好奇心を磨き上げる

本質を究めていくためには、物事を深めていく力が必要になります。それは根を深掘るということに似ていて、一体この根はどこから来ているものなのかを自覚することです。

そのためには、どんな物事にも好奇心をもって「なぜ」ということに正対して努力を続けていくしかありません。このなぜの深堀りが自分を知ることになり、この自分を知ることがさらになぜを深掘ることになるからです。

明治の思想家に、高山樗牛がいます。この方がこういう言葉を遺しています。

「己の立てるところを深く掘れ。そこに必ず泉あらむ。」

意訳ですが、「今、自分の立っているところを深く掘り下げよ、するとそこから滾々といのちの泉が湧きだしてくるから」と言います。

毎日生きているうちに、世間のルールや常識、そして勝手に言い聞かせてさも正当な理由ばかりを取り繕い自分がなぜそれをやろうとしたかという初心や動機を忘れて周囲に合わせて自分を忙殺させていくのが人間です。しかしそういう日々を送れば好奇心の泉は枯れていくものです。本来、自分の好きだったことが次第に好きではなくなるのは自分の好きを仕上げていくために必要な好奇心と努力、言い換えれば深堀りを怠っているからのように思います。

なんでも顕れた出来事を、なぜ自分はこれをやりたいのだろうかと深めればすべてがある根につながっていることに気づくことができるからです。周囲から見て一見しておかしなことをしているように観えていたとしても、本人は一貫して一つの真実に近づくために深めているからです。

私はよく周囲からも変人やオタクなどと言われます。そして時には、自分勝手や多動、アスペルガーなどと呼ばれます。確かに、時間を惜しんで何でも深め、すぐに行動し好奇心があるものを徹底して勉強し、真心が必要なところに自分を運び、そしてまた調べて深堀りとあまりにもその範囲が多岐に及ぶため余計にそういわれるのかもしれません。

しかしその根底には、いつも祈りや願いがあり子どものことを忘れたことは一度としてありません。私にとっての子どもの定義は、世の中の一般の人とは違うようです。その子どもの定義が異なる人からすれば、私のやっていることは子どもとは何の関係のないものに観えるのかもしれません。

実際には、世の中が定義する子どもとは他に、自分が幼い頃から育ってきた自分の中に子どもがあるはずです。世間の言う子どもは、目に見えるあの小さい子ども、大人と対比したものでしょう。しかし子どもは誰にしろその人の中に子どもはあるはずです。その子どもを子どもとした場合、子ども第一義という理念のカタチは観えてくるはずです。

子どもはとても純粋で、世の中のことを本気で憂い、人類を本気で愛し、真心のままです。その子どもが辿り着きたいと思っているところ、根っこにあるところに到達したいというのは好奇心が導いていくのです。

高山樗牛の言葉です。

「吾人は須らく現代を超越せざるべからず」

子どもたちが豊かに仕合せに暮らしていける世の中のために、自分に正直に自然体になれるように真摯に挑戦を楽しみまだ観ぬ深淵を学び直し好奇心を磨き上げていきたいと思います。

名医の条件~チームの実力~

永六輔さんの言葉に「名医は一人では名医になりません。その医者を支えるチームがあって初めて名医になれるんです」があります。一人で名医になるのではなく、その名医を支えるチームがあってこそというのは本当に的を得ているように思います。

人間は一人で完ぺきに何でもできるようになるのではなく、自分の長所を理解してくれて自分の短所もまた転じて長所の役にたってくれるようにしてくれるのがチームの存在です。

人間には、ちょうど半分、良いと思えるところと悪いと思えるところがあります。良いところをだけをみて悪いところは目をつぶるというのが善いことなのは知っていますがどうしても悪いところの方が引き立ってしまい行動に蓋をしてしまいそうになるのが人情です。

しかしその悪いところは善いところなのだからとわかってくれる存在があり、チームのみんなで「バランス」を取っているチームはもはや地上最強ともいえるチームになっていきます。

どんなに偏った天才であったとしても、バランスを崩せばその天才は才能が活かされないまま落ちていきます。もちろん努力して自分の才能を磨いていくことは大切なことですが、それを共に活かしあうチームがなければ大成することはないように思います。

