言葉の研鑽

すべての言葉の意味には、その言葉を意味づけて定義づけた人がいます。私たちが現代に使っている言葉もまた、その言葉の意味になるようにしたのは最初にその言葉の意味を広げた人たちや、それを解釈して使った人たちによって変化していきます。

同じ言葉を使っても、その人の解釈次第ではその言葉の意味は全く異なります。だからこそいちいち使っている言葉の意味を定義し、その言葉の本当の意味は何かと深めていくことが最終的には自分というものを形成し、その自分を伝えるための大切な言葉を学ぶことになります。

この言葉は、道具と同じでどのように使うかで価値が異なります。意味を正しく理解して使う人は、言葉を選んで丁寧にその意味の方を語りかけてきます。しかしその言葉を使う人の言葉を直接聞いたとしても、経験や意味が理解できなければ言葉を聞いても理解することはできません。

表面上でわかった気になったとしても、その言葉の重みや深み、その本当の意味は同体験や経験、その人の言葉に対する意味づけの質量で異なるからです。

だからこそ、その人が使っている言葉の意味を理解していくことはその人の背景にある目的や本質を知る事であり、自分の使っている言葉を刷新して本来の意味に定義していくことが自分自身をブラッシュアップさせていくことにもなります。

使い手によって重みが変わり、聞き手によって意味が変わる。

まさに言葉とは、確かに便利な道具のように見えて大変に不便な道具であるのです。

人間の歴史もまた同様に、暗記して覚えたものと実際に伝道や伝承されてきた意味のものとではまったく異なります。言葉は確かに便利ですが、本質を覆い隠すという不便な要素があるのです。

だからこそ言葉の背景を学ぶことや、その言葉の真意を深めること、言葉の定義を決めることが言葉を常に磨き、言葉の本当の価値を高めていき、その言葉がいつまでも真実のままであるように自己研鑽していくことが学問になっていくのでしょう。

言葉を通して私たちは知識を得ますが、智慧は得ません。智慧は言葉と行動と一体になったときにのみ得られるものです。例えば道具はそのものと一体になった時のみ、本物の道具になり道具の使い手もまた道具の一部になっていくのです。言葉も然りで、知行合一に生きる人が使ってのみ本物の言葉になるということでしょう。

本物の言葉を使う人は、本物の人生を生きています。

言葉に翻弄されないように意味を深め、言葉の研鑽を続けていきたいと思います。