心の訓戒

以前、「心訓七則」という文章を読んだことがあります。作者不詳ですが、一つの訓戒としてはとても奥深いものです。これは愚直に生きるための自己内省の基準にもなるように思います。

一、世の中で一番楽しく立派な事は一生涯を貫く仕事を持つと云う事です
一、世の中で一番みじめな事は人間として教養のない事です
一、世の中で一番さびしい事はする仕事のない事です
一、世の中で一番みにくい事は他人の生活をうらやむ事です
一、世の中で一番尊い事は人の為に奉仕し決して恩に着せない事です
一、世の中で一番美しい事はすべての物に愛情を持つ事です
一、世の中で一番悲しい事はうそをつく事です

これはこの逆を考えてみるとわかります。目的も持たず人生を懸けられる仕事をせず、精神修養もしない、人のためによりも自利に走り、他の誰かと比較しては不平不満で妬み羨み、損得勘定で他人を評価し裁き、自分のこと以外無関心で、嘘をつき言い訳ばかりをする、このようには生きてはならないという訓戒です。

世の中というものは、自分の生き方でどうにでも観え方が変わってくるものです。自分が正直に生きていれば世の中は美しくなり、自分が不誠実で生きていけば世の中はただ世知辛く感じるものです。

誰がどうであれ、自分はこう生きようと信念をもって信条を優先して生き方を貫けばこの世はその通りの世の中になるものです。つまり自分次第でいくらでも世の中が変わってみえるということです。

だからこそ重要なのはいつも自分が世の中に対して如何に心の姿勢を正しているか。正直であるか愚直であるかと確認し続けることが大切なように思います。人はそれぞれに心訓というものを持ち、自分の心がどんな時でもちゃんと着いてこれるように日々に心掛けを実践していくしか真に仕合せの道はないということでしょう。

これを別の言い方で「平常心」とも言いますが、如何に常に自分に打ち克って心で決めた信念を優先することができるか。平常心を保ちながら試練を通して人生を磨いていくのが人生です。一生涯ずっと自分との闘いとも言えますが、それが人生をよりよく生きるということの本懐だと私は思います。

子どもたちにもそういう心の在り様を観て訓戒を持てるような生き方の背中が遺せるように日々に愚直に正対し内省していきたいと思います。

 

 

 

仕事とは何か、生き甲斐とは何か~人生の大切な問い~

今の時代は、生き方と働き方を分けて考える人が増えたように思います。仕事は仕事だと分けて考えるようになり生き方と次第に分かれていったように思います。本来の仕事は生き甲斐を感じるものですが、損得勘定が入ってくることで楽ができることが得であり、苦労することが損であるという考え方から余計に生き方から遠ざかっているようにも思います。

この生き甲斐というものは、生きるに値する価値のことですが自分が志した目的に向かって命を懸けることができるときに感じられるものです。自分の命を懸けてまで取り組んでいることに如何に価値を見出して働くか、そこが人生を味わうことと関係しているように思います。

ニュースキャスターの池上彰さんが生き甲斐についてこう解説しています。

『自分が社会の中で何か役立っているなということを認識できて初めて生きがいを感じる事が出来るんですね 社会における自分の価値や存在を認識するその作業が「働く」という事なんですよ』

人間は本来「働く」ときにこそ、その生き甲斐を感じることができるということです。

よくスケジュールや時間に追われて、ただ目の前のことをやるだけの仕事や、上司の命令やお客様の要望をただ終わらせることが目的になっている仕事などは決して生き甲斐にも働くことにもなりません。すぐにこんな状況に陥る人は、どこかで本来の目的や働くことを忙しいという理由で初心を手放すことでそうなるのです。

