ご縁の筋道

自分のルーツを知ろうとすると私たちはますはじめに自分の血筋というものを確かめていきます。自分の中に流れている血は確かなもので、その血がどのようにこれまで受け継がれてきてかを辿っていくのです。

そして同様にそこには確かな歴史があります。一部は文献として遺されるものもありますが、その文字で書かれたものは当時に誰かが改ざんしてしまったり、自分たちに都合が悪いものを消し去ってしまうこともあります。

だからこそ自ら血筋を辿り、自ら縁故各地を巡り、自分の足で歩いてはその道筋を確認することや、その土地の人から伝えられることや、自分の中で感じるその懐かしさや直観を使って全体的な筋道がどうなっているのかを掴むことが大切であろうと思います。

私もここ数日、自分の先祖に何方が居てどのように今に至ったかを調べていく中で自分の血が滾るのを何度も何度も覚えました。時には悲しい歴史を知り心を痛め、時には素晴らしい偉業を遂げた先祖を誇らしく思い、また時にはその歴史から自分が何を気を付ければいいかを先祖から直接的に諭された気がして頭が垂れる思いがしました。

本当の歴史とは、紙や文字で伝えるものではなく自分が伝えていくことです。それはいつまでも自分自身の感覚が歴史を忘れていないと信じることです。頭や知識で分かるのはせいぜい文字の範囲であり推測や記録の域を超えません。しかしこの自分の感覚で道筋を遡りそして筋道を確かめる、この筋が通った道理を自分自身が確認すれば、なるほど自分にはこういう歴史があると必ず直観できるのです。

ご縁はとても不思議で心に強く思い願えば、自然に導かれるようにその道が示されます。特に因果律が存在する以上、必ず今につながっている結果を遡れば原因に出会います。その原因と結果の間には、列記とした筋道がありますからその筋道の間をどのように直観していくかが歴史を知る醍醐味なのです。

私はもともと直観が強いタイプで、デジャブやシンクロニシティが多く奇跡のような体験が日常的に発生しやすいような気がします。表現が難しいですがまるで何か小さな出来事や微細なご縁につながるメロディーが聴こえて直観し、その筋道や道理がハーモニーを奏でるように観えてくる感じです。これが血が滾るという感覚ですが、歴史を辿るときっと同じような感覚を誰しも持つはずです。そしてその音楽を通して過去に何があったのか、この先の未来に何が起きるのかも心で察知していくような具合です。これは歴史の端を発する音を聴き分けているようにも思います。歴史は音楽を奏でている物語のようです。

そして今でも人々が記憶に遺したい口伝や石碑などにも、その道筋のヒントはたくさん隠れています。そして文献が残っていないものにこそ遺しておきたい事実は隠れています。その隠れたものを自分の足で歩いて手探りで掘り出していくことが歴史の探索の面白さです。

子どもたちにも、歴史の大切さを伝承していけるように私自身がご縁の筋道を通す生き方を磨き継承していきたいと思います。

人生の初心~足跡を振り返る~

日ごろの自分の足跡を振り返り辿ってみるとその道すがら大きな発見がたくさんあるものです。毎日、忙しくスピードを出して高速道路ばかりを走っていたら振り返る間もなく次の目的地のことばかり考えてしまうものです。

現在は情報化が進み、さらには寸刻みでスケジュールが決められ、何をするのにも正確に準備を求められるように思います。その中でみんな忙しくなり、より一層、決められた時間や決められた行程をきちんとこなすことに注力されていきます。

しかし本来、人生とは何かと思い立ち止まって考えてみるときそれは日々の体験をどのように感じるかということによってはじめて自分の人生を噛み締め味わうことができるのです。

大事なものを見失うとき、人は振り返ることがありません。私が日々に内省をするのは、自分の人生が何かを味わいながら歩んでいきたいからでもあります。奇跡のような出会いや出来事に包まれている人生を実感することで人は待つことができるようになります。

