心の友だち

昨日、古くからの友人が東京から聴福庵に来てくれて語り合う楽しい時間を過ごすことができました。不思議ですが20年くらい前からご縁がありますが、本当に時折しか合わないのにいつも通りに安心して喜楽に語り合える関係が続いています。

お互いに信じるものや、大切にしているものを知っているからか、もしくは心のどこかで相手を尊敬しているからか、生き方が共感し共鳴するものがあるからかは考えてもわかりませんが、「ご縁」があるのは間違いありません。

こうやってご縁がある人たちと結ばれていくことは本当に仕合せなことで、人生の節目節目に、出会いまた、離れ、しかしまた再会しとその時々のタイミングで人生を共にできることはなによりも幸福です。ご縁の存在に私はいつも救われ、ご縁によって人生が彩られ天の恩恵に感謝するばかりです。

今日が私の誕生日ということもあり、昨日はお祝いとお土産をいただきました。一つは、煎り酒といってはじめて味わった調味料ですがとても美味で感動しました。特に、うなぎの白焼を炭火で焼きあげて少したらして食べるとまさに風味がさらに引き立ち味わいが最高でした。

この煎り酒とは、日本酒に梅干等を入れて煮詰めたものをいいます。もともとは室町時代末期に考案されたといわれ江戸時代中期まで垂味噌と伴に広く用いられていたといいます。実際には醤油ほど保存が利かず味も強くないために江戸時代中期以降醤油が普及する過程で利用が減っていったといいます。しかし醤油に比べ素材の風味を生かす利点があるともいわて最近ではじわじわと人気が出てきているそうです。他にも藻塩や、加水されている飲みやすい焼酎、健康的で好印象を与える名前のお菓子などもいただきました。

かねてから日本の伝統の調味料においては、出汁をはじめいろいろと試していましたが私の興味や関心がさらに湧くものを見知っていて用意してくれているところにお互いのおもてなし合うあたたかな関係がずっと結ばれていることを実感しました。切磋琢磨とは奥深いものだと改めて学び直すことができました。

また誕生日のプレゼントに、お二人からは京都の「阿以波」のすかし団扇をいただきました。この阿以波は元禄2年(1689年)創業の団扇の老舗です。この京団扇は、とてもシンプルで、そぎ落とすところはすべてそぎ落とされた美しさがあります。また使い勝手もいいだけでなく、飾りとしても見栄えがあります。伝統職人が、独特の透かし模様を紙に切り抜き張り合わせていますがその丁寧で優美な印象がより全体の雰囲気を高めています。また香りも、アロマやお香を組み合わせて風と共にふわりとした味わいを周囲に与えます。

論語に、「「学びて時に之を習ふ。亦説(よろこ)ばしからずや。 朋有り、遠方より来たる。亦楽しからずや。 人知らずして慍(うら)みず、亦君子ならずや。」

まさに昨日はそのような心境を味わうことができました。心の友だちは人生を豊かにしていきます。これからどのような再会があるのか、楽しみです。

つなぐチカラ

先日、福岡県朝倉市比良松にある250年の古民家を有志たちのハブ(HUB)にしたいという相談を受けました。このHUBという言葉は、ネットワークにおいて中心に位置する集線装置のことで名前の由来は『車輪の中心』からきています。

つまりハブ(HUB)にしたいというのは、人と人をつなぎ想いと想いをつなげる場所にしたいというニーズがあるということです。もちろん車輪の中心になる場所ですからそれなりの地政学的にも集まりやすい場所であり、地域には誰に集まってもらうのかという対象となる人物たちがあります。

また世界や全国から来ていただいてもしっかりとおもてなしできる環境がある必要があります。ただの空き家をハブ(HUB)にするためにコワーキングスペース(CO-WORKING)のようなものを設置するのではなく、まさにその場が価値があるものでなければなりません。

