素直になること

弱さを受け止めず弱さを否定している人は、見栄をはるものです。弱さを隠そうとばかりするから余計に自分から弱さをさらけ出すことができません。弱さをさらけ出さないという心理は、周りに弱いと思われないように自分でひた隠そうとしていることでその行動が翻って見栄をはることになっているともいえます。

この見栄をはるとはうわべを飾ったり外観を取り繕うことをいいます。つまりは弱いと思われないように強く見せようとしたり、本当は弱いことを隠して上手く誤魔化そうとする心理です。弱いことをいつまでも受け止めることがなければ、自分を守るために常にその人は責任転嫁ばかりを繰り返してしまいます。つまりは自分から素直になることを否定した生き方を続けていくことになります。

素直ではない人の特徴は、自分のありのままの姿をいつまでも認めようとしないということです。今の自分が弱いと受け止めることができれば、何が弱いのかを直視し、それを具体的に改善していこうと思えるものです。しかし弱さは絶対に受け入れられないと弱さを全否定したのなら、いつまでも改善される日は来ることもなく、いつまでもその人は弱さを認めない代償として見栄を張り続け歪んだ行動ばかりをしては周りに多大な迷惑をかけてしまう人になってしまい悪循環に陥ります。

自分くらい弱さを隠しても決してバレないだろうと思っていても、実際はその姿はみんなにバレているものです。その証拠に自分に嘘や言い訳ばかりを続けていくうちに孤立したり、信頼関係が築けなかったり、行き詰ったりが増えるからです。

見栄を張るのをやめて素直になることは、言い訳をせずに嘘をつくのも誤魔化すのも已める習慣をつけるしかありません。

「はい」と素直に弱さを認める行動、「ごめんなさい」と素直に間違いを認める行動、「教えてください」と素直に改善に移す行動、これらのシンプルなことからでもすぐに実践していくことだと私は思います。

自分から素直になることは、嘘も言い訳もない正直に生きていく成長の原動力や根の働きをもっと使っていくということです。見栄を張ることで自分自身を失い自分が分からなくなって苦しんでいる人がたくさんいます。生き方の改善は人生の改善ですから、自分がどう生きていきたいかと自分自身と向き合い「見栄を張るのをやめる」と決心するしかありません。

素直さは頭で理解して素直になれるものではありませんから、素直な行動から変えていくことで素直が身に着いてくるようにも思います。素直の百段を目指した松下幸之助氏のように、日々の小さな正直を積み上げていけるような精進をしていきたいと思います。

 

素直さを磨く

素直さというものは、人間の生きていく上でもっとも重要な徳性であるように思います。素直な人はいつも大事な局面において、天の助けや人の助けを得ては困難な状況を打開していくことができるように思います。

人間は自分の心の動機や、純粋な思いや、そして正直さなど自分の信じることが道理に沿っているのならその道は必ず導かれて使命に近づいていくように思います。そのためには素直に聴く力を高めていく必要があります。それは自分の思い込みで聴かずに決めつけていくような歪んだ状態ではなく、正直に素直に丸ごと人の話を聴く心を持っているということです。

松下幸之助さんにこういう言葉があります。

「素直な心とは、何物にもとらわれることなく物事の真実を見る心。だから素直な心になれば、物事の実相に従って、何が正しいか、何をなすべきかということを、正しく把握できるようになる。つまり素直な心は、人を強く正しく聡明にしてくれるのである。人の話を素直に聴けるのは、自分の心の中にある素直さを守り続けていく必要があります。」

決めつけや思い込みや自分の勝手な解釈や都合で他人の話を聞くのは素直な心ではありません。何物にも囚われないとは謙虚な姿勢であり、教えてくださっていることを素直にやってみようとする心です。人は運を味方にして成長して伸びる人と伸びない人がありますが、前者は素直に何でも受け容れてそれを体験して自分なりに味わう人です。後者は最初から疑いながらいいところだけを取ろうという人です。