何でも待てずに手を出しては焦り、余裕を失い、正確かどうかで忙しくなってしまうのは自分の人生からどこか遠く離れた自分になってしまっているかもしれません。焦らずにゆっくりと、丁寧に歩んでいく人は人生の初心を忘れていないということでしょう。

人生の初心を歩んでいくのは先ほどの足跡を確かめながら歩んでいくことです。ここまで歩んできた道筋を振り返っては、「ああ、自分はこう歩いてきたのか」と歩き方を確かめて、「これからはこう歩いてみよう」と改善を続けていくことです。

自分の足跡は自分の人生を映し出します。

だからこそどのように自分を運んでいくのか、誰と一緒に歩くのか、どこを目指すのか、どの道を往くのかを常に日々に確かめていかなければなりません。それが人生を創るということです。

色々な道がある中で自分だけが通った道がある。もしくは自分にしか通れなかった道がある。その道が自分の人生だと思うとき、人は導かれている今に気づくことができるのでしょう。

常に導かれて歩いている実感がある人は見守られて生きていく人であり、次に歩く人たちや子どもたちを見守っていく人です。

日々の振り返りが人生であると、初心を忘れない実践を楽しみたいと思います。

自分を遣り切る意味

日々の自分の直観やご縁を信じて歩み、その意味を深めていくことはルーツを辿ることです。その理由は、真理として人間は因果律の中で様々な体験をしていくものだからです。因果の法則に従って、自分が何かをすればその原因が必ず結果を生む、そしてその結果がまた次の原因になるというように永遠に因果は巡ります。

このご縁の鎖は途切れることはなく、今まですべてつながり合ったままに存在しています。自分が生きているということは、先祖の血が流れているということでありそれまでどのように先祖が生きてきたか、つまりは原因を創ってきた結果を受けて生きているのです。

その結果とは、自分の体験することのことです。この体験の意味を深めていくほど、なぜこんなことが起きるのだろうか、この体験は何だったのだろうかと直観すると先祖の中でこういうことがあったのではないか、もしかしたらあの原因がこの結果になっているのではないか、そして私が創る結果が未来への新たな原因になっているのではないかと思いを馳せるのです。

私たちはつい自分に起きたことは自分の人生の範囲だけのことだと思い込んでしまいますが、実際に自分に起きることはその原因はもっと過去につながっていることであり、そしてこれから起きることも実際は今がつながって発生してくるのです。

例えば、何かをしようとするときには様々な出会いがあります。ある人は支援をしてまたある人は邪魔をする、しかしそれは過去のつながりから発生して出会うこともあるのです。また今出会っている人への行いで未来が変わっていくこともあるのです。徳を積んでいればその徳や恩によって周りがその人を手伝おうとしますし、それを使い切ってしまうようなことをすれば同様に仇になることもあります。恩も仇もご縁ですが結ばれていく内容が変化していくのです。

また先祖の遺徳を辿る生き方をする素直な人は、その遺徳が輝き先祖がもっとも託したい志や願いを叶えるために今世で使われていきます。私たちの先祖は死んでいますが、魂は死ぬことなく血の中で今の自分の方向性やご縁を導いていくようにも感じるのです。

選ばないというのは、先祖への恩徳感謝を忘れずにご縁を大切にして一期一会に生きていくということです。そしてルーツを辿り、先祖の生き方を学び今の時代にその生き方を活かしていくことです。

親祖が臨んだ生き方が連綿と連鎖し、全体として一つの芸術のように歴史を創造します。その歴史の一部として私たちは存在しながら親祖の物語をつなげていくのです。親祖が原因であり、私たち子孫はその結果なのです。

親祖の初心が何だったのか、それを知るのが今の私たちが生きている人生の体験です。人生の体験を通して私たちは親祖の初心を思い出し、それを実現するために生きるのでしょう。

