽な方へと流されていくことがあると思います。自分自身の目標に向かって、ちょっと無理するくらいの気持ちで踏みとどまらないといけません。」

「どんな場面でも、今の自分をさらけ出すことが大事なのだ。」

「「自分の得意な形に逃げない」ということを心がけている。」

「勝負に一番影響するのは「怒」の感情だ。」

「平常心をどれだけ維持できるかで、勝負は決まる。」

自分との戦いを続け、如何に自分を磨いていくか、荘子(達生篇)に収められている故事に由来する言葉に木彫りの鶏のように全く動じない闘鶏における最強の状態をさす「木鶏」という言葉がありますがまさに羽生善治氏はその木鶏そのもののモデルように私は感じています。この境地を体得するために、私たちは自己錬磨を続けていくように思います。

「ビジネスや会社経営でも同じでしょうが、一回でも実践してみると、
頭の中だけで考えていたことの何倍もの「学び」がある。」

「人間には二通りあると思っている。不利な状況を喜べる人間と、喜べない人間だ。」

「私は、対局が終わったら、その日のうちに勝因、敗因の結論を出す。」

「私は才能は一瞬のひらめきだと思っていた。しかし今は、10年とか20年、30年を同じ姿勢で、同じ情熱を傾けられることが才能だと思っている。」

「ひらめきやセンスも大切ですが、苦しまないで努力を続けられるということが、何より大事な才能だと思います。」

「何かに挑戦したら確実に報われるのであれば、誰でも必ず挑戦するだろう。報われないかもしれないところで、同じ情熱、気力、モチベーションをもって継続しているのは非常に大変なことであり、私は、それこそが才能だと思っている。」

自己錬磨の価値を教えてくれる存在が、同じ時代に生きていてその姿勢を見せてくれることがどれだけ有難いことか。日本の伝統文化である将棋には、日本の心があります。その日本の精神性や心を体現している存在があって、私たちは勝敗とは何を学ぶものか、そして自己錬磨とは何かということを先祖の生き方を学び直します。

尊敬し憧れるのは、単に強いからではなく日本人として磨かれた精神を将棋に感じ、その自己錬磨の生き方に感動するからかもしれません。

最後にいま、特に心に響く言葉です。

「山ほどある情報から自分に必要な情報を得るには、「選ぶ」より「いかに捨てるか」の方が、重要なことだと思います。」

「 今の情報化社会では知識や計算は簡単に手に入る、出来る物。だからもうあまりそれらに意味はない。これからの時代の人間にとって大事なのは決断する事だと思います。」

どのような決断をするか、そして何を捨てるか、常に自己との対局を楽しんでいくことで自己錬磨の面白さも味わいも豊かになります。引き続き、日本の心と自己錬磨を学び直していきたいと思います。

 

仕事の仕方~生き方~

人は生き方が仕事に出てくるものです。終わらせるように仕事をする人と、次につながるような仕事をする人がいます。前者は、終わらせることが目的ですからとにかく与えられたことを終わらせれば納得します。しかし後者は次につなげることが仕事ですから次につながるように常に課題を発掘しては踏み込んでいくものです。

そもそも仕事に終わりというものはありません、同じく学問にも終わりは有りません。学校のテストや受験、期限があるものをこなすようなものならば終わりはありますが人生や仕事には終わりは設定することはできません。

ひとつの節目としてここまでというものはありますが、本来の目的はまったく終わっておらずさらに発展し繁栄させていくために終わりなき挑戦を続けていかなければなりません。

言い換えるのなら、終わらないけれど終わらせる人がいるということです。終わりというのは次のはじまりですから、ひとつ終われば次のことが同時にはじまっているのです。

終わることを目的にするか、それとも本当の目的を目的にするか、そこに生き方が出てきます。何のためにそれをするのかとそれを握っているのなら終わることはありません。先に手放してしまうのはそれが他人事になってしまい自分ごとではなくなってしまうからかもしれません。

もしも自分の人生であれば終わらないのだから手放すわけにはいきません。しかし他人事ならばそれは自分のことではないのだから手放したくなくても手放すことができてしまいます。一緒に歩んでいくというのは、お互いに次を模索しながら挑戦し合うような改善を怠らないということでしょう。

終わらせることばかりに追われてやりっぱなしで進める仕事ではなく、改善し振り返り次につながるような進め方の仕事の方が目的に忠実です。引き続き、仕事の仕方から生き方を見つめ直していきたいと思います。

職商人

「職商人」(しょくあきんど)という言葉があります。これは職人と商人が合わさった言葉で、言い換えるのならいい職人こそいい商人であり、職人と商人の一致とも言えます。私はこの言葉に出会い、感動し、自分が目指しているところを知り、また同時に日本人の持つ伝統的経済観念を再確認することができました

かつて江戸時代は、修理や修繕といった繕いの文化がありました。今のように新しいものをつくっては捨てていく時代は、分業制も進みものを作る人と売る人も分かれてしまっています。

以前、ある鋸職人のところにいい鎌や鍬の鍛造を相談しに行った際に、職人さんたちが使い手の相談に乗りながら新しい商品を開発しそれが商売になっているという話をお聴きしたことがありました。アイデアを常に、お客様と一緒一体になって作ってこそ単なる物売りではなく単なりものづくりではなく、職商人であるともいえます。

自分で作ったものを長く手入れできるということは職人にとってもどの部分が改善が必要でどの部分が弱かったのか、また使い手の癖や職業上の理由など物事が深く理解できます。さらには、作ったものを如何に長持ちさせて甦生させるかを極めていくことは捨てない社會、いわば循環型の持続可能な社會を実現するために大きな役割を担っていることになります。