チームの支えがあってこそ名医というものも、個人の腕前と力量、経験だけですべてをやるのは限界なのです。人一人救おうとするのなら、チームのみんなの力で共に支え合い必要なところで必要なカバーや見守りを発揮していく必要があります。

病院というものが全体でチームであるように、外科だけがいても病気が治るわけではなくそこに携わる皆さんの協力によってその人は名医と呼ばれるのです。つまりは信頼があってこその名医とも言えます。

人間は信頼関係が築くことができるのなら誰しもが名医になります。名医の条件とは決して技能だけが優れているのではなく、信頼というものが優れているからこそ名医になるように私は思います。信頼を主軸にするのなら、当然そこには確かなチームメンバーが存在しチームがあってこそみんなは名医となれるのです。

みんなの意見を尊重しながら家族的に助け合い協力していくチームは信頼関係があります。チームで取り組めば、技術や能力だけで解決しようとはせず最善の方法をみんなで考えて取り組むことができていきます。そうやって信頼があれば当然、応援も産まれ、心も体も励まされて勇気も出てくるものです。

改めて名医や名優、名人など名がある人たちの周囲に徳が集まるようないいチームがあることを見つめ直し、才能や能力のみに偏らないように謙虚に自分の実力の意味を真摯に反省していきたいと思います。

言葉の力

永六輔さんという方がいます。私は生前あまり存じ上げなかったのですが、色々な方々から永六輔さんの言葉を贈られます。そこで最近になって見知ったのですが、坂本九さんの「上を向いて歩こう」の歌詞や、「こんにちは赤ちゃん」やドリフの「いい湯だな」などの作詞も手掛けておられたのを知り随分むかしからいろいろな場面で永六輔さんの言葉に身近に触れていたことがわかりました。

特に私は永六輔さんの言葉を知人に贈られるたびに、まるで永六輔さんが応援してくださっているような気持になり心がとても温かくなります。死してなお、言葉はいつまでも生き残り人々を応援し続けるというその力に魂の持つ不思議な存在を感じます。

いろいろな言葉はありますが、永六輔さんの放った言葉は魂が宿っています。もう出尽くしたはずの言葉が永六輔さんによって甦るのを拝見するとき、もっと大切に生きなければという思いを強くします。

「人って言うのは二度死ぬんだよ。個体が潰えたら一度目の死。そこから先、まだ生きているんだ。死んでも、誰かが自分のことを思ってくれている。誰かが、自分のことを記憶に残している、時折語ってくれる。これがある限りは、生きている。そして、この世界中で、誰一人として自分のことを覚えている人がいなくなったとき、二度目の死を迎えて人は死ぬんだよ。自分はいま生かされている。」

死を深く見つめて生きた永六輔さんの生き方を垣間見ることができます。この言葉にどれだけの人たちが救われてきたかと思うと、永六輔さんの人柄や思いやりが感じられます。

夜の星を見ていたら永六輔さんが見守っているかのようです。あの「見上げてごらん夜の星を」にはこうあります。

「手をつなごう僕と 追いかけよう夢を 二人なら 苦しくなんかないさ 見上げてごらん 夜の星を 小さな星の 小さな光が ささやかな幸せを うたってる 見上げてごらん 夜の星を 僕らのように 名もない星が ささやかな幸せを 祈ってる」

そして「生きているということは」の歌詞です。これは永六輔さんの生きる指標ですが、真心を盡したいと願い生きる人たちの指標にもなりますので紹介します。

生きていくということは 誰かと手をつなぐこと つないだ手のぬくもりを 忘れないでいること めぐり逢い 愛しあい やがて別れの日 そのときに悔やまないように今日を明日を生きよう 人は一人では生きてゆけない 誰も一人では歩いてゆけない」

当たり前のことを忘れないように、永六輔さんの言葉を反芻しながら日々を豊かに味わい生きていきたいと思います。

 

山を育てる

先日、京都の鞍馬山に訪問して倒木で山が破壊されている惨状を見てきました。昨年の台風の猛威の爪痕が激しく、山肌が丸ごと裸になり、木々が何かに抉られたように折れたり根っこからひっくり返ったりしていました。