引き続き子どもたちのために、ルーツを辿る選ばない生き方を貫き子孫たちが純度の高い物語を受け継いでいけるように自分を遣り切っていきたいと思います。

謙虚の入り口

人は御蔭様に感謝して足るを知れば、自分に与えられているものに気づくものです。そして自分を認めることができてはじめて謙虚の入り口に立つことができるように思います。

自分というものを受け容れるとき、謙虚に近づきます。しかし実際は、自分のことを認めずそのことから自信がなくなり謙虚とは程遠い高慢な態度をとってしまうものです。そうなるとプライド合戦がはじまり人間関係に支障をきたしていきます。自分のないところやできないところばかりを見ては、自分に対してマイナスな頑張りを続ければ続けるほど傲慢さが増していくのです。

自分自身のありのままを認めないという考え方は、自分の思っていた理想ではないことへの苛立ちや周りの期待に応えられないことへの不満もあるのかもしれません。しかし、自分のないものねだりをするばかりに自信を失いかえって周りの人たちの自信を奪い、さらには人間関係そのものを壊すような人になってしまっては本末転倒です。

本来は自分というものは天から与えられた欠けることが一つもない完全な存在であると認めることが自信の本質です。自分のままでいい、あるがままでいいというのは天から与えられた個性や才能を認めるということです。ここで認めることがなければ、周りも「あなたはいったい何様なのか?!」と思うでしょうし、その人の高慢で傲慢なプライドが増長し復讐心にまで高まると同時により一層自分自身ことを嫌悪して負の悪循環に陥るのです。

人間は生まれてすぐの純粋な子どもたちのように差別なく自他のあるがままを認めることができるとき、人は自他をゆるすことができます。このゆるしとは、誰も責めることがなく感謝で思いやることができているということです。一緒に生きていく人たちが、他人のことをどうこうするまえに自分自身をそれぞれで認める努力をし、その延長線上に周囲と認め合えばお互いに仕合せになれるように思います。

それに何かあるごとに当たり前の存在である水はダメだとか太陽はダメだとか、空気がダメだとか地球がダメだとか言ってそのものの存在を認めない人はいないと思います。この世にあるすべてのどれも必要な存在だと差別せずに受け容れることですべてを認めることができます。

私たちの日本の先祖はそれを八百万の神々として大切に尊重し合って暮らしてきました。それが和を尊ぶという意味です。

人間関係も同じく、お互いにこの世に必要な存在であることを自覚するのならその人のままがいいと思えるのではないかと思います。

謙虚の「謙」の字は、自然のままという意味です。善悪正否もそこにはなく、自然の姿、あるがままを認める人だけが宇宙万物一体全とつながる一つの存在になれるように私は思います。それが私が目指す自然体の姿そのものです。

簡単にはいきませんが、何か事あるごとに「これだではダメだ」という意識ではなく、「天がそうしてくださったのだからきっとこれでいい」と丸ごと信じることでゆるされた存在であれるように思います。

引き続き、足るを知り、御蔭様や感謝の気持ちを忘れずに人を自分の定規で裁かず、きっと何かその人にしかできない大切な使命があるのだろうと聴福人の実践と福徳を積み重ねていきたいと思います。

自分が変われないとトラウマを抱え心を痛め苦しんでいる人たちのためにも、自分自身が誰よりも丹精を籠めて素直な心を磨いていきたいと思います。

子ども第一義実践の意味

人はそれぞれに魅力を持っています。その魅力とは、その人らしさのことでその人が唯一無二の個性をもって生まれてきたことの証でもあります。個性とは魅力そのものであり、その人らしくやりたいことをやっているときそれは最大に輝きます。その輝きがそのままで誰かの役に立つと知ったとき人間は本物の仕合せに出会うのです。

しかしそのためには、その自分の魅力や個性を引き出してくれる環境やそれが役に立つといった環境がなければ自分を活かすことができません。そのためよく自分に合ったところに移動して自分に合うものを探していくことも大切ですが、同時に周りの人の個性や魅力をどうしたらもっと活かせるかとみんなの仕合せも考える必要が出てきます。