コワーキングスペース(CO-WORKING)とは、最近よく聞くことが増えていますがこれはシンプルに言えば「共働オフィス」のようなものです。このCOというのは、「共」を意味します。そしてワーキングスペースを訳せば「仕事をする場所」となります。つまり、ノマドワーカーや個人事業主、もしくは様々なファシリテーターやクリエイターたちが共働し合う場になったり相乗効果が発揮できるような「つながり合う場所」になっていくということです。このつながりの「つな」は、蔓状の植物、葛からできた言葉だともいわれます。あの葛の繁栄ぶりを見ればつながっていく繁殖力は自明の理です。

実際には、目的が異なれば交流する人たちの種類も内容も異なりますがそもそも何のために共働の場が必要なのかという議論があります。確かな意志をもって、使い手たちの思いに応えられるものでなければなりません。何をつなげていくのか、なんでつながるのか、その思いがつながっていきます。

よく考えてみると、歴史を顧みても様々なものが交流することで時代は発展と繁栄を繰り返してきました。

一つの思いや願いが、場の力によって発揮されそれがカタチになっていく。まさに、人は協力し協働することで大きなことを成し遂げるのです。

そしてその地域の古民家には歴史をつなぐ力があります。その場所で生きた人たち、暮らしや風土文化、様々なものをつなぐ力を持っています。つながりというのは、時間のつながり、空間のつながり、地域のつながり、人のつながりというように、あらゆるものが一つに融和していく中で、その場力は高まります。

交流していく中心、まさにそのハブ(HUB)は誰が何の目的で行うのかで何がつながるのかがはっきりするのです。色が混じり合い新しい色が生まれてくるように、あらゆる人種や文化を超えてつながる時代がもうそこまで来ています。

その国の風土や歴史や文化、そして生き方を体現したものがその地域で新しいものを生み出してそれが世界に発信されていくことはとても素晴らしいことだと私は感じています。

どのようになるかわかりませんが、子どもたちの仕合せにつながっていくように最善を盡していきたいと思います。

心の太陽

人間は振り返ることで、自分というものに出会います。自分のことを知るもっとも有効な手段は、この振り返りをするという習慣を持つことです。1日にたとえ5分でも、10分でも振り返る人は、自分を見失うことはありません。

私はこの日々のブログは振り返ったことを深めたものを綴っています。振り返りの時間は、もっともゆっくり振り返れる深夜に行います。そのほかにも、朝起きてからの日記や夜寝る前、他にも日中でも少し時間があれば振り返ります。

いつから振り返りオタクのようになったのか、それはメンターの影響が大きいと思います。

私のメンターは、「省みる」ということを何よりも重要にする生き方をなさっています。論語の三省を人生の自戒のようにされておられます。この三省は、一日に三回省みるという意味ではなく、漢字の三は、無限に広がっていく三ですから何度も何度も振り返るということです。

孔子は、論語で自分のことを三省で語ります。

「吾日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか」

毎日、孔子は自分の初心を失っていなかったか、自分を見失っていなかったかと、動機はどうだったかと、3つの軸によって自分自身を振り返っていたのです。

例えば、ご縁を大切に生きていきたいと願ったなら、自分はご縁に対して誠実だったか、活かしきったかと、ご縁あるたびに自分の動機や初心を確認していかなければなりません。そのうえで、安易なことをやっていたらすぐに反省し、ただちに修正できるものはし、できないものは次に活かし改善する必要があります。

こうやって習慣を持つことで、次第に自分を見失うことなく心のままに生きていくことができるようになるのです。

人生は自分自身との対話です。

自分がどう生きたか、納得のいく人生だったか、それは自分にしかわかりません。自分の心を無視して誰かのせいや環境のせい、言い訳をしてそのまま終わるのも一つの人生、それをすべて自分を磨く機会であり砥石だと福に転じて自分を味わい盡していくのもまた人生。

選択するのは常に自分自身の心です。

決心するというのは、その心を最期まで維持し続けるということです。そうい意味でこの維持こそが習慣であり、継続が力そのものである由縁なのです。

心は常に存在し、消えることはありません。脳の作用や感情によって霧がかかり曇ってしまっているだけです。どんなに曇ってもどんなに嵐がきても、太陽がまた出てくるように心も同様に風がやみ穏やかになれば澄んだ空気と共に太陽は現れます。だからこそ、私たち人間は心にいつも太陽を持ち続ける必要があると私は思います。