素直さというものをもって人の話を聴くのなら、どんな結果になったとしてもそこから大切なことを学びます。それは何か、それは真実のことです。正直さや素直さというのは、自分の観念で現実を歪めることがなく常に現実あるがままを直視し、直すものは直し、素ではないものは素にするのです。

自分の素が分からず、自分をいつまでも直せないのは自分の心の中にある素直さを裏切り続けることで発生してきます。そうやって心が曇ってしまえば、自分自身のことも見失い人の話も聞けなくなり自己と正しく対話することもできなくなるのです。

自分の素直さを守り続けるというのは、常に素直に聴くことができる状態を維持し続けるということです。なんでも人の言う事を鵜呑みにすればいいという意味ではなく、心で聴くという実践と訓練をし続けるということです。

心の鍛錬は常に素直さの鍛錬により磨かれます。

子どもたちのためにも、素直な心でいる訓練を怠らないよう精進していこうと思います。

経験する価値

今の時代はインターネットの普及によって何かの知識を得ようとすればすぐに手に入るようになりました。膨大な知識がいとも簡単に検索ができてわかるというのは、本当に便利なものです。

しかしその反面、知識は得ても経験の量が圧倒的に足りなくなってきて頭でっかちのように分かった気になっていることも増えてきました。知識を得ても経験していなければそれは本当の意味で自分のものになったのではなく、そのためには絶対的に必要なのは場数になります。この場数とは経験する質量のことで、経験を得る体験をどれだけやったか、実験をどれだけ試したかということです。

人間は習熟するためにはその場数が必要であり、熟練者や専門家と呼ばれるその道の達人は皆、場数を徹底的に熟して自分を磨き上げています。

体験や経験をすることは失敗を認めることです。そしてその間違いを学んで次回に活かしていくことです。失敗を怖がり評価を避けようとして場数が減ってくれば体験していませんから習熟することができなくなります。習熟というのは場数ですから、現場でたくさん試してみなければなりません。試行錯誤という言い方もしますが、失敗から学び次はどうするかという前向きな発想が必要になります。

そのためには、経験こそが価値であるということの認識が必要です。経験を良し悪しで自分で評価したり、知識が正しいかどうかの答えを先に思い込んで裁いたりしていたら一向に行動することができなくなります。

さらには自分の価値観の中から出ようとせずに、いつまでも思い込んだところで自分の都合でばかり物事を解釈し、自分の都合のよいことしか認めようとしない態度になればなおさら経験の価値がなくなっていくものです。

良いとか悪いとかではなく、その経験から何を学んだか。そしてその経験はどれだけ価値がある経験だったか、その経験にこそ価値を置いて学び続けていくのなら失敗こそが貴重な経験であることに気づけるものです。

どんな結果が待っていようが、それでも挑戦して取り組んだ経験の結果という価値がのこります。その価値は次の人や、周りの人、そして子どもたちに必要な価値としていつまでも遺ります。そう考えてみると、やらないことが無価値でありいつまでも経験をしていないことが本当の失敗であることに気づきます。

やってみようと思うことは、好奇心の一刺し、また振り絞る勇気のようなものです。やっているうちに興味も増えてそのうちそのことが楽しくなってしまえばしめたものです。楽しそうに遣っている人は、次第にそれが楽しいに変わってきます。マジメにやっていることで100点満点を目指すことがいいのではなく、経験することが楽しいと取り組んでいくことで1000点にも10000点にも制限を超えて可能性が無限に広がっていきます。

引き続き、子どもたちが学ぶことをやめないように本当の結果とは何か、何がもっとも価値のあることかを自分の背中を通して伝道していきたいと思います。

自信の源

日本では自己肯定感について語られることが多くありますが、本来は自己肯定感があるかないかではなく、如何にその自分の弱みを受け容れ強みに換えるか、もしくは短所を長所に換えるかこそが大事なのではないかと思います。

