看板の甦生

今度、BAの開設にあたり看板を制作することになります。その看板は江戸時代の木製のものを磨き直し甦生させ、アートディレクターがデザインを温故知新したものを後輩と一緒に手作りで魂を籠めて造りこんでいく予定です。

現代では、景観のことをまったく無視したような統一感のない看板が都市部だけではなく田舎にも乱立しています。特に夜になればLEDランプ等でガチャガチャと照らされ風情を感じるものも少なくなってきました。

そもそも看板とは何か、その歴史を含めて深めてみようと思います。

看板の歴史はとても古く、イタリアのポンペイ遺跡や前3000年のバビロン時代に明らかに看板とみられるものが見つかったといわれています。そして日本では大宝律令の開市令に「肆標(いちくらのしるし)」を表示することが定められ、これが看板の始まりとされています。奈良県の長谷寺などへの寺社への参詣客でにぎわった街道に出店した市である「三輪の海拓榴市(つばいち)」に見てとれるそうです。

この時の看板は、何を取り扱うのかを伝えるためのもので屋号などはなかったそうです。むかしは文字が読める人が少なかったので、そのものに関する道具(お酒や味噌を創る道具等)をそのまま看板にしたり、商品そのものの絵を描いて伝えていたといいます。

それに商売的な要素が組み込まれたのは江戸時代に入ってからといわれます。江戸の商工業の発達と共に職種による看板の定型化が進み、それに金箔、蒔絵などを施して豪華さを競い、広告として大金をかけるようになったといいます。

確かに、それまでのシンプルな立て札のようなものから江戸になると急に看板にデザインが入ってくるようになります。そのため一時期は看板は木地に墨字、金具は銅製に限ると幕府が禁令を出すほどに看板は賑わいました。

また京都の町家などでは、格子戸の形状で自らの商売を伝えていたところもあります。炭屋、糸屋、麹屋、米屋などもありました。

看板の種類として多かったのは軒看板で暖簾と同じような目的で、朝晩店を開ける時と閉める時に掛け外しました。特にこの軒看板は古ければ古いほど店の値打ちがあるとされ、永続して信頼されている店舗として大変価値がある店であるとし、ひとつの指標として使われたといいます。

看板の名に恥じないようにや、看板に泥を塗るという言葉があるように、看板とは信用であったという意味もあるように思います。特に年代ものの看板は、それだけ大切に代々看板(生き方)を磨いてきた証だったのかもしれません。

看板の諺では「一枚看板」というものがあります。これは京都・大阪地方の上方歌舞伎には、劇場の前に飾る大きな看板のことを「一枚看板」と呼んだことからきています。江戸では大名題(おおなだい)と呼びました、具体的には、この看板の上部にメインの役者の絵が描かれていたことで歌舞伎などの芝居一座で中心となる人を「一枚看板」と呼ぶようになりました。看板娘というものも、もっとも看板を背負って活躍する人物ということになります。

まだまだ看板は奥が深いのですが、看板には下位概念としての宣伝目的と、上位概念としての生き方の顕現があるように思います。本来の看板は、何を生業にするかという意味と同時に、その看板に相応しい生き方を実践したかということが合致していたのでしょう。

今度、取り組む看板もまた復古創新の「場」に相応しいものにしたいと思っています。子どもたちのために、伝統を伝承して文化を繋いでいきたいと思います。