作ったものを修理修繕し、改善する文化があれば大量生産しなくても少量生産であっても長く永続的に使えればゴミになることはありません。今の時代は、作っては捨てて、古くなってはすぐにゴミのように廃棄されますが、それは職商人がいなくなっているからです。

職商人は、自分で体験したものの気づきをまた新たな智慧にして世の中に還元して人々と共に成長して成熟し、ものづくりだけではなく人づくりにまで貢献していくものです。まさに自他自物一体の境地の生き方です。

世の中がもので溢れていたとしても、長く使い古されて貢献してきた物は思い出や思いやりなどがそのものに籠っています。それを如何に活かし、長持ちさせていくかが、その人物の人格に左右されます。物を磨くのは修繕するところからはじまり、精神を磨くのはそれを研ぎ澄ますことで得られます。

引き続き、古来からあるものを大切にしながら子どもたちに勿体ないの初心の本質を伝承できるように日本の伝統文化を担う職商人としての誇りを持ち、一つひとつを丁寧に実践していきたいと思います。

実践の意味

経済や経営を考えるとき、二宮尊徳にとても有名な言葉があります。それは「道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である」というものです。これはホンダの創業者本田宗一郎が、「理念なき行動は凶器であり、 行動なき理念は無価値である」ということにも通じます。

つまりは道徳とは、人が生きる上での目的そのものでありそれがない経済だとすれば個人の欲望そのものであるから社會にとっては罪悪であり、理念がないのにいいことばかりいって経済にしないことや、いいことをやっているように後から帳尻を合わせてもそれは単なる寝言ほどの取るに足らない戯言であるといいました。本田宗一郎は、個人の欲望の経営は凶器になっているともいいます。そして実践することがないのなら理念などあっても無価値で無意味であるといいます。

これは理念経営を行う上で大切に指標になります。リーダーは何をもって甘えているかといえば、それは単にサボるとか怠けるとかの話ではありません。目的に対して真摯に実践を怠らないのであればそれは甘えていないのであり、もしも会社が利益がでていくら繁盛していても理念と実践がないのならそれは甘えているともいいます。

甘えを断つというのは、目的に生きるということであり、理念を優先し自分の生き方を変えるということです。人生は自分個人や私心、私利私欲のためにあるのではなく、それよりも大切なもののために自分を優先できてこそ社會の中で本物の自分を自立していくことができます。

みんな人々は目的を持つことで心を定め一生を歩んでいきますから、つまらないことにいつまでも囚われないためにも理念と実践はよりよい人生を充実するために欠かせない両輪であろうと思います。

二宮尊徳は人生の指標として下記のような遺訓を弟子たちに語ります。

翁曰く

人、生まれて学ばざれば、生まれざると同じ
学んで道を知らざれば、学ばざると同じ
知って行うこと能はざれば、知らざると同じ
故に、人たるもの、必ず学ばざるべからず
学をなすもの、必ず道を知らざるべからず
道をしるもの、必ず行はざるべからず

何が生まれていないか、何が学んでいないか、何が知らないことか、本当の人生を歩みなさいと語り掛けます。

道は実践によって顕れ、学は道の実践で顕れ、生は学の実践で顕れる。つまりは人生は実践することではじめて為るということをいいます。

この「実践」というものの価値にどれだけの人が気づいているのだろうかとも思います。実践とは、目的をもって行動するということですがどれだけ日々その初心を忘れずに行動できているかと内省することで自分の人生を生きることを思い出すものです。

心の荒蕪は、今では心の渇きとして人々の中に苦しみが宿ります。その苦しみを少しでも和らげ、心田を開発できるように一円観、一円対話を世の中に弘めていきたいと願い実践を継続していきたいと思います。

2018年のテーマ

昨年は、右足の怪我で歩けなくなりメンターとの振り返りができない年末年始を過ごしましたがようやく昨日その振り返りを行うことができました。もう10年以上、同じことを続けていますがこの時間がとても有意義で私の生き甲斐の一つになっています。

生き方に憧れた方と道を同行し一緒に学び歩みたいと願う童心がこの機会とご縁を創造していくれています。有難いことに、こんな自分を指導してくださる方がいる、見守って育ててくださる方がある安心感は決してなにものにも代えがたいものです。

そう考えてみると、当たり前と思っている中にどれだけ本当の仕合せが潜んでいるか。上の人が下に教えるのは当たり前ではないし、誰かが自分のために真心でアドバイスをいただくことも当たり前ではない、さらに見守ってくれることなどは本当に有難く当たり前ではないことに気づきます。

人は結局は、どれだけ当たり前と思っている実は偉大な事実に気づけるかでその人の成長が決まるのではないかと私は思います。当たり前が感謝に転換できている人は、その生涯においていつも至高の仕合せを享受されていくからです。なんでも当たり前だとは思わない人生をこれからも歩みたいと思います。

今年のメンターとのテーマは、「時季時機にやることを大事にし、積み重ねてこそ晩成する」となりました。

これはその時々に起きていることはすべて必然であり必要なこと、その一つ一つを決して疎かにせず今を大切に積み重ねていくことで成熟し充実させていくということです。

世の中には原因と結果の法則があります。結果がそうならないのは、その原因に問題があるからです。結果ばかり焦っては、現在やらねばならない一つ一つを疎かにしてすっ飛ばして成功しようなどと思えばそれ相応の結果が現れてしまいます。

ちゃんと現在、大切に積み重ねていかなければらない来たものに真心を籠めて真摯に取り組んでいけば必ず四季を経て実をつけ種になりまた成長成熟を繰り返していくということです。

焦ったり、急いだりすることで時季時機のことを無駄にすることほど意味のないことはありません。心を定めて、今、遣るべき努力を怠らない一年にしていきたいと思います。

今年もよろしくお願いします。