自分に自信があるかないかではなく、自分を活かしてくださっている周りの人たちのために如何に自分自身の人格を創り上げていくかが大事であると私は思います。自分のことばかりをやっているから自信がなくなり、周りの人たちや仲間のために真心を盡す人は自信が出てきます。

この時の自信は、目的のために自分が使えたり、初心のために自分を変えることができたという自信です。変わらないで揺らがないことが自信なのではなく、揺らぐ自分に打ち克ったり、大事なもののために自分の在り方を改善できるときその自信が積み重なっていくように思います。

自分に自信があるかないかでできるかどうかではなく、思いやりを優先できるかどうかであったり、弱いか強いかではなく勇気を振り絞ることができるかどうかであったりの方が自分自身を認めていくことができます。

自信がないからできないのではなく、自信があるからできるのではなく、みんなの力になりたいと思わないからできないのです。なんでもできることをやりますと、頼まれたことや困っていることを一緒に取り組んでいくうちに自分のことばかりに囚われずみんなのことを考える余裕が出てくるものです。

この余裕こそが自信の源であり、余裕があるから周りのために働け余白があるからご縁を味わい豊かな仕合せを創造していくことができるのです。

人格を磨くというのは、如何にこの余裕を持てる自分にしていくかということでもあるように思います。子どもたちのためにも、自我妄執を捨てて御蔭様の人格的な生き方を実践して余裕を創造していきたいと思います。

 

ゼロベースで生きる

人間の思考には過去から考えて判断をするという習慣があります。過去の経験というものは時にはそれが自信になったり知恵になることもありますが、時としてはその過去の経験が枠や囚われになってしまい自分の考えを制限する材料になってしまいます。

その時の状況や環境は今とは異なっているのにも関わらず、過去にこうだったからと決めつけては先に答えを出してしまっています。そうなると未来への挑戦をするにしても、自分で決めた枠組みや先入観からのどうせ無理だろうに先に負けてしまい過去にしばられて未来を自由に創造することができなくなります。成功体験は自分の成功パターンとしての過去の栄光にしがみつきその同じパターンでしか成功しないと思い込んだり、失敗体験は自分の失敗パターンとしてそこを避けて行動することで視野が狭くなり行動も縮こまってしまいます。

そうならないようにするにはゼロベースで考える訓練が必要です。これは過去のことに囚われず、今までの先入観や枠を一度すべてご破算にしてもしも今からやるとしたらどうするか、もしも何もないところから挑戦するのであれば何を目的にしてどこまでいくかという目標を自由に考えるところから始める訓練です。過去や柵に囚われている姿はもっとも目的から離れた姿なのです。

自分はきっとこうだと勝手に思い込んでは、自分の収まりのいいところに甘んじていても未来が変わることはありません。そうではなく、真っ新の状態、ゼロベースで過去から考えず、初心や目的、理念から自由に発想して取り組んでいく中で過去が刷新されていきます。

畢竟、人生を変えるというのは過去を刷新するということです。過去がどうだったかが問題ではなく、今ここがすべてだと思い新しい自分になっていくことです。それは自分の中で良し悪しを決めないことであり、如何に目的に対して自分の方を変化させていくかということです。言い換えるのなら人生の挑戦者であり続ける訓練なのです。

本来やりたかったことをやったり、本当に願うことに取り組むためには無条件で自分がやりたいことを自分の中から見出す必要があります。そのためには、自分をゼロにする努力、つまりは自分の先入観や過去や偏見をまずは捨ててて目的達成のためだけに集中してみることです。

それは決して今流行りのリセット願望のように自分にとって都合の悪い過去をなかったことにしたり、自分の理想の状態以外は認めずに消し去ってしまおうとしたりするのではなく、自分というものに固執せずに目的のために自分を変えていこうとする挑戦によって新しい自分に出会い続けることが人生を本当の意味で変えていくということです。