この振り返りの習慣は、心の太陽を確認する習慣です。

自分を見失わず、子どもたちが自分の人生を生ききることができるように私自身の背中を通して子どもたちに伝承していきたいと思います。

人類保育の道

人類は、集団をつくることで生き延びてきた生きものとも言えます。敢えて集団をつくったのは、自分を守るためでもありました。一人だととても弱く、生き延びていくことができません。

だからこそ集団をつくり仲間を持つことで、協力し合い助け合ってきました。その証拠に、人間は一人でやっていても面白くないや楽しくないなどという感情を含め、仲間と一緒に取り組むことで仕合せを感じるようにできているからです。

無人島で一人で暮らしてみるイメージを持てばすぐにわかりますが、いくら成功したからと一緒に喜んでくれたり、感謝されたり、ほめて貰ったり、共感しあったりすることがなけばそのうちつまらなくなっていくものです。

人は人と一緒にいることで、ヒトが人間になったといいうことでしょう。その人間の特徴とは何か、それは「仲間を大切に思う心」ということでしょう。以前、NHKのグレートジャーニーの中で皮肉にも人類は仲間を大切に思うことから戦争が起きたという表現がありました。確かに、仲間というもので敵味方を分けるとそこにはお互いに正義が生まれます。本来は仲間同士で起きた、尊重と寛容の精神で助け合うところを損得利権や自我欲が優先され身勝手な正義が集団によって認知されればそこには対立構造が生まれてしまいます。

対立から対話へというのは、本来、みんな仲間ではないかと確認し合おうということです。同じ組織の中で敵味方に分かれて、いざこざをしているところを見かけますが本来の仲間とは何かということを思い出すことでしょう。

組織というものは、自分を大きな意味で守っているところです。自分を守っているところだからこそ、その守っているところを守ろう。それを拡大させていけば、家族から会社、地域社会、そして国家、世界、地球というように守り守られている存在に気づくのです。

視野の狭さというものは、この逆であり、自分を守ることを自分で必死にやればやるほどに家族を守れず、会社を守れず、地域も守れず、国家も守れず、世界も地球も守れません。

自分を守っているものは何かともう一度、客観的に見つめることで自分が本来守るべきものは何か、そして自分はなんと大きなものに守られていたのかと感謝に立ち返ることができるのです。

これと同様に地域貢献とかボランティアとかを仕事と分けるのではなく、自分を守ってくださっているものを守ろうとすることは人類の発展や地球の成長に必要なことなのです。特に子どもたちの未来を思えば、自分が守っているものが何かを確かめることができます。

人間は、集団をつくりましたが問題はそこに甘えすぎてしまうことです。それは自律ではなく、自立でもない。守られるのが当たり前となってしまい、自分が貢献することをやめてしまえばそれは単なる甘ったれになってしまいます。

得意なことができる人に甘えることは、自分の得意なところで貢献する覚悟がありますから共生と貢献の関係が成り立ちます。自分ができないことは得意な人に頼る、しかし周りができないことは自分の得意に頼ってもらう。まさに信頼関係を築くことで、仲間を思いやる心が人類を対話や平和へと導くように私は思います。

身近な人たちとの小さな人間関係が、世界の戦争にも平和にも左右していきます。一人一人の人間の心の中に如何に平和を築くかは、人類の最大のテーマであり私たち子孫に与えられた最も重大な課題です。

自立と自律は、私たちの本業のテーマでありそれが仕事です。

引き続き、人類の未来を省みながら保育の道を弘げていきたいと思います。

 

善の本体

孟子に「性善説」というものがあります。これは人間の本性を善とするという考え方のことです。そもそもすべての人間の心には本来善への可能性が内在し、その兆しを四端(したん)といい(惻隠(そくいん)、羞悪(しゅうお)、辞譲(じじょう)、是非(ぜひ))の情としました。この四端を拡大していけば、人間の善性は仁義礼智という形で完全に発揮できるといったのです。