最初は私は、できないことを必死にやろうとして自分を見失い個性よりも能力が高い人になろうと努力した時期がありました。能力さえ高ければ誰かに貢献できると信じ込み能力を高めましたが実際は能力が高くなっても使ってくれる周囲がないことを嘆き、自分の能力を使わない周りが悪いと矢印を向けていたこともあります。あの頃は自信がなく、誰かの自信を奪うような能力の使い方をしていたように思います。

人の自信や能力を奪うからこそ誰かから自身も能力も奪われてしまうのです。いい仕事がまわってこないと不平不満を漏らしたり、自分ばかり嫌な仕事がまわってくるなどと愚痴もまたこの奪うときに発生します。

しかし「人は与えられるとき与えられ、奪おうとすれば奪われる」ものです。この逆に人に自信を与えようと励まそう、みんなの個性を生かしはじめた時期になると個性があることが喜びになり、いろいろな持ち味の人たちがいることに感謝する気持ちになりました。

この持ち味とは魅力のことで、周りの魅力に感心しもっと自分も魅力を磨こうと思いはじめたのです。魅力とはその人の個性であり、例えば優しい人や明るい人、天然の人、よく気が付く人、一生懸命な人、などキリがないほど発見することができるようになりました。

そうするとどうすればその人の魅力や持ち味が生きるだろうかと考えるようになるのです。安心できる環境や、なんでもいい合える環境、みんなが異なる価値観や意見があることが有難く感じるようになっていきます。

思い返せば、奪う人生から与える人生への転換こそが魅力や持ち味の世界への入り口だったようにも思います。なぜ奪うのかといえば、ないものねだりをしては自分ができないことを自分が責めたり、自分にないものを無理に求めようとして自他を裁いたり、もしくはできないことは悪だと自分に罪や罰を与えて頑張り過ぎてきたことで奪う人生になっていったように思います。

与える人生はこの逆をやることです。つまりは、ないものは求めないであるものを活かす、できないことは悪ではなく全でありもっとできることが他にあると信じてできることを探すことや、頑張りすぎるのではなく肩の力を抜いて周囲を信頼して一緒に与え合う機会を増やすこと、誰も責めずにゆるすこと、つまりは自他はこれでいい、自分もあなたのこのままでいいと認めることです。

そうすれば人生は与える人生に変わり、その与えた自信の御蔭でまわりもあなたに自信を与えてくれるようになると私は思います。

煩悶とストレスを抱え、我慢して無理をして頑張っている状態こそ「奪う」状態であることに自覚しなければなりません。そんな時にはもっと「ゆるす」こと、つまり無理をせず我慢せず頑張らないことです。

刷り込みを取り払うのは諦めることからです。

いま、頑なに握っているものを手放しもっと楽になることです。私の時も、このまま頑張ってもたかが知れているなと感じて思い切って逆に舵を切ってみたことで新しい世界に出会いました。前例や常識やルールに縛られずもっと自由に自分のやりたいことや自分の魅力を信じてあげるといいと思います。

子どもたちが最初からそうであったように、大人になってしまった自分を手放し子ども心を取り戻してほしいと祈るばかりです。カグヤは子ども第一義の理念を掲げていますから、生き方と働き方を間違えないように実践の意味を深めていきたいと思います。

完全な存在としての自分を認めること~本物の個性~

人は競争社会の中で比較され優劣を持つことで「できる・できない」を過剰に気にしてしまうものです。まるで「できる」ことはもっとも価値があり、「できない」ことは価値がなくダメなことだと思い込んだりしています。

これは優等生と劣等生と分けられ、ダメな人は頑張らせできる人はもっと頑張らせようとしたことでできた来た刷り込みのように思います。私が言いたいのは、できるかできないかを基準に物事を評価するのではなくその人らしいかどうかをもっと大切にするということです。