ゼロベースで生きるというのは、常に目的や初心や理念に合わせて新しい自分に出会い続ける挑戦者であるということです。子どもたちにも諦めずに自分を大切に生きていく手本が示していけるように挑戦を続けていきたいと思います。

最高の宝、天性の持ち味~自分を見つめてみよう~

人は本当の自分になることで真実が観えて現実が変わります。その価値観の殻を毀すのは自分自身ですがそれは自分を自分で創り上げていくという人生の使命です。その自分を自分で知るには、自分の体験や経験を通して学んでいくしかありません。その学んだことを通して自分が何を感じて何が変わったか、その変わっていく過程を知ることが人生の本の一ページをめくることのように思います。

私の恩師がよくリジリエンシーの話をします。これは立ち直る力とも言われ、素直に起き上がるために何が必要かという力のことです。私の解釈ですがそこには三つ大切な要素があるといいます。

一つ目は、無条件で愛し愛されること。二つ目は、楽観的であること、ポジティブであること。言い換えれば禍を福に転じたり、ピンチをチャンスにしたり、短所を長所に転換できるということ。三つめは、自分が好きなことです。この自分が好きなことは自己肯定感とも言われ、自分の弱さも含め丸ごとそれが自分であると受け容れて自分自身を信じてあげることだと私は思います。

自分と向き合うためには、自分を見つめられるようにならなければなりません。その時に、自己嫌悪して自己否定ばかりしてきた自分を見つめたくない思いから人はなかなか自分と向き合うことができません。自分と向き合うには、自分のいいところを探したり、自分の信じているところや、自分自身のことをもっと深く掘り下げて本当の自分の良さを自分で見つけることが大事になります。

自分と向き合い、自分を見つめてみれば外側の世界が問題なのではなく自分自身の問題で外側の世界や現実が歪められていることに気づきます。感情もまた向き合いたくない、見つめたくないから自分を防御するために出てくるのです。感情に呑まれるのも向き合いたくないから、見つめたくないからでもあります。

その現実を受け止めてそれでも自分が変わりたいと素直に思えるのなら、その素直に変わりたいと思う自分を信じて認めてあげることで諦めない自分を好きになれると思います。本心や自分の声を大事にするというのは、現実よりも自分の声を信じてあげることで大切にできるからです。

幼いころから閉塞的で画一的な社会の抑圧の中で自分ではいられない、自分を無理やり周りに合わせたり、自分を否定されたりすれば自分が歪みます。その歪みから自然体でいられなくなり、自分がわからなくなり苦しんでいることもあります。しかしそれも必ず殻を毀し抜けていくことができるのです。

そのためには自分の良いところや周りの良いところ、長所や持ち味を活かして自分自身も周りのことを信じてあげるところからはじめることです。みんないいのはみんなが違うときで、人と違うことはすべてその人にしかない天性の持ち味だからです。

もう一度、自分を見つめてみてください。

きっと天が与えてくれた最高の宝が、天性の持ち味が発見でき世界に一人しかない自分の個性を発掘できる仕合せに出会えると思います。子どもたちの心を信じきれるような大人になっていきたいと思います。

向き合う

人は弱さを受け容れることで本当の強さを手に入れることができるように思います。そのためには弱さと向き合い、弱いことを素直に自覚し、それを直視して改善を続けていくことで強くなっていくものです。

最初から強い人などはなく、みんなはじめは弱さからはじまりそれを向き合い鍛錬することで強くなるように思います。

しかしこの自分の弱さというものを否定して、向き合わなければこんなはずではないと勝手に思い込んだ自分のプライドばかりを高めてしまいいつまでも改善が進みません。自分が弱さから向き合うことを逃げてしまえば、その弱いことはますます悪いことになります。

弱いことが悪いことになり、その悪いことは避けようとすれば自分の弱さと向き合えることができなくなり本当の自分自身のことがいつまでもわからなくなります。

テニスで有名な松岡修造さんの著書に「挫折を愛する」(角川oneテーマ21)があります。あの情熱が溢れ熱血な姿で周りに勇気を与えている松岡さんは実は常に自分の弱さと向き合っているということでその本当の強い姿に共感を持ちました。特に印象深い言葉には、

