永遠の修養

人間は誰にしろその一生を多くの人たちに支えられて生きています。この当たり前のことを忘れて傲慢になるとき謙虚に気づかせてくれることがたくさん発生します。まさにその時、自分が見守られ支えられていることに気づき直すチャンスだったりします。

例えば、能力が高く何でも自分がやっているような気になったとしてもそれは本来誰かのためにと力を与えてもらったものであり、もともとは自分のものだったわけではありません。自分が能力が高いのは、それだけ頑張って努力してきたらですがそれは言い換えれば努力させてもらった相手があったり、頑張ることができただけの大義があったりと、それを助けてくださった人たちがいたり、知識を与えてくださる先人があったりと、全部自分だけでやったのではなくその目的や理由、周囲の支えによって得た経験や知識だったはずです。

傲慢になればその能力は自分が自分だけで努力で身に着けた自分のものだと思い込み、周囲に不満を持ったりするものです。悪くなると、自分だけが頑張って周りは何もしなかったと文句を言ったりもします。しかしよく考えてみればすぐにわかることですが、自分が期待されたことを頑張ったように周りに同じだけ期待しても周囲は自分の思い通りになることはありません。期待に応えたのは主観ですが、実際はみんなが支えてくださったのが本当の事実だからです。人間は誰も自分をみんなが支えてくださったからできたことで自分も同様に時として誰かやみんなを支えているのです。真実として人間は、一人では生きていけないことに気づくことがまずその人生立脚の原点なのでありそれを一生をかけて修行しているともいえるのです。

人が傲慢になる時、敢えて様々な事件が発生してきます。たとえば病気であったり、事故であったり、失敗であったりと大きな挫折を味わうのです。その時、自分がなぜと最初は思うのですが時間の経過とともに自分は果たして感謝があったかと、自分は傲慢になっていなかったかと謙虚さに気づき直すのです。大きな傲慢が大きな謙虚に気づくチャンスであり、大きな失敗が大きな感謝に気づくチャンスになるのです。

そうやって人生は何度も何度も順風満帆のようなときに足をふり払われては躓きころんで、そしてこけてはまた起き上がりの繰り返し。傲慢になって転んでまた謙虚になるようにと七転び八起きしながら前進してその人間としての人格を磨いていくのです。

人格がある人でなけれ決して天与の才能は活かせませんし、それは例えれば膨大が富があったとしてもそれに相応しい人物の格がなければそれを使いこなせないのと同じなのです。器に相応しい格があってはじめて持ち味は活かされます。だからこそ人間は徳を積む必要があるのです。本物のリーダーはみんな、それを自覚するからこそ学問の王道に沿って自己錬磨を怠らずに日々に実践と精進を続けるのです。

人間の器が未熟なうちはいくら能力だけあったとしても必ず何か怪我や病気、その他で躓きます。それを憎み恨むのは視野が狭いだけで、実際はあなたを心底思いやる真心の存在たち、先祖や神様、周囲の大人たちや親友や恩師かもしれませんが感謝に気づかせようとみんな支えてくれているのです。そういう存在を感じる心が成熟するほどに「感謝を忘れてはならない、謙虚さを学ばなければならない」というメッセージを感じる感性が豊かになります。

人間はみんな傲慢によって謙虚を磨き直し、挫折によって感謝を研ぎ直す、そして人間は転んだことによって素直さを洗い直すのです。

だからこそこの傲慢や失敗、弱さを敵視し否定するのではなく丸ごと受け容れるために病気や怪我などの出来事を味わいます。これらを自覚して感謝するから人はその分だけ強く優しくなります。弱さを知らない強さは傲慢を育てその分だけ自信を奪います。自信は常に信じ合うところにあります。みんなが自分を信じてくださったように自分もみんなを信じることこそ自信であり、自己を超越するとき信の本体にも出会うのです。信の本体とは何か、それが御縁なのです。自分に与えられたものが如何に多くの人たちの御縁によって与えてくださったものか、今の自分の実力は果たして自分が勝手に身に着けたものか。またそれをひとり向き合い、自問自答して自学自悟するのです。

畢竟、人間は生まれてきた以上は「永遠に修養」あるのみ。

深く自己を反省し見つめ直しながら、頂いた御恩や御縁を私物化せずそれをもっと自分を通して偉大にして皆様の御蔭様に与え直せるように日々にお互い様、御蔭様を味わいながら幸せに生きていきたいと思います。