不識の境地

自然の中にはいろいろな生命が存在します。当たり前のことですが、世界では今日も様々な命がそれぞれに循環する中で廻りまた命を繋いでいきます。私たち人間はだいぶ自然の生き物と暮らしが変わってしまいましたが自然の生き物は自然のリズムでゆっくりと悠久を生きています。

加速度的にスピードを上げて変化する人間社会にいると時折、船酔いのように揺れて大変です。そういう時は自然の視座に身を置けば、時代や人間社会の変容を客観的に実感していけるようにも思います。

人間は頭で考えている世界と、心が働いている世界は時間軸が異なります。頭は体験をしなくても空想や妄想、仮想の意識で未来や過去などを考えて対処していきます。しかし心は実体験や経験を通してじっくりと心が玩味していくように今に対応していきます。

スピードが速いということは、頭で処理する世界が加速するということです。自然界のように悠久の速度で歩むというのは心の世界に生きていくということでもあります。心は余計な知識を持つ必要がありません、つまり頭を使わないのです。頭を使わない人を今では頭が悪いとか馬鹿とか、天然だとか言われますが実際は心を使うから頭をそんなに必要としていないのです。

頭というのはもともと危機回避や、リスクコントロールで稼働していくものです。そのためネガティブ思考になったりマイナス思考になりやすいものです。つまり信じるよりも計算で対処していこうとするのに似ています。心は信じるのが優先ですから、ある程度のことは考えても基本的にはお任せ状態で信じていますから気楽なものです。

もしも毎日不安や恐怖で生きていたらとても気楽にはいられません。自然界で生きて生き物たちは人間のように日々の新しいニュースに眼を凝らしてはいません。生きていくために必要な危機感はありますが、基本は気楽に楽しそうに生きています。その気楽さに心癒され、自然によって私たちは何が生きる仕合せなのかを思い返すことができるようにも思います。

自然が教えてくれるものをどれだけ学び直すかは、幸せに生きていくために何を大切にしていくかということとイコールです。平等に生まれてきたいのちが、平等にこの世で仕合せに生きられるという真実に気づくためにはあるがままにありのままにこの世のことが観えている必要があります。

そのためには、不識の境地が必要です。不識は時代を超え生命に共通する普遍的な意識改革の要なのです。

不識の境地とは自然と同様に自然のままに自然が観えるかということなのでしょう。生まれたばかりの子どもたちがありのままにあるがままを観て自然体でいるように、思いに邪念や私欲、雑念や妄念を持たないよう澄ました一日を積み重ねていきたいと思います。