持続可能の基礎

物事には短期的なものと長期的なものがあります。現在の世の中はスピード重視、便利さ重視、結果重視で個人重視ですからどうしても短期的なものが増えていきます。すぐにリターンがあったり、すぐに成果につながらないものは効果がないとみなされたり失敗だとも評価されます。

しかし遠くにいこうとすればするほどに身近な失敗は成功の糧にもなります。また成長しようとするのなら、数々の失敗や挑戦を繰り返さなければ長期的に見てそれは成功ではないように思います。

むかしは、7代先を観て物事に取り組んでいくという視点があったといいます。常に300年先を見据えて何をすべきかということを話し合いそれぞれが実践に努めたのです。

持続可能な社會を掲げていてもそれが一向に進まないのは、それは短期的なもので持続可能を観ているからです。本来、持続可能や循環型、そういったものは長い歳月と一人一人の真摯な努力によってはじめて実現するものです。

二宮尊徳にこういう言葉が残っています。

「樹木を植うるや、三十年を経ざれば、則ち材を成さず。宜しく後世のためにこれを植うべし。今日用うるところの材木は則ち前人の植うる所。然らばなんぞ後人のために之を植えざると得ん。」

樹木を植えても三十年は待たないと材量にはならない。だからこそ後で使う人のために今、樹木を植えるのです。今、用いている材料はすべて先人たちが私たちのことを慮り植えてくれたから私たちはそれを使うことができています。その恩恵に感謝する心があるのならなぜ子孫のために植えようとしないのかという解釈です。

私たちは自分のメリットや今さえよければいいと、物事の判断を自分軸のみの物差しで計算して行動しています。しかしこれがもしも後世の人たちや子孫の人たち、先祖への感謝の報恩であればどういう物差しになるでしょうか。

長期的な物差しとは本来、これらの長い時間をかけて持続可能としていた社會の存在を感じて判断していくものなのです。何を計画するにも、その土台や基礎になっている初心や哲学、基本にその思想が入っていなければ決して持続可能の実践にはつながっていかないように私は思います。

二宮尊徳はこうも言います。

「遠くをはかる者は富み近くをはかる者は貧す。それ遠くをはかる者は百年のために杉苗を植う。まして春まきて秋実る物においてをや。ゆえに富有なり。近くをはかる者は春植えて秋実る物をも尚遠しとして植えず。唯眼前の利に迷うてまかずして取りえずして刈り取る事のみ目につく。故に貧窮す」

何が本来の豊かさであるのか、豊かさや富の本質を持続可能の社會ではまったく視座が異なることを私たちは先人の実践から気づく必要があります。

育てるという仕事も本来、長い時間をかけてじっくりと育てるものです。それは土づくり似ていて、何十年もかけて育ててきた土だからこそその中で立派な作物ができてくるのです。人づくりも然り、まちづくりも然りなのです。

自分の代で見返りがなくても、すぐに自分の代で結果がでなくても、本当の意味の子々孫々への思いやりや真心での持続可能に取り組む人たちが未来を変えていくのでしょう。

子どもたちのためにも、周囲の理解が得られなくても覚悟を据えて子どもに必要な伝統や風土、文化を伝承していきたいと思います。