わかった気にならない

人間は相手の話を聴こうともせずに先に決めつけ思い込むときは、自分の頭の中で勝手に自分の都合の良い方へと処理しているものです。本当は深い理由があるものを、自分の狭い範囲の見識や、浅はかな洞察によって表面上は当たっているようになっていたとしても本当のことはほとんどわからないのです。

話を聴こうともせず、洞察力ばかりを磨いてしまうと人間の深さが分からなくなります。人間の深さが分からない人は人を本当の意味で尊敬することもできず、どこかで人を見下したり軽蔑したりするものです。人間は自分が思っている以上に、深く広いことを心の奥底では思っているものです。そこに触れる人は、真実を知り、自分の浅はかな思考を戒めるのです。

ではなぜそうなるのかといえば、「きっと何か大切な理由がある」と相手を尊重して話を聴こうとしないからです。分かるところで理解することばかりを続けていたら、その人は物事を深堀りしていくことをせずわかるところまでしかわからない人間になってしまいます。

自分が分かる範囲で、それ以上は知ろうとしなければ分からないところは知る由もありません。自分のわかっている範囲で生きていけば、本当の意味で目覚めることもなく、悟ることもなく、共感することもできません。

私たちの会社では「わかった気にならない」という実践がありますが、まさにこれは自分のわかるところで思考を止めることを已めないということ。分かるところで聞くのはわかった気になっているだけで、きっと何か自分に分からない理由があると聴くときこそ本当の意味で深く本質まで到達することができるのです。

幼いころより、ものわかりがいいことやすぐにわかって行動できる人間が優秀で、いつまでも「なぜどうして」と聞くことは恥ずかしいと教育された人もいます。しかし、本質というものはこの「なぜどうして」と突き詰めてはじめて出てくるものであり、先に分かった気になってしまえば本質などはたどり着く前にズレてしまいます。そのズレを無理やり合すために自分の頭を使って都合よく現実を捻じ曲げている習慣をつけてしまえば頭がピントがずれてそれこそ本質も歪んでしまうものです。

だからこそ大切なのは、聞き返す訓練や掘り下げて尋ねる訓練、また本当は何かと意見を出して相手に理解や言葉を研鑽してもらうような事上錬磨が必要になるのです。相手が深い人であれば、自分の意見の浅さに気づくものです。それを深く潜れる人と一緒に潜ってもらい泳ぎを診てもらうことで自分の泳ぎが磨かれていきます。

潜ってもいないのに、潜らなくても大体わかるといっていつまでも一緒に潜らなければ結局は深く潜ることができなくなります。分かるということが大事なのではなく、知るということが大事なことであり、知ることはすべて実践することによって得られます。

最初に止めるべきは、決めつけたり思い込んだりすることでその後に実践すべきは他人の話を素直に聴くということで内省し本当の自分に近づいていくということだろうと私は思います。

本当の自分に近づけば、自分のことを知っていきます。分かった気になった自分ではなく、学問が磨かれ本物の自分に出会います。そうなることで天命に近づき使命に生きていくことができます。

子どもたちには聴くことの本当の素晴らしさを伝承できるように、わかった気にならない実践を続けていきたいと思います。