「自分の弱さときちんと向き合い、自分を変えていこうと行動してきたから、焦り、落ち込み、挫折感、絶望感を乗り越えて、心が強くなったのです。」

自分を変えるためには、自分の弱さと向き合うことからはじまります。その感情は挫折感や絶望感、そういうネガティブな感情ですが変わるためには受け止めようとしたということです。

よく弱いからダメだと思い込めば、弱いことを否定し鞭を打ったり、他の人に弱いことを隠し弱さをさらけ出して人に頼ることができなくなります。本当は自分ではできもしないことを無理をして進めてかえって周りに迷惑をかけることばかりです。自分でできないことを知ることは悪いことではなく、できないからこそ周囲と一緒になってその問題に対処していく必要があります。こうでなければならないと決めつけて弱さを否定すれば、すべて一人で抱え込んでしまうことになるのです。その理由はすべてこの弱さと向き合えないことから起こります。さらに弱さと向き合い松岡さんはこういいます。

「諦めない自分を発見し、「本当の自分は強いんだ」と思えるようになるためには、何かで自分を追い詰めることも必要です。「もし諦めなかったら、どういうことが起きるか」を実際に体験すれば、心は確実に変わっていきます。」

本当の自分を弱いダメな自分と思い込み信じてあげられず、本当の自分と向き合うのが怖くなるのは誰もが同じです。自分がもっとも身近にいる本当の自分のことを信じてあげられず、自分というものへの不信感からいつまでも自分を偽る術ばかりを身に着けて誤魔化していたら大事な場面で本当の自分を裏切ってしまいます。

そうではなく、弱さに向き合って弱さを受け止めて弱いままでもそれと付き合っていこうと弱さを否定せずに受け容れていく努力を続けていたら「諦めない自分がある」ことに気づくといいます。自分のことを誰よりも先に諦めてしまうのではなくその弱さもあるのが自分自身なんだと諦めずに信じ続けていくことが「向き合う」ということです。

完璧でなければならないと完璧人間になってプライドばかりを肥大化するよりも、不完全な人間だからこそ助け合い協力してお互いを信頼する力が備わっていると信じることが自分を諦めないということかもしれません。

弱さと一緒に向き合う中で本当の仲間ができたり同志があったりパートナーができたりと絆ができますから諦めずにじっくりと見守り心を寄り添っていきたいと思います。

内省こそ本物の人生

内省という言葉があります。内観ともいい、英語ではリフレクションとも呼ばれます。一般的には、自分の考えや行動などを深くかえりみることとだとされていますがこれは人生において何よりも重要で優先するものなのは間違いないことです。

なぜ内省が必要なのかを少し書いてみたいと思います。

内省といえば、論語に「子曰。君子不憂不懼。曰。不憂不懼。斯謂之君子已乎。子曰。内省不疚。夫何憂何懼。 」があります。これは孔子が君子は憂えず恐れることはないといったとき、弟子が憂えず恐れなければ、君子と言えるのでしょうかと尋ねた時、自分自身の心に疾しいところがなければ何を憂え何を恐れるものがあるかと言いました。

この時の内省をする相手は誰か、それは自分自身の本心、本物の自分ということです。しかしもしもこの本物の自分自身が何処にいるのか誰なのかもわからず、そしてどんな人なのかを知ろうともせず、自分勝手にきっとこんな自分だろうと勝手に自分の仮定した都合のよい自分を自分だと思い込んでいたらこの内省は決してできません。

内省がとても難しいのは、本物の自分が観えず自分の初心や本心を自分が知ることができないからなのです。

人間は本来、自分の本心、つまりは何のために生まれてきて何のために自分を使っていきたいかということを知っています。しかしそれが様々な我欲や願望、周囲の環境や刷り込みによって自分というものの本心が隠れて別の自分としてこの世の中で立ち振る舞っているうちに自分というものが分からなくなっていくものです。