能力だけで人を裁くようになればなるほどに、個性が擦れて薄れていき能力を自信にしてしまうとできないことが悪のようになり自他を責めていくからです。自分がダメなことがまるで罪のようになれば、無理をして頑張り過ぎて本来のその人らしさが失われていきます。頑張らせようと誰かにされるのではなく、自分からやりたいと思うことに正直に生きていけばいいのですが今まで「できる・できない」刷り込みを持った人はやっているうちにできること(手段)が目的になってしまい本当の自分のやりたいこと(目的)が分からなくなってしまっています。このように「できる・できない」刷り込みによって目的と手段がすげ換る癖がつけば、最初は自発的にやりたかったことなのに気が付いたらどれも受け身になりやらされることになってしまうのもこの刷り込みの影響があるからです。

自分のやりたいことは、できるできないに関わらずそれが「自分の魅力や持ち味だから」だと思えるようになるのは自分の観念や価値観、意識をまずは変えていかなければなりません。

例えばできないことがあったとき無理をしてできるようになろうとせず自分は他にもっとできることがあるんだなと思うようなことや、やりたくないことがあったらもっとやりたいことがあるんだなと自分に素直になっていくことをやりながらもっと自分を認めていくことが必要です。

自信というのは、能力があるかないかではなく自分の求めていることに近づいているという実感があるときに湧いてくるものです。自分らしくいるためには、できるできないかを諦めてもっと自分のやりたいことをやろうと周りに遠慮せずに遣り切っていくことで個性が引き出されていくものです。

一人ひとりの人間はもともと何一つ欠けるところなく完全体で生まれてきます。欠けたところを無理に埋めようと完璧を目指してできるようになろうとすることで余計に本来の姿が歪になりおかしなことになってしまうのです。

「そのままでいい」「あなたのままでいい」と、完全であると自分が認めることで次第に自分らしさは表出されていきます。その逆に能力刷り込みが深い人は、「このままではダメだ」「自分がいけないのだ」と自分を認めようとせずに無理をして頑張り続けていきますがもしもそれで能力がついたとしてもそれは果たして心からやりたかったことなのかということなのです。

人間は社會を創造する生き物ですから、能力をみんなが一律に高め完璧な個々になるよりも個性を活かして助け合い思いやり協働していくことでお互いを認め合いそれぞれのやりたいことを見守り合うことで仕合せな世の中にしていくのです。

人工知能やロボットの技術が進化するなかで、高い能力を発揮していくその存在によって私たちはもう一度、自分とは何か、個性とは何かと見つめ直す時代に入るでしょう。

だからこそもっと自分自身を認め、できないことを諦め、もっと他に自分にしかできないことがあるんだなと持ち味に気づき、自分だけではなく周りに対しても「あなたのままでいい」と丸ごと信じてくれる存在に近づいていくことが子どもたちの未来を活かすことになると私は思います。

その人らしさを励まし勇気を与える存在になれるよう、そして子どもたちのためにも自分の生き方を見つめ自分らしい生き方のロールモデルを遺して譲っていきたいと思います。

しなやかな成長

人は何かの問題が発生するとき、それを解決するのを外側に求めてしまうものです。この時の外側とは自分以外を変える方法のことで、自分は変えずに方法によって変えようとします。確かに方法によって自分が変わることはありますが、それは方法によって自分が変わっただけであり本質的には変わるといことは自分自身の意識が変わるということを言います。結局は相手がや周りがではなく、自分自身の意識が変わることでしか問題は解決することはないのです。

今まで嫌だなと思っていた人がいて相手に変わってもらおうとしてもその人はそう簡単には変わりません。変わらないからといちいち腹を立てていても、ストレスやつらい思いをするのは自分の方です。しかし自分の意識さえ変わってしまえば、そんなに気にならなくなり腹を立てることもなくなります。それくらい世界は「自分の意識」によって左右されています。本物の自信を持つまでそれは繰り返し波のように人間関係によって現れるように思います。

相手や誰かに求めるのは、自分を変えたくないと心がガチガチに凝り固まっているからとも言えます。自分のやり方は間違っていないと思ったり、常識は自分の方だと正論をかざしていたり、罪を相手に押し付けたりしているうちにより心は凝り固まっていきます。