この4つの感情とは現代語にすれば、あわれみいたましく思う心、不善を恥じにくむ心、目上にへりくだり譲る心、正邪を判断する心のことでこれは最初から持っているというのです。

人間が素直になれば、これらの感情は持っているというのは生まれたばかりのいのちにはその道理が備わっているという言い方なのです。確かに、生きていくうえで必要な道理というものがあります。

それはこの自然界、宇宙においても従わなければならない絶対的なものがあります。この地球に生まれた以上、これがなくては生きていくことができないというものはもともと備わっているはずです。

水や空気、光や熱なども当たり前すぎて気づきませんが、生きていくためには欠かせません。これらは情となり心となり、私たちのいのちと密接につながっているように思うのです。

そしてそれらを総称して孟子は「善」というのではないかと思うのです。つまりいのちは水であり、水が善であるということ。

老子に「上善水如」があります。

これは最高のは水であるとし、万物に利益をあたえながらも、他と争わず器に従って形を変え、自らは低い位置に身を置くという水の性質を、最高の善と称えます。

つまりは、善であるというのは水のような存在のことであるということです。人間は生まれながら水を持っている、その水には性質として低きに流れるというものがある。だからこそ、水は環境を受けて変化する。環境としてこの世にある道理を色濃く受けて善になるということでしょう。

つまり「善」は、宇宙における万物自然の道理のことです。

いのちはどんないのちも道理に逆らうことはできません、いのちは道理に従うことでそのものの本来の本性が引き出されていきます。本性を引き出すとは天命を生きると同義語です。

人間は水のように澄んだ存在に近づけば近づくほど、より本性の価値になっていくということです。本性の価値とは地球といういのちの姿です。無為自然とも言います。

善を循環していけるように、新しい仕組みを考案中です。

子どもたちが安心してこの先もずっとありのままであるがままに暮らしていけるように今できることの最善をいのちを懸けて取り組んでいきたいと思います。

 

居場所

先日、居心地について改めて考える機会がありました。この居心地という言葉は、居と心地からできた日本語です。居は落ち着く場所のこと、そして心地は仏教語であり、心を大地から支えるものとあります。心が落ち着き心の支えになっている居処ということになります。

この居場所というものは、改めて考えてみるととても大切なものであることがわかります。人間は何をして誰といてどこにいてどうしていることがもっとも気楽にいられるか、この居場所とは自分の心が安らぐこと、常に落ち着いている空間や関係ができていることをいいます。

つまりは日本文化でいうところの場と間と和が存在し、心がそのものと一体になって自然に解けこんでいるようなものをいうように思います。

そして居心地が悪いとは何か、それは自分が無理をして自分本来の心が落ち着かないこと。この無理をするというのは、素の自分の価値を否定し自分を偽っている状態になっているということです。言い換えれば、素を出せないということです。この時の素とは何か、それは素心のことで素直でいられない状態になっているということです。

素直になれないのはなぜか、それは自分の感情に囚われたり、相手を勝手に思い込んだり、自分が他人にどう見られているかばかりを気にして本音を誤魔化していたりという状態のことを言います。

本人にとっても居心地が悪いと思いますが、周囲の人たちもそのような人たちがいることで居心地が悪くなるものです。居心地の善さというのは、みんなで協力して居心地を善くしていく必要があります。

それはどのようにしていけばいいか、それは本音の対話を通じて行われていきます。本音の対話とは、心音の対話です。心がどのように感じたかを素直に言える関係、お互いに素心のままで尊いと思いやれる関係、そういう絆を結び合っている居場所は居心地が善いと感じるものです。

人間は色々な価値観の人がいます、生まれながらに異なれば育った環境でも異なります。そういう人たちを同一の価値観で同一の環境下で管理することは不可能です。特に現代は多様性が尊重され、人口減少の中でより協力して助け合って生きていく時代に入っていますから余計に居心地を気にすることが増えています。