お話をお聴きしていたのと目の当たりにするのは全く別もので、自然災害というものの大きさ、その巨大な力には畏怖の念だけが湧いてくるだけです。これからどのように木々を片付けて新しい山にしていくか、お寺も100年後、1000年後を見据えて復興計画を練り直しておられるようでした。

山には林業というものがあります。これは森林を育てて、人間生活に利用するのを目的とする産業のことをいいます。私たちは都市に住んでいますが、むかしは里山といって山と里が調和した暮らしを実現していました。山と暮らしていくことで、山の恩恵を受けて私たちは暮らしを維持していました。

その山を手入れしていたのは人間であり、人間が森林と上手に付き合っていく中でその山を育て人間と共生していくように仕組み化されていたのです。現在では山は荒れ放題になってきて、人間と共生できないような山が増えています。

林業では様々な諺があります。

「一年の計は田を作るにあり、十年の計は木を植えるにあり、末代の計は人を教えるにあり。人のまさに死せんとするや、その頭まず禿げ、一国の亡びんとするやその山まず禿ぐ。一国の盛衰はその山林を見ればわかる。児童なき人民は希望なき未来を有し、樹木なき国家はまたこれと相似たり。河を治むるはその源を養うにあり、源を治むるは山を治むるにあり、樹芸の道ここにおいて過大なり。森林は著しき酸素の製造所にして、炭酸ガスの消滅所なり。」

一年の計は田んぼをつくること、十年の計は木を植えること、永遠の計は人間を育成することである。まさにその通りです。さらに人が死ぬとき頭が禿げていくように山も死ぬときは山も禿げていく、一国の様相は山の姿を観ればわかると続きます。

かつて奈良に「日本林業の父」と呼ばれる土倉庄三郎という人物がいました。この人物は、林業だけに留まらず治山、道路整備や日本の教育、文化を支援を行いました。しかしこれは林業の本質につながっているように感じます。たとえばこう言います。

「林業にとって、もっとも重要な作業は何だろうか。すぐに頭に浮かぶのは、樹木の伐採だろう。だがそれ以上に重要なのは木材の搬出である。伐採だけなら、オノやノコギリがあれば個人でも可能だ。しかし倒した大木を人里まで運ばなければ木材として利用しようがない。しかし木材は重くてかさばる。動力機のない時代、木材を運ぶには多くの人力と斜面や川の流れを利用した大がかりなシステムが必要だった。だから林業の要は、木材の搬出にあるのだ。」(樹喜王 土倉庄三郎より)

木材を搬出するには、道を切り拓く必要があります。道路整備は林業には欠かせません、また人材教育もまた山を守るためにも必要ですし、田んぼの維持のためにも必要です。そして文化も日本のために必要なものでこの根があるから木が育ち山を保てるのです。

林業というものは奥深く、山を仰ぎ見るときそこに山を育ててきた人間の智慧と人格を感じます。もう一つ、こういう諺があるのを知りました。

「造林は親を細めて、子太る。木を立てて、見せてセガレに、親となる。夫婦仲なら焼いても良いが、焼いていけない家と山。山は裸で器量が下がる、植えて緑の晴れ姿。山高きがゆえに尊からず、木をあるをもって、尊むべし。盆の仏は、家には行かず、まず山に行く。学者と大木はにわかにできぬ。」

山の姿の中に人間のあるべき姿が観得てきます。山に入れば山から学び、何かを頂いて外で出てくる。以前、千日回峰行の僧侶の方が山で自らを磨き上げ山から掴んだ智慧を民衆に伝道していこうとされていたお話を思い出しました。

山にはそれだけ人間を真の意味で学び直させる何か、空気感というか「気」があるようにも思います。その気を学び直すことは、元氣を学び直すことですから人間は山を求め道を探すのかもしれません。

鞍馬山がどのように甦生していくのか見守りながら、私も日本の甦生に向けて100年、1000年後を見据えて山を育てていきたいと思います。

見えないはたらき

「はたらき」というものは、通常の目に見えるはたらきというものと目には観えないものがあります。この「はたらき」はその両方を合わせてはたらきと言い、その「はたらき」を活かせる人は「はたらき」そのものの力を引き出して物事を為していくことができるように思います。