仕事をすることは人生とはどこか別のことのようになっている状態は、たとえば学校でやらされた義務教育と実際の人生が別のものになっているものと似たようなものです。過去の刷り込みからそうやって人生と分けて考える癖を持っている人は、仕事が本当の意味で楽しくなることはありません。またそういう状態の時は決して初心のままに取り組んでいることもありません。先に作業があって初心を後付けというものはないからです。初心があるから作業に価値が出てくる、それが生き甲斐になるという構造だからです。価値を創造するのは価値を決めた人間の質に左右されるのです。

だからこそ日々初心を忘れないようにするには、目の前の仕事を如何に楽しむか、楽しくしていくかに懸かっています。この楽しむとは仕事の価値を如何に自分が認識し続けるか、つまりは苦しく辛くてもそれが次第に大好きになってく、まるで目的に向かって人の役に立ち徳を積んでいけることが歓びなるような生きる姿勢の鍛錬こそが生き甲斐を感じる生き様になります。仕事ばかり増えて働くことがないことほど人生で寂しいものはありません。

仕事を嫌々やっていれば仕事が増えれば文句を言い、仕事がなくなればまた誰かに不満を言う。こんな自分にとっての損得だけの物差しで責任転嫁ばかり続けていたらもっとも不幸になるのは自分自身です。この世界の問題は他人事ではなく自分ごとであると当事者意識をもって責任を持つことができればその自分にとって嫌なことがすべて世界や社會に大いに役に立つことに気づけるのです。傍を楽しくするのが働くことの本質だからです。

仕事を如何に面白くしていくかという取り組みは、自分の人生の生き甲斐を伸ばすために大切な素養になります。そのために必要なのは常にその仕事の本来の目的を見つめることです。仕事の目的は必ず自分の人生の目的と繋がっているはずです。そしてその目的に向かって取り組んでいるとき、池上さんが言うように「自分の価値や存在を認識できる」状態になります。これが目的意識をもって働いている状態を維持し、人生の生き甲斐になるのです。

何のために自分の人生を使うのか、何のために自分はこの仕事をするのか、当たり前のことですが単に作業を終わらせるためにではないし、早く楽をして休みたいからや他のことをしたいからというのではないのは考えればすぐにわかるものです。

日々に流されて目的を見失い自分から仕事を無価値なものにしないように常に初心を忘れないこと、つまりは生き方と働き方を分けないままの自分で取り組んでいくことが大切なのです。そしてそれは働くことを楽しむことで心を亡くさない状態を維持します。沁みついた生き方の癖は、働くことを楽しむリハビリで必ず修正できます。

私でいえばやっていることはすべて子どもの第一義になるのだから損な仕事など一つもないとすべて意味を見出して取り組んでいるうちになんでも楽しくなってきます。この楽しいという気持ちは、いつも子どものためとイコールなのです。

最後に本田技研工業の福井威夫社長の言葉をご紹介します。

「自分が楽しまないと本当の仕事はできない。自分が楽しんで仕事をすれば、それが会社の為にも世の中の為にもなる。」

これは決して欲望の楽ではなく、「初心が楽しんでいる」という境地のことなのでしょう。

生き甲斐をもって働くことが未来の子どもたちに道を伝承できる本当の仕合せです。引き続き生き甲斐をもってこのブログも楽しく取り組んでいきたいと思います。

愚直の徳

先日、「愚直」について考える機会がありました。この愚直とはバカ正直すぎて臨機応変ができないことなど辞書に書かれます。しかしこの時の愚直さの「愚かさ」は決して嫌な意味での愚かさではなく「尊い愚かさ」の方を言うように私は思います。

この愚かさの反対は要領がいいことを言うように思います。損か得かで物事を見れば得ばかり求めている人は要領がよくなっていくものです。特に仕事では残業がなく上手く仕事ができる人や休日出勤しなくていいや、段取りよくスムーズに仕事をしてプライベートの時間を楽しめるなどが要領が良い人などと言われます。

愚直な人は損をしているイメージがありますが、愚直な人は徳を積んでいる人だと私は思います。仕事と生き方を分ける人は、仕事は損か得で考え、生き方は徳だということを自覚しています。しかし実際の日常生活の中でそこを分けて生きる人は仕事は本当は徳を積める善いものであるにも関わらず損したとか得したとか、その意識で働こうとします。