そうやって腹を立てれば、腹を立てていることに過敏にお互いに干渉するようになり一向に物事の観方は転じることなく互いに凝り固まって相手を批判することに終始してしまうものです。

自分が正しいとか間違っているとか正否優劣を振りかざす前に、自分の心を解きほぐしひょっとしたら相手にも一理あるかもしれないという心のゆとりを持つことで意識が変わる切っ掛けを創ることができるように思います。

自分も一理あり、相手にも一理あると、お互いの言い分にそれぞれ理があると思う心の余裕がガチガチに凝り固まった心を解きほぐしていきます。また、きっと何か相手には変えられない理由があるのだろうとゆるし思いやる心の余裕を持つことで意識は転じていくことができるように思います。

無理に自分以外を変えたいと思うときは、自分の心が凝り固まっているシグナルです。相手を認めることであったり、相手の個性を尊重することであったり、相手の持ち味を引き出すことだったり、相手の長所を探したりと、お互いを尊重し合う関係ができればかかわりも楽しく充実していきます。

この人間尊重というものは、心を柔軟にし周りを認めながら自分自身を認めるというゆるやかでしなやかな感性を磨く大切な素養であり徳目です。

歳を経れば経るほどに凝り固まって頑固になっていくのが人間ですが、同時にすべての物事や人物を尊重して人格を高め続けるしなやかな成長はいつまでも大切に続けていきたいものです。

素直な心とは本当は何か、子どもたちにその姿が見せられるように自分を変えていく発達の楽しさを味わっていきたいと思います。

 

安心運転、安心社會

何かの問題がトラブルが発生するとき、人はその問題やトラブルを何かのせいにしようとするものです。それが例えば環境のせいであったり、誰かのせいであったり、会社のせいや家庭のせいなど、何かのせいにしてしまいます。

実際にそのことを深く見つめて、何のメッセージだろうかと受け取ってみるとそれはほとんど自分の内面の問題であることが分かるものです。自分の内面の心やものごとの観方を転じない限り、それはいつも誰かのせいや何かのせいになってしまいます。

確かに環境を変えたり仕組みを変えることは大切ですが、その大前提に自分のものの見方を変えていないと環境のせいや仕組みのせいになってしまうかもしれないのです。

自分の価値観で自分が観ている世界が自分の置かれた世界であり、その世界の問題は自分が問題にしてしまうことで問題となります。人は観方によってそれを問題と観たり、チャンスと観たり、それはその人の心の状態に由って変わってきます。

心は車の運転と同じようにその人の癖が出てきます。ある人はスピードを出し過ぎたり、ある人は周りを見ずに暴走したり、またある人は自分で運転しようとしなかったり、またある人はクラクションばかり鳴らしたり、またある人は自信なさそうにノロノロ走ったり、その運転には癖があります。

この車の運転はまるで心の運転と同じようにその人の生き方の癖があるのだからそれを気を付けて練習を繰り返して心の運転を上手になっていくしかないのです。スピードを気を付けて安全運転をしたり、周りをよく見て確認したり、自分で苦手な縦列駐車を何度も練習してみたり、クラクションを鳴らさず譲ったり見守ったり、自信をつけたり、運転を通して生き方を磨く必要があります。

問題やトラブルは、自分の心の運転から発生することですから自分の心の状態を見つめ、生き方を省みて捉え方や観方を転じて行動していくことで問題やトラブルが意味があることになり本質的に自分を素直に成長していくことができるのです。

いつまでも誰かのせいや何かのせいにしていたら、停滞が続くだけで自分の観方の方だとは気づかなくなります。相手が変わるわけではなく、自分の心が変わったから相手が変わるのであり相手は変わることはありません。

相手を変えたいのなら自分を変える、世界を変えたいのなら自分が変わる、会社を変えたいのなら自分が変わると、変わることを楽しんでいく方が誰かや何かのせいにして煩悶するよりも心が穏やかになっていくものです。

