先駆者の前進

人間は、どのくらいの深さで物事を認識するかでその視座が変わってくるものです。現在、私も異なる分野に進出する中でより深く濃い智慧を持っている人と話をしていると自分の無知を自覚するものです。

自分の無知を理解する人は、勉強不足であることに気づきます。勉強不足があることがわかれば、知らないことを真摯に学び直し、わからないところは信頼する人のアドバイスや指導をいただきます。

無条件に専門家に頼ればいいということではなく、信頼できる仲間を集める必要があるように思います。信頼できる仲間は、親身になって一緒に問題の解決に向けて取り組んでくれます。

無知故に仲間ができ、無知故に成長する動機が産まれます。

知ると知らないの間には、体験という智慧が入ります。体験は、仲間の存在で豊かにもなり楽しくなります。同志や協力者、応援者たちの御蔭でその希望は小さくてもつながり大きく育っていきます。

先駆者は無知との遭遇ばかりを歩み、そこから体験を人々へ語る存在でもあります。先駆的なものはなかなか理解されませんが、時代はその先駆者を追いかけてくるものです。

先駆者の宿命としての大変さは誰もが同じです。試行錯誤は体験の醍醐味ですから、自分の信じる道を仲間たちと共に前進していきたいと思います。

大湯屋建造

近くBAに日本の伝統的なサウナを甦生するために、東大寺を不屈の精神で再建した重源上人の遺した石風呂を深めています。昨日は、山口県で数か所石風呂を見学し、体験し、構造を分析してきました。

先日、フィンランドのスモークサウナで体験したような同じ柔らかい温かさがありましたが800年前の人々の安らぎとつながった感覚があり有難く不思議な気持ちを味わうことができました。

この重源上人は、日本大百科全書によれば「鎌倉初期の浄土宗の僧。俊乗房(しゅんじょうぼう)と号する。紀季重(きのすえしげ)の子で、重定(しげさだ)と称した。1133年(長承2)醍醐寺(だいごじ)で出家し、密教を学ぶ。また高野山(こうやさん)に登り、法然(ほうねん)(源空)に就いて浄土教を研究するとともに、大峯(おおみね)、熊野、御嶽(おんたけ)、葛城(かつらぎ)など深山幽谷を跋渉(ばっしょう)して修行した。1167年(仁安2)入宋(にっそう)、栄西(えいさい)とともに天台山に登り、浄土五祖像を請来(しょうらい)する。1181年(養和1)造東大寺大勧進(ぞうとうだいじだいかんじん)職となり、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と号し、広く諸国を勧化(かんげ)して、建永(けんえい)元年6月5日に86歳で没するまで、平氏焼討ち後の東大寺復興の造営にあたった。その間、再三にわたり入宋するとともに、1191年(建久2)には法然を東大寺に招き、南都諸宗の学匠に浄土三部経の講義を開いたという。また周防(すおう)(山口県)阿弥陀寺、播磨(はりま)(兵庫県)浄土寺、伊賀(三重県)新大仏寺をはじめ、各地に堂宇を建立するとともに、備前(びぜん)(岡山県)の船坂山を開き、播磨の魚住泊(うおずみのとまり)の修築、摂津(大阪府)渡辺橋・長柄(ながら)橋などの架橋、河内(かわち)(大阪府)狭山(さやま)池の改修、湯屋(ゆや)の勧進を行うなど、西大寺(さいだいじ)の叡尊(えいぞん)、極楽寺(ごくらくじ)の忍性(にんしょう)に劣らず社会救済事業に尽くした。」と紹介されています。

社会救済事業に生涯を懸けて取り組み、その遺徳が800年後の私たちにまで届いているのですから如何に偉大な思想を持った人物であったかがここからわかります。

私が今回、取り組むサウナにはこの重源上人の理念に共感して取り組んいます。この当時は、建設に従事する人たちが心穏やかに大仏殿を復興できるように人々の労をねぎらい、病や傷を癒す目的もあって湯屋をつくったとあります。

そもそも何のために復興するのか、復興とは何かと理念や本質を追求し決して結果だけを目的に歩んでいたのではないことがわかります。不屈の精神で取り組んでいくなかで、現実の矛盾や境界線を超えて、人々がお互いに心の平安を持つことができることを信じて具体的な形を示していきました。

「人々の心を癒し、そして穢れを祓う。」

私が今回、取り組んでいる復古起新のサウナもまたこの理念によって執り行う覚悟が決まりました。本日は、100年前の鉄の羽釜が神奈川から届き、今週は樽を佐賀まで見に行きます。

病気が増えに増えて、こんなに人々が病に傾いた現状を重源上人が生きていたらどう感じたでしょうか。その当時の予防医学は今よりも洗練されていたことを私は重源上人の石風呂で実感しました。