働き方と生き方が分かれればわかれるほど、せっかくやったこともすべて損得勘定で不平不満ばかりを述べてはせっかく積んだ徳も流れてしまいます。今の時代は、損か得かの得の方ばかりを見ては苦労を避けたり、艱難辛苦から逃げようとして楽ばかりを求める風潮もあります。楽を選べば得はしても徳は積むことはありません。

この愚直さには徳があり、正直に素直に生き方と働き方を一致させ真摯に一生懸命に人生を盡す人には道理に叶い幸せになるのが分かります。愚直さとは自然の摂理であり道理そのものですから、自分の生き様や生き方に照らして日々をどう生きるかはその人がどれだけ正直に盡せるかに懸かっているのでしょう。

愚直こそ徳の顕現した姿ですから、愚かなほどに正直である人こそこの世でもっとも尊い人だということだと私は思います。子どもたちにはどちらの自分でありたいか、どちらの自分を見せたいかは明白です。

最後に、松下幸之助さんが大切にされた「愚直の尊さ」を松下政経塾の塾生レポートのHPに紹介されていたので転載します。

「愚直の人

 あまりにも正直すぎて、おろかなほどにまでひたすらで、だから機転もきかないし融通もきかない。世俗の人から見れば、どうにももてあますような人。

そんな人はいつの時代にもいるもので、これも人間性の一面であるのかもしれない。

しかし、正直すぎるのはいけないことなのか。ひたすらなのはいけないことなのか。機転がきかなくて融通がきかないのはいけないことなのか。

よく考えてみれば、どれ一つとして非難すべきことはない。むしろ、りくつばかりまくし立てて、いわゆる賢い人ばかりが多くなったきょうこのごろ、こんな愚直な人は珠玉のような人であるとも言えよう。

古来、祖師と言われるような人は、ほんとうは愚直の人であったのかも知れない。だから、世俗には恵まれなかったとしても、そのひたすらな真実は、今日に至るもなお多くの人の胸を打つのであろう。

愚直もまたよし。この波らんの時にこそ、自分に真実な道を、正直にひたすらに、そして素直に歩んでみたい。

(「続・道を開く」松下幸之助 P84-85 PHP研究所 1978年)

 

道を歩む

人生の中には、選べない道があるように思います。いくら自分が避け続けていてもその道は必ず自分の前に現れてくるものです。一度ならずも二度も三度もその道が現れるのならば運命だと思ってその道を進むことで人は救われることがあるように思います。

実際には、その道があることがわからずその道すら現れない人もいます。前に進むのをやめてしまえば、道は現れずいつまでも停滞を続けていくのです。自分が否定した道や避けてしまった道は、目の前にあっても気づくことがありません。他の道ばかり探していると、結局はその場所をぐるぐるとまわっているだけで通過することができないのです。

人生というのは面白いもので、自分に与えられた道があります。道の良し悪しを選びたくなる気持ちもよくわかりますが、問題は道そのものではなく道をどのように歩いたかの方が本質的に生きることになるのです。

その道を歩まないという選択は、その道を味わうことがないということです。自分の人生の目的地に行くためにはその道は避けては通れないとしたらどうするか。怖くても辛くても苦手でもその道を通る必要が出てきます。

その時、その似たような道を通った人からの助言をもらったり、自分と同じ道を歩む人と一緒に歩いてもらったり、無我夢中になっているうちに勇気が出て歩んでいたり、歩み方はいろいろとありますが歩む必要は誰にしろあるように思います。

人生の旅路は、みんな大変でも目的地に向かってその道を歩んでいきます。その歩む道すがらに仲間がいたり、同志がいたり、パートナーが顕れます。その人たちは自分の代わりに歩いてくれるわけでもなければ、自分が歩かないのでと頼んだりすることができません。