心のコントロールをするためには、自分に矢印を向けてこれは観方を変えるチャンスであり、自分がもう一つ場を移す岐路だと肯定的に感じて、素直に自分の方を変えてみようと取り組むことで安心運転ができるように思います。

誰かのせいや何かのせいは、自分は変わらないから周りに変われと無言で強要していく行為です。世界は自分が主体的に創造していることを自覚し、自分が世界をよりよくしようと自分の観方を変えて世界をより楽しく美しくしていけば社會は調和して一人ひとりみんなが輝く世界になると思います。

理念や初心のせいにするような貧しい心ではなく、理念や初心の御蔭で自分の方を変えることができたという豊かな心をもって子どもたちに見守り合う安心社會を切り拓いていきたいと思います。

生き方=分けない

人は何かを分けることで本来の初心を忘れてしまうことが多いものです。それは生き方を分けてしまうということであり、本来分かれていないものを分けることで目的が手段にすげ換ってしまうことがあるのです。

例えば、これはプライベートでこれはビジネスなど自分の都合で分けた時点で生き方と働き方を分けていることになります。公私混同するなとか世の中では言われますが、実際には生き方は渾然一体になって混同しているものです。私たちは暮らしの中にこそ仕事があり、仕事があって暮らしがあるわけではありません。日々の暮らしを通して働いていくことは、生き方と働き方の一致ですがそれを分けてしまうところから暮らしは消失していくのです。

暮らしとは何か、それはその人が一日一日を何のために生きてどのように世の中で働いていくかということでもあります。働きとは、自然のハタラキのことですべての生命はそれぞれに唯一無二のハタラキをもって地球で貢献し共生していくものです。それは単に仕事をすることが目的ではなく、生き方として何を大切にして生きていくかということです。

嫌なことを我慢して生きている人は、嫌なことを忘れるためにプライベートとビジネスを分けていくことがあります。無理やりやりたくないことをやらされると感じるのは、そもそも何のためにそれをやるのかを忘れて手段にばかりに気を取られ本来の目的から遠ざかることで発生します。

我慢は我と慢心からできている言葉ですが、この自我慢心は言い換えれば初心を忘れるほど油断しているということでもあります。初心を忘れないでいれば、自分の目的に気づきやりたいことをやっていることを思い出し、我慢することはなくなります。

苦労や忍耐は、目的に近づくための努力でありそ自分を鍛錬し成長していく発達発展の仕合せの実感にもなります。人間は辛いことや嫌なことから逃げようとするとき、すぐに割り切るために分けようとします。その時は分けて処理することで感情的には一時的に整理できるのかもしれませんがその時にこそもっとも大切な心を置き去りにしてしまうことを忘れてはならないように思います。本音と建前を分けていてはプライドばかりが高くなり自分を見失うだけでなく自分らしくあることができなくなるのです。

何のためにやるのかを常に忘れない人は分けない生き方を実践する人です。生き方を分けない人とは常に自分の本心や本音を大切にして生き切っている人であるとも言えます。

その時々に都合よく自分に嘘をつき納得させたり、自分の本心を自分自身が誤魔化して生きていては、自分の中にあるもう一人の真我との信頼関係も築けず共に手伝って協力することはできなくなります。そんな状態の人が周りの人と理念や目的を握り合って本心や本音で共に協働して目的に向かって力を合わせていくこともできなくなります。

誰かや何かに文句を言う前に常に自分が本心や本音で生きているか、つまりは本心が分かれていないか、決心した生き方を大切にして自分自身に正直に生きたかは何よりも重要な人生の羅針盤なのです。生き方は常に覚悟力が問われるのです。