だからこそ居心地がよくなるための努力を、みんなで一緒に取り組んでいく必要があります。一人ひとりが、お互いを認め合い、尊重し合う関係を築き、役割や力が発揮できるような場や空間を環境に創りこんでいくこと。

これからのリーダーは、この「居場所」の価値に気づけなければ人々の調和や協働を引き出していくことはできません。今の職場や日本の環境を見つめ直し、何の刷り込みを取り払い、何をどこから改善するのか、そのプロセスを経て本物の居場所を創造うのが私たちの会社の本業の一つです。

子どもたちが安心して自分らしく生きて、自己を発揮していけるように見守る環境を弘げていきたいと思います。

 

自分の役割~チームワーク~

チームワークという言葉があります。これは和製英語でそのまま使われていますが、このTEAMとは、「Together Everyone Achievement More」の略だといわれます。日本語に訳せば、「みんなで一緒に多くのことを達成していく」という意味になります。そして「work」は、「協働」するということです。

つまりチームワークとは、「みんなで一緒に協働」するということをいいます。

チームワークがいい組織というものは、訳せばみんなで一緒に協働することが上手な組織ということになります。

このチームワークがいいことのためには、個人が好き勝手にバラバラに動いていたらよくなることはありません。みんなが一緒に取り組むために、思いやりを忘れず常にフォローし合って心を一体にして取り組んでいく必要があります。

むかし三銃士の映画で、「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という格言がありました。同様に、みんなで一緒に協働していくためには仲間を思いやるやさしさと具体的に助け合う能力、そして心を寄せ合う一体感などが必要です。

これは個人の能力だけで自分勝手に仕事さえ結果を出せばいいだろうと目先のことばかりやっていてもそうなることはありません。どちらかといえば、自分の目先のことよりもみんなで一緒に取り組んでいる方を大切にし、そのうえで自分の役割がどのようなものであるのかを自覚して働く中でチームワークは磨かれていきます。

もっと言うのなら「みんなで一緒に働いている意識」に自分の意識がなっているかどうか。自分ひとりくらいや、自分はやっているからなどという個人意識はこのチームワーク意識ではありません。

チームワーク意識とは、自分の役割は全体にとってとても価値があることを自覚している意識です。だからこそ自分の存在、自分の働きぶりはとても大切であるという意識にすでに変わってしまっているということです。

自分の影響力や役割を自覚できるというのは、同様に仲間やチームの存在の影響力や役割を常に自覚できているということです。単に職場の同僚ではなく、同じ理念や目的、目標を共有し協働する大切な仲間という意識があるということです。

現代は、自分のことさえやっていけばいい、もしくは余裕がなく自分さえよければいい、もしくは自分の家族を守る単位で精いっぱいということもあるように思います。しかしそれを守ってもらっているのは何か、それは自分自身だけの力ではないことは少し考えてみればすぐにわかります。

自分を守っているのは、周囲の存在であり、家族でもあり、仲間でもあり、会社でもあり、社会でもあり、国家でもあり、世界でもあるのです。その中で自分の役割を果たすために構成したものが、チームの姿です。

チームを大切にできる人は、自分の役割を大切にできる人です。

私たちは、これからの子どもたちのモデルになるようにチームの価値を高めチームを極めていきたいと思います。

国家の大計

むかしの伝統建築と今の建築は、そもそものルールが異なります。むかしのものは自然の道理に適うかどうかを基準に風土に合ったものを建てていました。しかし今では、人間の都合で風土に合わさないものを好きに立てています。

自然への畏敬の念、つまりは自然の力の偉大さを見知っていたからこそ私たちの先祖は修繕や修理して壊れてもまた直せるように建てていたのです。しかし今では、壊れたら新しくすればいいと頑丈につくり災害でもしも少しでも壊れたら全部壊し新しくしてしまうという具合になっています。