その仲間たちはみんなそれぞれに苦しくても辛くてもその道を歩んでいくなかで、共に励まし合い、声掛けをし、時にはその背中を見せて勇気をくれたりする存在であって自分の代わりにその嫌な道を歩いてもらうことはできないのです。自分から先にその道が嫌だからと歩くのやめれば、道は閉ざされてしまいます。

道を歩むというのは、現実のことであり空想や妄想で誤魔化すことができません。だからこそ、その道を避けるのではなくその道を歩んでみようと敢えて足を踏み入れる勇気を出して前進していくことが人生の仕合せの王道のようにも思います。

その時、見守ってくださる存在があることの有難さはかけがえないものです。

私たちの会社は、道しるべになることを目指していますが道すがらに見守るお地蔵様のように道を歩む子どもたちを見守りたいと思うのです。自分の道を歩む人が次は他人の道を見守れるようになる。

子どもたちのためにも道を守り続けて歩み続けて味わい続けていきたいと思います。

生きる工夫

なんでも楽しんで生きている人は、人生を悔いなく味わって生きているものです。マジメになり楽しくなくなってくると人生は後悔ばかりの連続になります。この人生を如何に楽しむかのコツを掴むというのは生きていく上で生き甲斐や遣り甲斐を味わう大切な素養になるように思います。

先日、ある学校の伝承の一つに「ふざける、楽しむ」というものがあるとお聞きする機会がありました。学園祭や文化祭など団長や実行委員は敢えてマジメにやらずふざけることと先輩から後輩に伝承されているそうです。きっと楽しむためにはマジメにやっていても楽しくなるわけではなく、多少ふざけた考え方をした方が味わえるということなのでしょう。

このふざけたというのは決して幼稚なという意味ではなく、楽しむという意味です。楽しもうとするからふざけるのであって、ふざけるから楽しむことができます。フマジメな態度で何かをやっているとよく「ふざけるなもっとマジメにやれ」といわれることが多いですが、マジメに楽しいことをしようと思っても楽しくなることがないからふざける場合もあるのです。

人生行路の中でたとえ修行中と言われるような苦行の最中であったにせよ、その境遇を楽しもうと思っている人はその修行すらも味わい遣り甲斐や生き甲斐を感じています。そのためにはただ修行をマジメにやろうとするのではなく、如何に修行をふざけられるか、つまりはどうせやるのならもっと没頭してみようと思ったり、やり方を工夫してみようと思ったり、心の持ち方を換えてみて今しかないのだからと味わおうとしたり、自分の成長を記録してみたりと楽しむための努力をするのです。

このふざけるというのは、心の余裕につながります。心の余裕や余白がないからマジメになるのであり、言い換えればマジメだから心のゆとりが失われ楽しくなくなってくるのです。

どんなことも好奇心で楽しむ人は、どんな時でも心の余裕や余白を持っています。ふざけているようで本気、マジメではないように見えて真剣、つまりは本気で真剣に生きていればいるほどに「にこにこ顔で命懸け」の境地で人生を楽しんでいるのでしょう。

一度きりの人生だからこそ、後悔ばかりで暗いマジメじめじめな日々を歩むのではなく二度とない人生、一期一会に真剣に楽しんで日々を歩んだ方がかけがえのない人生を送れるようにも思います。

マジメがダメだと言っているのではなく、どんな境遇も「楽しもう」と思うことが人生の仕合せ、生きる歓びにつながってくるように私は思います。抑圧やマジメの刷り込みに負けないように、日々の生きる工夫を創造し味わっていきたいと思います。

 

時の流れ

昨日は時の感覚について個人差があることを書きましたが時には同時に遠近によって待つ長さも変わってくるものです。遠大な目的や目標がある人は、時はゆっくりと時間をかけて動いていくものです。それは例えば自然界のように徐々にゆるやかに変化を続けていきます。