一般的な働きというのは、自力で何かをするときの自分の働きのことです。これは日々の仕事や、日々の業務なども何かのために役に立ちたいと努力して取り組むこともまた働いているということになります。もう一つの目に見えない働きの方は、他力のようなもので人事を盡していくことで不思議な力によって助けてもらって物事が進んでいくという働きのことです。

例えば、自然界でいえば必死に生きていこうとする植物に対してあらゆる自然循環や周囲の生態系が働きその植物を活かしていく作用などにも自力と他力の関係が見えてきます。

自分のできることをすべてやって、あとは天にお任せしていくという姿勢。まさにこれが「はたらき」そのものの力を引き出し、「はたらき」そのものになっていくという実践であるように思います。

しかしこのはたらきを周囲はなかなか理解してはくれないものです。真心を使って本質に向かって取り組んでいけば、自ずから一般には理解しがたいような行動を行っていくこともあります。たとえば、仕事もしながら同時に神社で参拝もするというように単に傍から見れば信心深い人で神頼みしているのかなとよく思われたりしますがそうではなく、人事をすべて盡していく中の一つに神様にお任せするために祈ることもあるのです。

これは全体の「はたらき」を信じて、丸ごとで善いことになりますようにと祈る姿です。言い換えるのなら、どんなことになったとしてもすべて善いこと、目には見えないはたらきがきっと福にしてくださるという「目に見えないはたらきそのものをはたらかせていこう」と信じる実践であるのです。

実際には、人知の及ばないところで様々な力が働いています。この地球であっても自然であっても、実際には目には観えないはたらきによって私たちは生活を営むことができています。人間は視野が狭く、たとえばお金があるから生きられるや、電気や水道、電車や携帯があるから生きられるなど、すぐに目の前のはたらきで生活していると思う人もいますが実際にはそんな目先のことだけで生きていけるのではないのです。

そういう宇宙的なはたらきを信じている人は、一見、おかしな行動をしているようではたらきを活かす理に適ったことを行います。そういう人が運が善い人と言われ、さまざまな運を引き出して福に転じていく仕合せな人生を送ることができているのでしょう。

目に見えないはたらきを感じる力は、感謝の心が原点です。何物にも何事にも感謝して生きるのなら、自分を活かしてくださっているはたらきの存在に気づくように思います。

はたらきの力をお借りして、偉大なはたらきによって子どもたちが仕合せに暮らせるようにと祈るように働いていきたいと思います。

 

働き方改革

先日から役割について色々と深める機会が増えています。仕事を分担するのではなく、役割が分担されることでチームはイキイキと活性化していくものです。そもそも役割とは、全体に対する自分の役目であり人は役目を果たそうとするときみんなと一緒一体になって自分の我を前に出すことをやめて全体の働きのために自分も働き始める喜びや仕合せを感じるものです。

しかしチームにおいて「自分が自分が」と我が出てくれば周りとの調和が難しくなり信頼関係に綻びが出てくるものです。この役割という意識をどう持つか、そして役割をどのように活かすかがチームで取り組むことにおいてとても重要になってくるように思います。

この役割分担の意味は、それぞれでみんなで一緒に生きていくための大切な役割を自ら担うということになります。役割とは大切なものであるという認識のもと、時には与えられた役割を果たし、また時には自ら役割を果たします。これは単に仕事を分別したその一部の作業を担うというだけではなく、自分が全体の役割の一部になっているということでもあります。

私も中学校の部活でバレーボールをやっていたとき、ポジションはもっていましたが同時に自分がチームのムードメーカーになっていました。これは他人から言われたのではなく、自らそれをかって出て自分がチームのためにその役割を果たそうと自分で担った役割の一つです。そのために、いつも全体が暗くなりそうな時や負けがはいって腐りそうなときに、いつも明るくピンチはチャンスだと掛け声をし、同時に逆転のチャンスに強くなるようにと猛練習をして力をつけていきました。

自分が全体のために何の役割を果たすかは、その人の役割意識に由ります。三銃士の「一人はみんなのために、みんなは一人のために」とありますがあの言葉も大切な役割をそれぞれが担っているんだよという意識の調和の言葉でもあるように私は思います。

よくその逆に、自分に価値がないと思い込んだり、自分一人くらいやらなくても問題ないと思ったり、仕事の業務分担を役割だと勘違いしたりすると役割意識は遠ざかり意識が不調和をきたしてチームの力も減退していきます。

