幾を観通す

四書五経の中の一つ、中庸の有名な言葉に「至誠の道、以て前知す可し(至誠之道、可以前知)」があります。これは私の意訳ですが、真心はすべてを見通しているということです。私心なきものは、私心なきゆえにすべてのものがあるがままにありのままに観得ています。そこにはあらゆるものの現実があり、あまねくものの直観があります。

王陽明はこうもいいます。

「良知には、前も後も無く、ただ現在の〈幾〉を知ることができるだけで、これがすなわち、一を悟れば百に通じるものなのです。もし、前知ということに執着する心があれば、それはほかでもない私心なのであり、利に走り、害を避けようとする作為なのです」

この「幾」は、私心なきところには必ずそのきざしがあるといいます。そして伝習録の中でこのような問答が記されています。

『誠とは、実理、つまり天理のことであり、他ならぬ良知のことです。天理の霊妙な働きが神ということで、その動きが今や兆そうとする、そこがすなわち「幾」なのです。周濂溪は、誠、神、幾であるのを聖人という。『通書』と説きましたが、聖人は決して未来を前知することを貴ぶのではありません。第一、幸不幸(禍福)がやってくるのは、いかに聖人といえども避けることはできないのです。聖人は、ただ「幾」を知っていて、だから非常事態にあっても、それによって身動きが取れなくなることはありません。良知には、前も後も無く、ただ現在の「幾」を知ることができるだけで、これがすなわち、一を悟れば百に通じるものなのです。もし、前知ということに執着する心があれば、それはほかでもない私心なのであり、利に走り、害を避けようとする作為なのです。『易』について研究を深め朱子に影響を与えた邵康節が、必ず前知できるとしているのは、利害損得の心をまだとり去り切れていないからです』

私心が取り払われず、心が澄まされないから己に囚われます。自我妄執があればあるほどにその幾は自己中心的な幾になります。本来、全体のためにもっとも善いことは何か、何のために自分が真心を盡すのかをよく修めている人は幾を逃しません。そして同時に、因果律に従って自分に降りかかる禍福を受け容れ準備することができます。

幸運不運がどうかなどが問題ではなく、自分に起きるあらゆるご縁を受け容れ味わうのです。何をもって見通すというか、それは予言や予知のことではなくどんな出来事があったとしても心のままで過ごしていくことで幾を観通すことができるという意味でしょう。それが自然体の境地なのです。

人生は誰にも有限ですし、生老病死は必ず誰にしろ訪れます。子どもたちにいのちがつながるように一期一会の人生の道を味わい、心を磨いていきたいと思います。