松下幸之助さんが素直の百段を目指していたのも、そうした本当の自分自身というものの声を聴くために内省を続け、素直であったかと自分を戒め天命に従い使命を全うされていたように私は思います。

論語には、もう一つ「三省」という有名な言葉があります。ここには「曾子曰。吾日三省吾身。為人謀而不忠乎。與朋友交而不信乎。傳不習乎」とあります。これは私は常日頃から自らのあり方を省みる。人の為に心を動かされて忠ならざる事はなかったであろうか。 志を同じくする友の意に従うばかりで信ならざる事はなかったか。己の身にもなっておらぬ事を妄りに発して、人を惑わせていなかったと。つまりは真心のままであったか、本心のままであったかと常に自分を確かめながら歩んだのです。

本心や真心を初心とも言いますが、この初心のままの自分であるかどうかがもっとも大切なことでありそれは自分の行動や発言、経験したことを常にその場で振り返り初心に照らして本当にそのような自分でいられたかと確かめ続けるということです。

人間は本当の自分になることや、本来の自分自身になることが答えを生きることであり、いつまでも自分を探していても答えがあるわけではないのです。だからこそ内省が何よりも重要であり、内省なくしては本物の人生もまたないのです。

自分自身になることが本来の自立の本質であり、独立不羈、唯我独尊もまたその自分になっていくことです。心をかき乱されないように内省を続け、平常心のままに自分自身を自分自身で生きていく、そういう一生懸命な生き方の中で心を開き心豊かに自分の生を全うしていくことが自然の大道でもあり、人間本来の生きる道を叶うことだと私は思います。

自分に出会える仕合せと、自分でいられる仕合せ、まさに自分との邂逅が内省によって行われるとき人は本当の意味で世界を知り全体を知り、そして自分になります。

引き続き、子どもたちには内省の場の大切さを説きつつ内省の価値を伝承していきたいと思います。

わかった気にならない

人間は相手の話を聴こうともせずに先に決めつけ思い込むときは、自分の頭の中で勝手に自分の都合の良い方へと処理しているものです。本当は深い理由があるものを、自分の狭い範囲の見識や、浅はかな洞察によって表面上は当たっているようになっていたとしても本当のことはほとんどわからないのです。

話を聴こうともせず、洞察力ばかりを磨いてしまうと人間の深さが分からなくなります。人間の深さが分からない人は人を本当の意味で尊敬することもできず、どこかで人を見下したり軽蔑したりするものです。人間は自分が思っている以上に、深く広いことを心の奥底では思っているものです。そこに触れる人は、真実を知り、自分の浅はかな思考を戒めるのです。

ではなぜそうなるのかといえば、「きっと何か大切な理由がある」と相手を尊重して話を聴こうとしないからです。分かるところで理解することばかりを続けていたら、その人は物事を深堀りしていくことをせずわかるところまでしかわからない人間になってしまいます。

自分が分かる範囲で、それ以上は知ろうとしなければ分からないところは知る由もありません。自分のわかっている範囲で生きていけば、本当の意味で目覚めることもなく、悟ることもなく、共感することもできません。

私たちの会社では「わかった気にならない」という実践がありますが、まさにこれは自分のわかるところで思考を止めることを已めないということ。分かるところで聞くのはわかった気になっているだけで、きっと何か自分に分からない理由があると聴くときこそ本当の意味で深く本質まで到達することができるのです。

幼いころより、ものわかりがいいことやすぐにわかって行動できる人間が優秀で、いつまでも「なぜどうして」と聞くことは恥ずかしいと教育された人もいます。しかし、本質というものはこの「なぜどうして」と突き詰めてはじめて出てくるものであり、先に分かった気になってしまえば本質などはたどり着く前にズレてしまいます。そのズレを無理やり合すために自分の頭を使って都合よく現実を捻じ曲げている習慣をつけてしまえば頭がピントがずれてそれこそ本質も歪んでしまうものです。