この役割とは「はたらき」のことで、みんなが働くことで役割分担は成立します。仕事ではなく、「働く」ということ。ここの違いをはっきりと自覚できないうちは、全体のためにやチームのために貢献することが難しいと私は感じています。私の思う働きとはみんなと一緒に自分も幸せになるために働くことを言います。

仕事ばかりしても不幸になっているのは、役割に気づいていないからかもしれません、自分の役割に気づけば、自分がこの世界において大切な存在であることにも同時に気づきます。そしてそれは仲間があって自分があること、自分が与えられている役割を存分に発揮していくことがみんなの仕合せ、そして自分の仕合せであるという事実に気づいているからです。

一緒に暮らしていく人たちというのは、お互いに働くことで仕合せを手に入れます。同時にそれが役割分担の本質なのです。仕事観を見直すこと、まさにこの前提を変革することが「働き方改革」の本質なのです。

引き続き子どもたちが楽しく豊かに安心して働く社會のために、現代の大人たちの刷り込みを取り払う働き方のモデルを創造していきたいと思います。

歴史を学ぶこと

私たちは本である場所のその過去のことを知ることができますが、本当に過去を知るためには現地に赴き自分の足で確かめていかなければ本当のことはわからないものです。

王陽明に「知行合一」というものがあります。知識と行為は一体であるということ。本当の知は実践を伴わなければならないということ。つまり知識と行為はバラバラではなく本来は一体であるということ。知識と行動が一致することを実践といい、この実践することなしに本当に知るということはあり得ないということです。

歴史も同様に、過去の知識がいくら残っていたとしてもそれを自分が知ろうと行動していかなければ歴史も単なる知識として理解してしまい中身のない文字だけのものになってしまいます。

歴史を学ぶということは、職人が技術を学ぶことと同じように真摯に何度も実践し深め本質に近づいていくように骨身を削って達していくことに似ています。そしてそこで得た本物の知識のみ本当に役に立つものになるのです。

この「知る」ということは、骨身を削ったり辛苦を味わったりしなければ知ることはありませんから楽して便利に手に入るものは所詮、同様に便利に簡単に使えなくなっていきます。逆に大変でも苦労して手に入ったものは、いつまでも使い続けることができます。

いくら仮想で脳が現実を補ったとしても、心を籠めて身体を使っていなければその穴埋めは脳の知識だけではできません。人間は脳を使うとき、同時に真心や身体的努力を用いて現実というものを感受することで真実を得ることができるように思います。

だからこそ、まずは心と体、つまり行動を先にして脳はそのあと使っていくというような生き方をしていなければ知行合一することは難しいように思います。言い換えれば、今のような時代はまず行動をして知り、知ったことをまた行動で省みるというようにつねに生の人生を体験し続けて味わい続けるというような学問の姿勢が問われるように思います。

歴史も同様に、現地にまずは趣き自分の足でその土地や地理を確かめていく。その土地の文化や風土、人々に触れて話をよく聴いてそこに残存する空気や気配を感じ取る。そのうえで、歴史の記録を辿りながら記憶をつなぎ合わせて本当のことをつなぎ合わせていくということが歴史をものにしていくことではないかと思います。

歴史がものになればどうなるか、それは生き方がものになることであり人類のこれからを確かめるということになるのです。私が現地でつぶさに歴史を学ぶために足を運び何年も深め続けるのは、人間というものを深く知りたいからでもあります。

先人や先祖たちの生き方の中に、今を生きるヒントがありそして答えがあります。

子どもたちが安心して暮らしていける社會のために、知行合一に歴史を学び直していきたいと思います。

面白い経営

ホンダを創業した人物の一人に藤沢武夫氏がいます。創業者の本田宗一郎氏を語るとき、この藤沢武夫氏の存在は決して欠かすことができません。共に同じ夢に向かって信頼し合って経営をする。まさに車輪の両輪のように共に一つの道を歩んでこられた関係には、学ぶところが多くあります。