地球誕生の45億年といいますが、宇宙などは私たちが想像を超える年数を経て今でも変化を続けています。その時の流れはあまりにもゆるやかで私たち人間からみるとまるで何も変化がないように見えるものです。

しかし実際は、ゆるやかで大きい流れはとても偉大な変化であり目に見えることとは異なり目に見えないところでは想像を超えた変化を続けていることになります。私たちは目に見える変化をみては一喜一憂して迷い悩み、判断ばかりを焦ってしまいますが実際にはこの偉大な変化の方に心の目を向けて観れば流れに任せるしかないという境地に至るのです。

偉大な変化の中で自分に与えられる役割というものは自分の目からはわからないものです。それは自分を超越したものに身を委ねるときに大任を預けられていることを直観するときに天の目というか偉大な変化に任せようという心持ちになります。

どうにもならないことに身を任せながら与えられた今に最善を盡していくという生き方は、まるで変化そのものと一体になった姿です。そうなることで絶対安心を感じられ、安心立命の心を持つこともできるように思います。

しかしそうならないことが多いのは、迷いがあるからです。その迷いは、目先のことに囚われ視野が近くなり遠大でゆるやかな変化を感じることがなくなってくるからです。自我の欲望を捨てることや、執着を忘れることや、自利をゆるすことは迷いを取り払うためには必要です。迷うことで人は心を亡くし、迷いから覚めて素直に反省し心が甦るようにも思います。

素直さというものは丸ごと信じきることで、言い換えれば自分には運があるという物の観方、また時に任せて委ねて信じて歩む生き方ができるということです。時はそういう人の味方になり、時がすべてを解決してくれるようになります。

時の流れというものは、誰にも平等ですからまた時がすべてを司りすべてのご縁を結んでくれるように思います。時を信じきる、時を信じ抜くという実践こそが、見守られていきるという私たち人間の目指す生き方かもしれません。

伝統と伝承を守りながら新たな道を切り拓いていきたいと思います。

時を待つ実践

人生には良い時もあれば悪い時もあります。この良し悪しは自分で決めていますから、それは心の持ち方や転じ方で工夫していきますがどうにもならない時というものもあります。

そもそも「時」というのは、人それぞれに速度も質も中身も異なりますから同じ時を一緒に過ごしてもその感じ方は十人十色です。生き死にを体験したような人は時の質量も異なりますし、マイペースでゆったりな人の時もまた異なります。人間にはそれぞれ与えられた時間と、また自分が求めている時間がありますから時は人によって平等だとも言えます。

その時というものに対する姿勢において「時を待つ」という心境があります。これはどんな人にも言えることで自分が蒔いた種が育ってくるのですからそれが育つのを静かに待つということです。

今起きている、良し悪しは以前自分が蒔いた種が芽がでて実になったともいえます。人生にも四季がありますから春蒔きと秋蒔きの種を蒔けば旬を逃さなければそれが実になります。実を収穫したいと思うのならば、その種を蒔き続けなければなりません。

人生には因果応報といって、必ずその原因と結果が結び付いているという道理があります。人生には必ず理由が存在し、いくら理不尽だと思ってもその原因は時間が経てば次第に解明していくからです。

その「時」との付き合い方や接し方が生き方であり、どのように時と上手く付き合っていくかが自分との向き合い方にもつながっているように思います。

松下幸之助氏はこうもいいます。「悪い時が過ぎれば、よい時は必ず来る。おしなべて、事を成す人は必ず時の来るのを待つ。あせらずあわてず、静かに時の来るのを待つ。」

また私がよく振り返りに用いる本田静六氏に「決して散る花を追うべからず、出づる月をただ心静かに待つべし。」があります。

心静かに待つためには、習慣というものを身に着ける必要があります。それを実践ともいいますが、良し悪しの時でも平常心で実践し続けて心を静かにしておくということです。

心がざわつくたびに実践をやったらやらなかったりするのは心を亡くしているからです。どんな状況下であっても心さえ手放さなければ心はいつも付き従ってくれて心を穏やかにしてくれます。この「静か」というのは、時を待つ心境のことを言うのでしょう。