修理や修繕は手間暇がかかるからという理由で、まったく修理や修繕が必要のない方法で安く新しくしようとします。長い目でみたら、古民家をはじめ数百年持つように建てられていますし素材もまた再生利用なものばかりですが現代においては短期的にしか見ていませんから損でしかないように教えられます。

何をもって損かどうかは、短期と長期で観照すれば逆転するものなのです。

人間は長期で物事を考えるには、広い視野と高い理想、そして悠久の時の流れをもっている人でなければできないものです。自分の欲望や保身、そして狭い視野、目先の忙しさに追われていたら正しい判断などできるはずもありません。

むかしは、歴史をお手本にして人間がいくら抗っても自然には勝てないことを見知っていましたし自覚もありました。そこから謙虚さがうまれ、自然に逆らうのではなく自然に適ったものに近づく努力を続けていました。

もちろん進歩を否定するのではなく、あくまで自然の道理に沿った進歩こそが先人たちが大切にしてきた生き方ではなかったと感じるのです。特に建築においては、国家の建築とも比例しているように思います。

奈良にある法隆寺の時代などは、国家も同様に1000年以上続く理想に向かってみんなが力を合わせて建築してきたのがわかります。それに比べて、現代はどうでしょうか。

東京ではオリンピックに合わせて急ピッチで建物を建てていますが、あの建物は果たして1000年のような考えて取り組んでいるのでしょうか。鉄筋コンクリートの寿命は、約40年ほどともいわれます。それに比べて古民家の年代の梁などは1000年持つともいわれます。

費用対効果というのなら、少しの修繕を繰り返した方が資源の枯渇もなく風土も安定していきます。今のように海外から大量の材料を輸入していたら、海外の資源が枯渇するだけでなく国内にゴミのように循環しない材料があふれかえってしまいます。

国家の大計はまさに文字通り、国という家の姿にこそ鑑みるものかもしれません。

今更時代と逆行して古民家の甦生をと言われますが、私がやっているのは単に古い家を直そうとしているのではなく未来の子どもたちのために国家を直したいと思っているのです。

引き続き、古を愛し、新しきを創り、長期的な戦略で取り組んでいきたいと思います。

 

家の徳

先日、福岡でたくさんのお弟子さんがいらっしゃるお茶の先生の実家の築250年くらいの古民家甦生の相談にのるご縁がありました。昨年の水害で1階部分が大幅に破壊され、この2年間の湿気やカビなどでとても住める状態ではなく解体して新しく建て直すか、それとも修繕をするかを悩んでおられました。

地域の方々からこの家は地域のシンボル的な存在の家でありこの家だけはなんとか壊さないでほしいと頼まれるそうですが、実際には費用も具体的な方法もまったく検討がつかず立ち竦んでしまっている状態でした。しかしご先祖様やご両親、地域のことを考えたうえで遺そうと決心されました。

以前、この地域では130年くらい前に大火がありほとんどの家は消失してしまったといいます。しかし唯一この古民家だけが、燃えずに残ったそうです。その理由は、地域の人々がここだけはとみんなで集まり守ったからだといいます。

当然その時代は、現代のようにホースで放水などではなく近隣の家をみんなで道具を使って急ぎ解体してそれ以上、隣の家に火がまわらないようにする防火方法で消火していました。つまりこの古民家を守るためには近隣の数軒の家を壊して守る必要があったのです。そこまでしてでも大勢の方々が、協力してここだけはと守ってくださったからこそこの地域で唯一、250年建ったままでいるのです。

しかしなぜこの古民家をそこまでして守ったのかとその理由を地域の方々にお聞きすると、この古民家の家は代々お米問屋で貧しい人たちや生活できなかった人たちに進んでお米を恵み助けていたからそうです。さらには、むかしこの地域で大規模な一揆が発生した時にも農民たちはこの家だけは傷つけず守ったといわれています。それで日ごろから恩を感じていた方々がいつも四方から集まりみんなで守ったのだろうと仰っていました。