だからこそ大切なのは、聞き返す訓練や掘り下げて尋ねる訓練、また本当は何かと意見を出して相手に理解や言葉を研鑽してもらうような事上錬磨が必要になるのです。相手が深い人であれば、自分の意見の浅さに気づくものです。それを深く潜れる人と一緒に潜ってもらい泳ぎを診てもらうことで自分の泳ぎが磨かれていきます。

潜ってもいないのに、潜らなくても大体わかるといっていつまでも一緒に潜らなければ結局は深く潜ることができなくなります。分かるということが大事なのではなく、知るということが大事なことであり、知ることはすべて実践することによって得られます。

最初に止めるべきは、決めつけたり思い込んだりすることでその後に実践すべきは他人の話を素直に聴くということで内省し本当の自分に近づいていくということだろうと私は思います。

本当の自分に近づけば、自分のことを知っていきます。分かった気になった自分ではなく、学問が磨かれ本物の自分に出会います。そうなることで天命に近づき使命に生きていくことができます。

子どもたちには聴くことの本当の素晴らしさを伝承できるように、わかった気にならない実践を続けていきたいと思います。

自分を大切にするということ

本当の自分が何を望んでいるか、それが初心です。しかしそれが次第にわからなくなり、気が付くと手に入れたいものや欲しいものにすげ換ってしまいそれを夢だといい出すのは本当の自分が見えなくなっていくからです。

ほとんどの人が、やりたいこと=夢になっていますが本来は初心=夢であります。自分の夢と他人の夢、その夢の違いは揺るがない初心と、他と比較されて得た相対評価の時に揺らいでしまう夢です。

例えば、ある人に自分のやりたいことが何かと尋ねると、サッカー選手とか、コンサルタントとか経営者とか、保育者とかいろいろと返答が帰ってきます。さらには仕事内容や業務内容、趣味の話を仰る方もいます。しかしそれは初心ではなく自分の願望や欲望のことです。それになってどうするのか、何のために誰のためにそれをするのかと聞くと出てこなければそれは初心ではありません。

私の仕事の場合は、子ども第一義を理念に掲げ、子どもを信じきり、子どもの手本になり、子どもが憧れる生き方をし、子どもに譲りたい社會を復古起新しようとしています。そうなってくると、将来は何の仕事をしているのかよくわかりません。ひょっとすると、今と仕事内容が異なっているかもしれませんがもしも仕事内容が目標で入った人がいれば辞めていくと思います。しかし初心や目的を忘れない人は、職種や仕事内容がやりたいことではないことはすぐにわかります。ひょっとしたら全く今とは異なる仕事をしているかもしれません。何のためにと誰のためにが変わることが問題であって、職種が変わることが問題ではないからです。

変化していくというのは、自分が初心や目的を守り続けていくということです。いつまでも自分の願望や欲望や固定化された思い込みに囚われ、他人の夢を追いかけ、自分の本当の初心を蔑ろにしてしまえば変化が止まってしまうものです。

自分を変えていくというのは、初心や目的を換えないために自分の方を変え続けて成長していくということです。初心や目的を換えていくら成功が手に入ったとしてもそれは一時的に自己満足を得たとしてもすぐに空虚感が訪れます。それも人生ですから、良し悪しはないのですが一度しかない人生を何に使うか、自分のいのちを何に用いるかはその人の決心と覚悟次第です。

初心や目的が定まらない間は、自分が変わらない方法ばかりに目移りしますが自分を見失うときこそ他人の話に耳を傾ける素直な心を持ちたいものです。仲間や同志は初心を忘れさせない存在であり、本当の自分を大切に見守ってくれる存在です。

子どもにとって自分を大切にする自分を背中で見せていきたいと思います。