「時を実践しながら静かに待つ」ためには、習慣というものを身に着けなければなりません。習慣とは努力のことであり、継続こそが忍耐力や平常心を育みます。子どもたちにその努力の意味や幼いころからの習慣が人生を好運に近づけることを背中を通して伝承していきたいと思います。

卒業とは

この時期は、全国各地で卒業式が行われています。この卒業式を調べてみると日本での歴史は1872年の学制の施行に伴い各学年ごとに試験修了者に対して卒業証書を授与したことがはじまりだとされています。明治10年頃になると現在のような形の儀式として定着したといいます。

卒業式は教育課程を修了したという認定の証であり、そのお祝いをする式典です。 式典で卒業証書を授与することを卒業証書授与式と呼ばれ、それが短縮されて卒業式になったといいます。それに「業」は「学問、技芸」を意味し、「卒(そつ)」とは、「おわる、おえる」という意味になるといいこの二つを合わせ学問をおえるになるそうです。

その一つの学びの期間が終わる、それは学びの期間を経て次のステージにアップすること、今の自分の学びをブラッシュアップすること、つまりは今までの自分の意識を換えて新しい自分に挑戦することもまた卒業とも言えるのではないかと思うのです。学校であれば、その体験の期間の卒業でありこれは人生においても同様に時季時機においての卒業があるように思います。

それまでの学び方を変えて、新しい学び方をするということは自分をさらに磨き上げ、柔軟性を持ち平常心を高め自由自在に自立していくためにも学び続ける必要があります。

敢えて卒業があるのは、その期間、その体験を経て次に向かう必要があるからのようにも思えます。出会った仲間たちによって得た学びを、また次の場所で活かしていく。そのように人は前進していくことで自分というものに向き合い、自分と出会い、自分の人生を自分の足で歩んでいき、自分の人生を自分の生き方で創造していきます。まさに体験こそが価値であり、その期間に何をどこで誰と学んだかということこそが最大の価値であるということの証明です。

人生はよく列車の旅に例えられ、学校はよくプラットホーム(歩廊)に例えられます。私たちの会社は、旅の心の持ち方を換えるターンテーブル(転車台)になろうとよく話をしていますが旅は終わることはありませんから常に人生も何度も卒業を続けているということです。卒業のたびに何度も新しい自分に出会えると思えば卒業は大切な振り返りの機会であり、次学への希望そのものです。

何度も何度も卒業を通して新しい自分に出会い成長していく子どもたちを見守りながら、自分自身も自分を毀し続けて新たな学びを楽しんでいきたいと思います。

 

自信への道~心の転じ方を与える~

ありのままの自分を認めるということは、現実を受け容れることにおいてとても重要であるように思います。自分の認める場所を限定し、ここは認めここは認めないと自分のことを歪めていたら本当の自分のことが分からなくなるように思います。

人間は誰しも本当の自分のことを自分自身で知ることで、現実を受け容れ、現実に生きることができるように思います。現実から乖離すればするほどに様々な問題が出てきてしまいます。例えば自分のことを誰も言ってもらえなくなったり、思い込みばかりが強くなったり、周囲の人と上手にコミュニケーションが取れなくなったりもします。

つまりはこのままではダメだとか、これでは認められないとか、こんなはずではないとか、理想の自分と比べて今の自分を自己嫌悪し全否定してしまうとその自分をそこから見つめることができなくなります。そうなるとさらに自信を失い他に依存してしまいます。他人に認められないことを気に病み自分のことをさらに嫌いになって現実逃避に走ってしまうように思います。過去のどこかの時点で自分を嫌いになって自己否定したことは今でもそれが色濃く残っています。それが何らかの場面で出てきては心の恐れになりますから過去をずっと今でも引きずってしまいます。