本田宗一郎氏は技術の人で、本物のものづくりにこだわる発明家でもありました。本物にこだわるために、全集中力をものづくりに注力しますからそれ以外のことができなくなってきます。しかし社長という立場は、一般的には様々な仕事の判断や資金的なことを部下や外部に求められ要求されていきますからそれを一人でやろうとするのは無理なことで、偏っている人であればあるほど周りの支えがなければ成り立ちません。一人の全能力を持つ人が経営するなら本来の天才もその長所や得意が失われ平均的な経営で終わってしまうようにも思います。

藤沢武夫氏は、お互いに尊敬し合い共に信頼して自分の役割をやり切るようなパートナーを探していました。その相手が本田宗一郎氏だったのです。二人は力を合わせて信頼し、お互いのやりたいことをやることに専念するために共にお互いの方針には口を出さずに信じたことをそれぞれにやり切っていきました。この二人の関係は、成長に主軸を置いて共に成長し合う関係を維持してその中心にホンダという会社があったように思います。

藤沢武夫氏にこんな言葉が残っています。

「私は戦前から、誰かをとっつかまえて、一緒に組んで自分の思い通りの人生をやってみたいと思っていました。その場合には、私はお金をつくってものを売る。そしてその金は相手の希望しないことには一切使わない。なぜなら、その人を面白くさせなければ仕事はできないに決まっているからです。」

「人間の能力というものは、いろいろあって誰しもオールマイティというわけでなく、それぞれ得意とするものを持っている。だから、社長は社長で、その得意とするものに全力をあげてもらって、あとのことは心配をかけないように、みんなで分担するのです。」

ここに仕事観があるのがわかります。仕事というものを自己を磨き成長するものとしており、経営は藤沢武夫氏にとって夢の実現、自己実現とイコールであったように思うのです。本田宗一郎の夢に賛同し人生を懸けると決めた時にこういいます。

「金を持っている人は、その金をもっと増やしたいとか、権力を得たいとか、そういう欲があるでしょうが、私は何しろ仕事がしたかった。自分の持っている才能の限界を知りたいというのが私の夢だった。」

お金を増やしたり権力を得ることが目的ではなく、本来の仕事をしたいと言いました。それは自分の持っている天才を引き出しそれを存分に発揮したいと願ったのです。この人物の経営の定義は、単にただ会社を運営するのが目的ではなく共に夢を実現するために一緒に丸ごと信じ切って目的をやり遂げることとしていたように思います。ホンダという会社においてこのように客観的に語ります。

「他社がどんどん儲けているときでも、ホンダは便乗しないから儲かりません。その代わり、本物をあくまでも追求するということで、よその経営者と違って、本田宗一郎は、自分の納得できるものだけを求めたのです。」

「本田宗一郎、藤沢武夫の特長とは何かといえば、ひとことで言って、エキスパートであるということでしょう。面倒見のいい管理者タイプでは決してありません。本能と直感で動きます。こういう人間は、世間一般の組織図で固められた集団の中では生きられないのです。せいぜい出来の悪い管理者になって、才能をすり減らしてしまうのが落ちでしょう。しかし、エキスパートを活かせない限り、ホンダがユニークな企業として発展することはできません。」

「本田宗一郎は特別な人間です。だから、彼のような人物を育て上げようとしても無理です。それならば、何人かの人間が集まれば本田宗一郎以上になる、という仕組みをつくりあげなければならないということです。そうしなければ、この企業は人様に迷惑をかけることになる。」

「ホンダはものをつくる会社なんです。ですから、どんなに儲かる話があっても、その話には乗らない。儲けるならみんなの働きで儲けるんだということを、ホンダの金科玉条にした。」

ホンダという法人の本質を深く理解し、そのホンダに世の中で本当の仕事をさせようとした。

そしてそれを実現することを何よりも自分の仕事の信条とした。この「信頼関係を築く」ことを「夢の仕事」としたのでしょう。会社とは、結局は社員同士の信頼によってその目的が成就されていくように思います。それを実現するために、まずは信じ切るということをお互いに覚悟したというところに仕事の面白さと豊かさがあります。藤沢武夫氏の経営は面白い経営そのものです。

最後に、これは今の私たちにも大切な格言として戒めておきたいと思います。

「順序を変えなければ企業は失敗する。それは、「お客様の喜び」を第一番目にしなければならない筈だ。その喜びがあって初めて「売る喜び」があるはずである。その2つの喜びの報酬として「作る喜び」になるのが順序である。」