きっと代々のご先祖様たちが人々の間で徳を積んできた歴史があり、その徳に報いようとして人々がその時代の災害から愛をもって家を守ってきたのでしょう。そして現代になり、大規模な水害で壊滅状態になったまた古民家を再び守ろうとする動きをこれからはじめることになります。

費用があるわけでもなく、具体的な公的補助金が入ることは一切ありません。

しかし私はこの「家の徳」を信じ、未来の子どもたちにこの道徳の伝説を子孫へ伝承するためにもこの古民家の甦生を丸ごと引き受ける覚悟を決めました。

道徳というものは、一体どこからはじまるのか。それは人々の愛の中からはじまります。美しい話を語り続け、地域に永く愛され続けるこの古民家は日本人の子どもたちを永遠に見守り育むはずです。

道徳は一般の教科書には書かれていなくても、人間はその場に来てみれば必ずそこに何かを感じます。私たちの精神文化の中に息づく、道徳心というものは場の力によって甦り、そして和の空間の中で活かされ続けます。そしてそれが愛であり、愛は循環することで人々の心の中を廻るのです。私たちに空気が必要なように、私たちには愛が必要ですからこれは決して失われないものの一つなのです。

そして伝統的な日本の民家はまさに、民族でいうところの精神的な長老であり指導者、そして親であり先生なのです。ただの家を残すのではなく、民家を遺す、そして道徳を遺すということ。

生き方は、まさに代を重ね徳を積むことで高まり、より一層、美しく光り輝きます。

まずは家族が災害前よりもかえって福になって快適に暮らせるように智慧を絞ります。この場で育った子どもたちが、将来どのように日本を変えていくのかとても楽しみです。

おもろいか

昨日、私が尊敬する芸事の先生と一緒に雛祭りの見学に同行するご縁がありました。この先生は、茶道、華道、書道、陶芸に絵付け、料理に詩に絵画、他にも数えきれないほどの芸事に達している方です。どの作品も一流の業界紙に特集されるほどで、自らを数寄ものと名乗っておられます。

なぜ数寄ものかとお聴きすると、ものが好きだからと仰っておられました。つまりもの数寄だからと。その証拠に、この先生にかかればどんなものも輝いて持ち味を発揮します。ものの持ち味を引き出す室礼はまさに圧巻で、先生の作品からは壮大な物語を感じます。

この壮大な物語の源泉は、先生の歴史や由縁に精通していることもあります。日本の故事や由縁、そして伝説などもよく見知っておられ、それを物語として結び表現されるのです。

まるで物がすべてを語るように、この先生にかかれば物がひとりでに語り始めます。それを観てわかる人はすぐにそのものが何を語っているのかを直観するのです。昨日の雛祭りに同行しても、「これはもっとこう配置したほうがいい」とアドバイスを受けているとものの楽しみ方を学びました。この世のものをどのように見立てるか、まさに雛祭りは小さな世界の見立て遊びでもあり、まさに家の中に一つの自然や宇宙を表現する舞台のようです。

そう考えてみると、私たちにとっての舞台とは人生そのものです。

それをどのように面白く演出するか、そしてどのように楽しく結んでいくかはその人の生き方、そしてかかわり方、布置の見方などに因るように思います。四季のめぐりのなかで、どのようなテーマを持ち、何を組み合わせ、面白がるのはまさにこの世を美しくして暮らす日本の精神文化のように思います。

先生にお会いすると実力の差を実感しますが、それにも増して観ている世界に好奇心が湧き、これからの新たな場数や新境地にわくわくするばかりです。大阪生まれ大阪育ちの先生なので「そっちの方がおもろいやん」と、なんでも「おもろいか」と判断する生き様に生き方の方にも大きく憧れました。

子どもの心は、自分が守り育てていけば必ず唯一無二の自立になる。年齢は関係なく、若くても好奇心が枯れている人もいれば老いてもますます好奇心が瑞々しく偉大な人もいる。

一生の一度の人生だから、自分軸を大切におもしろく生きてみたいと思います。次回は具体的な「ものがたり」を学べることを楽しみにしつつ子どもたちに日本人の智慧を伝承していきたいと思います。