目には見えないこと

現代の日本では、各地の伝承や口伝などの民話や神話をはじめ神秘的なものや妖怪などの話をオカルトや宗教だと決めつけて差別するような風潮があるように思います。しかし先人が伝承しようとしてきたものは、民話や神話などでより子孫たちがイメージしやすいようにと工夫を凝らして文化にまで高めてきたものです。

例えば、地域のお祭りや風習などもそうですがこれらもその土地でかつて何かしらの出来事があり、それを忘れないためにと毎年繰り返し行われ文化にしておいてその土地で暮らす人たちが安心して生きていけるようにと仕組みにしてきたものです。

それが連綿と続いていく中で、伝承されてきた意味には非科学的な事柄の方がむしろ多く、なぜこれを続けているのかが説明できないものがたくさんあります。また言葉では説明できないものもたくさん籠められています。

そこには津波の怖さを伝えるもの、大雨による水害を伝えるもの、そして伝染病などの予防のために続けているもの、自然のバランスを崩さないように続けているものなどキリがありません。民俗学などもそうですが、各地に伝承される言い伝えやお祭りなどには私たちが知識で理解できること以上の暗黙知が大量に籠められているのです。

よく私もこのようなブログを書いていたら宗教っぽいやオカルトだと揶揄されることもありますが、そもそも非科学的なものを理解するためにはどうしても暗黙知を言語化するために表現が抽象的なイメージになるものです。それに目に見えないものの存在を確かめることは哲学でもあり、どのような経営者もみなそのような存在を感じながら経営しているものです。それは運とも呼び、学問では道ともいいます。

松下幸之助氏は、経営の神様と称されるのは経営を科学的な面と非科学的な面の両面から捉えてそれを実践に昇華したからです。日本人はかつては当然として神様のような存在も当たり前にあると認識し、妖怪や先祖の霊や神様、魂なども共存していたものが今ではそれを語ると宗教やオカルトになってしまっていることに違和感を感じます。

いのち一つを創れない人間、自然や宇宙の神秘のほとんどが理解できていない人間が、知識で語れないことを敢えて知識で語ろうとすればそのほとんどは神秘になります。その神秘を知らないということは、知識だけの中で生きていくことでありそれではあまりにも狭い視野になってしまうように思います。

目に見えるミクロから如何にマクロを観ていくか、それはこの海や空の間にある偉大な空間をどのように直観していくかという自然の解釈とも似ています。偉大な人物には、宗教も哲学もそういうものが分かれておらずただ観念として理解しただけのように感じます。そしてそれをそのままにあるがままに子孫へ伝承しようとしたように思います。

私たちはもっと謙虚に、知識では理解できない知恵を先祖の遺言として受け止めて大切に守り続けていく必要があるように思います。引き続き子どもたちのために一つでも多くの災害から自分たちを守れる智慧を、そして大切な人たちを失ってしまった悲しみを後世のひとたちのために役に立てたいと祈った人たちの思いを受け継いで、初心を伝承していきたいと思います。