如何に喜んでもらうか、それは家が喜ぶか、お客様が喜ぶか、商品が喜ぶかと、喜びを主体として取り組んでいくことです。先人たちから学び直し、経営を面白くしていきたいと思います。

 

本物の経済人~世直しの仕組み~

二宮尊徳の弟子たちが残したものに二宮翁夜話があります。これは二宮尊徳の門弟、福住正兄が身辺で暮らした4年間に書きとめた《如是我聞録》を整理して尊徳の言行を記した書のことです。

この夜話には、二宮尊徳の思想や具体的な行動が記録されています。その夜話231条の記録の中に「神儒仏正味一粒丸」という言葉があります。

「神道は開国の道なり。儒教は治国の道なり。仏教は治心の道なり。ゆえに予は高尚を尊ばず卑近を厭わず、この三道の正味のみを取れり。正味とは人界に切用なるをいう。切用なるを取りて切用ならぬを捨てて、人界無上の教えを立つ、これを報徳教という。戯れに名付けて神儒仏正味一粒丸という。その効用の広大なることあえて数うべからず」

どのように世直しをしていくか、その善いところだけを合わせて団子のように丸めて薬にして人々に与えるという発想。この「正味」という字は、余分のものを取り除いた中身、本当の中身という意味です。二宮尊徳は、報徳という考え方はこの3つを合わせてできたということを暗に意味しています。

そしてこの報徳を実現することを報徳仕法を実践することとしました。

「農村の復興・改革という報徳仕法の実践面は、勤労、分度、積小為大、そして、推譲から成っていると考えられる。つまり、まず分度を立て、その分度を守りつつ勤勉に働く。最初は小さな成果しか得られないかもしれないが、それを継続し、積み重ねれば大きな成果が生まれる。成果が生まれたら、いたずらに浪費するのではなくそれを家族や子孫、他人や社会のために役立てる。一言に集約すると『勤倹譲』(勤労、倹約、推譲)と表現されることになり、これらが報徳仕法の実践である」

これは現在のソーシャルビジネスにも通じており、尊徳はもうずっと前に経済で生み出される人間の貧困の問題を解決するための方法を発見しそれを具体的に実現し成果を出していたのです。その後、明治維新により西洋化を急速に進める中で報徳仕法は失われましたが世界を救う世直しの仕組みとしてこれ以上のものは産み出されていないのです。

二宮尊徳がこの仕法に気づくキッカケになったのは、大飢饉と飢餓です。自身の人生の苦労から一生涯を懸けてこの問題の解決に取り組んだ方なのです。グラミン銀行のムハマド・ユヌス氏もグラミン銀行の創設の理由を同じようにこう語っています。

「グラミン銀行設立のきっかけは1974年の大飢饉でした。当時、私は米国の大学で博士号を取得して帰国したばかりで、大学で経済学を教えていました。若くして自信満々でしたが、いくら経済の知識を持っていても餓死していく人々を救えませんでした。」

人が貧困や飢餓で死んでいく現状を心底憂い、なぜこうなるのかと社会構造全体の変革について挑戦した人物たち。まさに経済の道の中で、世直しを実行しようとした本物の経済人たち。

このような人たちが、経済というものの本質を見極め、経済とは何のためにあるのかということをシンプルに語り掛けてきます。

「貧困は人災である。貧困のない世界を創る。貧しい人々は力さえ与えれば、チャンスさえ与えれば、才能さえ引き出せれば自立できる、そしてよりよい社会を創り上げることができる。すべての人に尊厳、自由、平和の保障された生活を」と。

今一度、私たちは深く考えなければなりません。

貧富の差の本質とは何か、格差社会の本質とは何か、同じ人間がなぜこのように差別されてしまうのか。それはすべて「心の問題である」と気づいた人たちが世の中を変えていくのです。どうせこの先、行き詰まる世の中で必ず人類の誰かがそれに気づき立ち上がりみんなを動かし世界は変わります。

その過渡期にある私たちは、その問題にみんなで勇気をもって向き合う必要が出てきます。人類の平和や仕合せとは何なのか、本当の暮らしは、本物の人生はどのようなものであるべきか。

道の途中ですから、今を真摯に学び直しながら人生の正味を練り上げていきたいと思います。

 