最後に吉田松陰がこう言います。

「士の行(おこない)は質実、欺かざるを以て要と為し、巧詐(こうさ)、過ちを文(かざ)るを以て恥と為す。 光明正大(こうめいせいだい)、皆是れより出づ。」

意訳すれば、(志士たるもの自分を欺くことをなきよう、自分に嘘をつくことを恥ずかしいと思え、まさに生き方と働き方の一致は個々で決まるのです。)と。

自分の心に嘘をついて誤魔化して分けていくことで生き方と働き方は分離していきます。自分自身が決心したままに生きていけるようになるには、理念や初心を常に自分が確かめそれに対してどのような一日であったかを内省しすぐに改めることは改善していくことしかありません。

「生き方とは常に本心のままである」ということを大切にし、子どもたちが素直な心のままにあるがままの個性を発揮し成長していけるように常に生き方を優先する大人のモデルになっていきたいと思います。

 

頑張り過ぎない生き方~素直な心になるために~

人間は頑張りすぎるとき、スピードを上げてしまうものです。スピードを上げて仕事量が増えれば体調が崩すことがあります。私もよく何かをするときに、体を壊してブレーキをかけられたりしてじっとすることがありますがなぜだろうと思うとき焦りや恐怖があったことに気づきます。

人から期待されたことに応えるためにもっと頑張らなければと思ったり、もしくは期待に応えることができて自分も嬉しいと思えばさらに一生懸命にこのまま頑張ればきっともっと喜んでくれると思って気が付くと無理をして頑張ってしまいます。しかしその頑張りは言い換えれば、期待に応えられない恐怖や不安、喜んでもらえないのではないかという罪悪感、喜ばせることができた自我満足感などがさらなる頑張り過ぎの状況をつくっていくのです。幼い頃や子どもの頃に教育や環境の刷り込みを受けてしまうと誰かの期待に応えるために無理に頑張ってしまうということが当たり前になって心が縛られてしまうのです。それが日本人がマジメ過ぎる状況を生んでしまうのではないかとも思います。

頑張ることと頑張り過ぎの違いは、誠実かマジメかの違いに似ています。誠実にやっていれば真心を籠めて丁寧に心に寄り添いながら信じて楽しく取り組めばいいと心は落ち着きますが、マジメであればどうしても期待の物差しが入り評価や保身などの我が混じりあってしまい不安になり次第にやることばかりを増やしてしまうのです。

例えば、作業一つであっても信じていればしなくてもいい作業も信じられなくなると作業は増えていきます。人間は丸ごと信じていくことで、安心して取り組めるのに対して不安になればなるほどに取り組み方が「過ぎて」いくのです。

ここでの過ぎるは、スピードが上がるという焦りのことです。

頑張ることと頑張り過ぎは、焦るか焦らないか、もっと別の言い方をすれば目先のことを悩むか長期的なことを考えているかということでもあるのです。

不安や恐怖と立ち向かうばかり、頑張りすぎると身体を壊したり上手くいかないことばかりが起きたりとブレーキがかかります。しかしその時こそ、よく自分を見つめ直し、できないことを素直に受け容れ、本当は遣りたいと思っていることは何かと見つめ直し、ブレーキの御蔭で速度が調節できたと感謝して歩んでいけばいいのではないかとも思います。自分を大切にすることができてはじめて周りに誠実になることができますから、まずは自分自身の本心を整えることで頑張り過ぎないように気を付けていくことではないかと思います。

人間が自然体に近づくまでには、こういう苦労はたくさん発生します。特に人間は加齢していきますから、経験してできるようになったかと思えば体の変化ですぐにできないようになっていったりもします。そうやって万物は変化し続けますから人間はどんなときにも心を柔軟にして真心や誠実、そして天の働きや他力を借りる御蔭様のことを学び、優しく成長していくのでしょう。

焦りや不安は、信じること、見守ることで払拭されていきます。信を贈る仕事は、相手の結果を見て一喜一憂するよりも自分の心の中の信じる気持ちを大切に調整することを優先していけば信は伸ばしていけます。

信を伸ばして素直な成長ができるように、頑張り過ぎない生き方を実践していきたいと思います。