私もかつてこうありたいと思うばかりに自分の理想以外の自分はすべて否定する時期もありました。しかしそうやって自分を否定すると他人に評価される自分にばかり目がいってしまい「本当の自分の価値」も次第に観えなくなりました。本当の自分の価値を自分が知ることが本物の自信になりますから現実の自分をみてこれも自分の一部と認め、さらに過去に自分のしてきた自己嫌悪をゆるしてあげることもまた自信への道になります。

今の日本の社会環境は、歪んだ個人主義が蔓延し、比較や競争、個性を画一化することにより誰かの評価結果に対しての自信であったり、能力の優劣に対しての自信であったりが自信だと刷り込まれ、本当の自信を失う人が増えて圧迫感のある社会を生んでいるように思います。そのままでもいい、あるがままでもいい、その丸ごと認めている自分自身をさらけ出すことで周りが安心する社会をみんなで築いていけば無理をして頑張り過ぎて苦しむ人も減っていくようにも思います。人権尊重や個性尊重など当たり前のことがなくなってくると、ますます自己否定する人が増えていく気もします。

私たちの子ども第一義の理念の実践は、子ども心を守るための実践でもあります。私たちの会社がこういうことを向き合い続けるのは、子どもの心に寄り添い希望に生きる力を育めるように心の転じ方を与えていきたいと思うからです。

自信を持つ社会は自由であり、みんなが豊かにそれぞれの持ち味を活かし合える世界です。社会全体の閉塞感はそれぞれの自信のなさがつくっていきますから一人で抱え込んだりしなくてもいいように安心した社会を築いていくためにも本当の自分を見つめるものの見方や心の持ち方や転じ方を、一円対話や聴福人を通して伝道していきたいと思います。

 

真の協力~働く歓び~

昨日、初心を振り返る会議の中でパートナーの一人から「いい会社に入れてよかったねではなく、いい会社になってよかったねと言う人が何人いるかが大事」という話をお聴きする機会がありました。これは単なる受け身か主体かのことだけを示す言葉ではなく、自分が一緒に創り上げ真に協力しているかどうかの確認でもあります。

これを国家に置き換えてみても、「いい国に生まれてよかったねといい国になってよかったね」では意味が異なります。本来、いい国というのはどうやって出来上がるかといえばいい国にしようと思った人がどれだけの数いたかということになるのです。

自分たちが主になって活動するのなら、そこには自然に誇りや自信が生まれてきます。そして豊かで楽しく理想の実現に向かって協力し合っていくことができます。誰かが主で自分はそこに付属していればいいというものではなく、まさに自分が主になって一緒に取り組んでいくことではじめて真の協力は行われるのです。

この協力という言葉は、単に付属して手伝っていることが協力とは呼びません。まさに一心同体に一緒一体に、同じ目的に向かって同じ意識で相談したり連携したり助け合うときに真の協力は生まれます。

真の協力関係とは自分の立場とか、自分の成果や目標を手伝ってもらうことを言うのではなく本来の目的に向かって一緒に取り組んでいく中で成果や目標を分かち合ったりお互いを必要としあったり信頼し合ったりする豊かさを味わうものです。

目標管理ばかりをやってきた人や自意識や自我、保身が強すぎる人は、協力の意味をはき違えてしまいます。それは自分にとっての協力であって、真の協力ではないのです。先ほどのいい会社やいい国になってよかったねと「分かち合う境地」こそ、真の協力の後に出てくる言葉だとも私は思います。

そういう仲間こそ利害関係がある間柄ではなく、人生を分かち合う真の仲間になります。

そのためには素直な心でもっと自分をさらけ出し、一緒に取り組むこと自体を楽しむように人との信頼関係を築いていく必要があります。目的に向かう全てを分かち合うこと味わう仕合せこそ、働く歓びです。

働く歓びを感じて子どもたちが未来に希望が持てるように、ドライな関係やギスギスした関係を捨て去って表面上のつながりや形上の協力風な取り組みを取り払い、真の協力を創造していきたいと思います。