 

天の蔵~徳の貯金箱~

バングラディッシュにグラミン銀行というものがあります。これはチッタゴン大学教授であったムハマド・ユヌス氏が銀行サービスの提供を農村の貧困者に拡大し、融資システムを構築するための可能性について調査プロジェクトを立ち上げからはじまったものです。

この「グラミン」という言葉は「村(gram)」という単語に由来しておりマイクロクレジットと呼ばれる貧困層を対象にした比較的低金利の無担保融資を主に農村部を中心に行っています。今では銀行を主体として、インフラ・通信・エネルギーなど、多分野でグラミンファミリーと呼ばれ各地でソーシャルビジネスを展開しています。

ムハマド・ユヌス氏は、貧困層の問題はチャンスが与えられないことが本質だとしその機会を与えることが貧困問題を解決する鍵だとしました。一部の富裕層のために貧困層のチャンスを奪うことになっている資本主義経済の弱点を解決しようと挑戦しておられます。そのユヌス氏はこう言います。

「すべての人間には利己的な面と、無私で献身的な面がある。私たちは利己的な部分だけに基づいてビジネスの世界を作った。無私の部分も市場に持ち込めば、資本主義は完成する。」

人間の併せ持つ欲と徳、その欲のみで経済を動かし続けたことに問題がある。本来は道徳といったものも経済に適い一致するのなら本来の資本主義は完成するはずだと信じたのです。

この経済と道徳の一致を最初に説いたのは、私が何よりも尊敬し判断の基にしている「二宮尊徳」です。二宮尊徳は「道徳なき経済は、犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。」と言いました。つまり、欲だけで走る経済はまるで犯罪そのものではないか、そして本来の経世済民という意味での道徳が失われているのならそれは単なる絵空事あって復興の足しにもなりはしないということでしょう。

二宮尊徳も「村(gram)」を中心に、貧困の解決に取り組み復興を実現していきました。二宮尊徳は、相互扶助金融制度としての『五常講』という仕組みをつくり信頼を基盤に経済と道徳の一致を行いました。具体的には人倫五常の道によって積立・貸借をしていきました。そして「五常講真木手段金帳」という帳簿をつくりそれぞれに薪の節約、鍋炭払い、夜遊びの中止など、工夫をこらし、連帯して生活を向上するように指導したのです。

この五常は「仁」「義」「礼」「智」「信」の5つの徳目のことです。これを説明すると、まず仁は「金に余裕のある人がこの「講」に貸し出し基金を寄せる。」そして義は「この講から借りる人は約束を守って確実に返済する。」礼では「借りた人は貸してくれた人、支援者に感謝する。」そして智は「借りた人は確実かつ1日でも早く返済できるように努力工夫する。」最後に信は「金の貸し借りには相互の信頼関係を築いていく」この5つの徳目を守ることを条件に「五常講貸金」という相互扶助の金融制度を発明したのです。

先ほどのグラミン銀行のようなものをすでに日本では二宮尊徳が実践し、600以上の村々を復興していたのです。二宮尊徳が目指していた社會は、平和で人々が思いやり優しく手をつなぎあって暮らしていこうとしたことがこの発明からも観えてきます。孔子が目指した理想を二宮尊徳は具体的な方法によって導こうとしたのでしょう。高弟だった富田高慶報徳記にはこう書かれています。

「天地万物にはそれぞれ固有の徳が備わっていることを認識していた尊徳は、人間社会は天地万物の徳が相和することによって成り立ち、自己が生存できるのもそのおかげであると考えた。そのことに感謝の念を持ち、自己の徳を発揮するとともに、他者の徳も見出し、それを引き出すように努め、万人の幸福と社会・国家の繁栄に貢献すること、これが尊徳の考える『報徳の道』である」

天地万物の徳を引き出すことに経済の仕組みを用いる。まさに我が意を得たりの境地です。私が目指している理想もまた、この一点にこそあります。保育に懸けるのもまた天与の人間の徳を見守るためなのです。

まさに一円観、一円融合はこの一致する一和にあります。子どもたちに譲る貯金が底をつかないように天の蔵に積み足していく徳のお金を譲り遺していけるように残りの人生を懸けていきたいと思います。