時代の過渡期に、人々の心を癒し穢れを祓う大湯屋建造に覚悟で取り組んでいきたいと思います。

 

成長の糧

人は失敗を体験して強くなっていきます。この失敗とは、成功か失敗かの意味での失敗ではなく成長するための大切な養分であるとも言えます。

本田宗一郎が「失敗を恐れるよりも何もしないことを恐れよ」とありますが、失敗の本質を語っています。成長というのは、日々に必要なことです。私たちはいのちを使い、そのいのちを何のために活かすのかと自問自答しながら歩んでいくときいのちの充実していくのを感じます。

いのちの充実は、目的意識を持っていけばいくほどに明瞭になってきてその分、五感も感情も感性も研ぎ澄まされていきます。

洗練されていけばいくほどに、いのちは錬磨され輝きを増していくのです。不思議なことですが、成長するというのは、いのちが輝くような日々を味わっていくことを言います。

失敗はそういう意味では、成長の最大の糧であるのは間違いありません。

ただ、失敗をするというのを好んで行う人はあまり多くはありません。なぜなら、転んで怪我をして立ち上がるのは容易なことではないからです。失敗と苦労はセットであり、痛みや不安や恐怖を伴います。

それでも目的のためにと邁進していくには勇気が必要です。

私は今年の一文字は、勇敢の「敢」にしました。この敢えてというのは、障害があってもそれに耐えて事をまっとうする意味になるといいます。道理を思えば今まではしなかったものでも目的のためなら敢えて取り組むという決意と勇気の言葉です。

失敗をするのは多くの人たちにも迷惑をかけます、しかしその分、それを取り返すために多くの挑戦をして成長し見守ってくださった方々のために恩返しをするのです。

最後に本田宗一郎の言葉です。

「私がやった仕事で本当に成功したものは、全体のわずか1%にすぎない。99%は失敗の連続であった。その実を結んだ1%の成功が現在の私である。その失敗の陰に、迷惑をかけた人達のことを私は決して忘れないだろう。」

それでも敢えてやりたいことに本気に取り組むことで、信念を高め生き方を子どもたちに表現していき譲り遺していきたいと思います。

生き方の発信

現在、様々な技術革新によって人類は新たな扉を開こうとしています。私たちはそれを進化と呼びますが、物事は観方によってはそれは果たして本当に進化であったのかというものもあります。

例えば、縄文時代という時代は非常に平和な時代が続き持続可能な生活を維持してきたことが遺跡から洞察されています。また飛鳥時代なども、職人たちの建造物からその時代の人たちの心豊かな暮らしが洞察されています。物がなく、科学技術も進んでいなかった時代は果たして進化ではないのかと思うと考えさせられるものがあります。

人類においての洗練というのは、決して技術革新だけを言うのではありません。人類の洗練とは、敢えて技術革新しないという選択もあるのではないかと私は思うのです。

自然循環が余計なことを邪魔しないように、私たちも余計な邪魔をせずに暮らしていく。如何に、長くこの地球で暮らしていくのかを思う時、果たしてこの科学技術ばかりを追い求めていくことが人類の洗練なのだろうかと疑問に思うのです。

人類が洗練されていくというのは、目には観えない世界をもちゃんと自覚して自律して協力し合っていく社會を築くことではないかと私は思うのです。それは、自分自身がよりよく生きていきながら周囲への思いやりを忘れないでいのちを輝かせて生きていくこと

心安らかに、与えられた場所で自然と一体になって暮らしを営んでいくこと。人類は、何度も何度も同じ課題を向き合い、結局は縄文時代のような生活に回帰するのではないかと私は思うのです。

知識が増えて言葉が増えていくことが果たして進化と呼ぶものなのか。かえって言葉がなく知識がない方が眼に見えない偉大な存在をみんなが感じ取って仕合せに豊かさを築き上げていたかもしれません。

現代に生まれた私たちがそれに憧れないのは、もう環境が変わってしまったからかもしれません。気候変動が如実に目に見えてくればくるほどにきっと私たち人類は、何が洗練された人類なのかということと向き合う日が必ず訪れます。

子どもたちが末永く平和で仕合せでいるために、大人が選択して決断しなければならない日もまた必ず訪れます。今は、時代の過渡期ですからどこまで通用するかわかりませんが、自分の生き方で世の中に生き方の発信を続けていきたいと思います。

カグヤの実践

昨日、新宿の本社に来客があり社内を案内していきました。社内には、創業以来の様々な実践の結果があり、それを一つ一つ説明していくとなぜ今、こうなったのかという理論がすべて明確に説明ができます。

またこれは自然農の田んぼや、福岡の聴福庵、そしてBAに至るまで何かを聴かれればすべて明確にその意味や理由、またなぜ今こうなっているのかという結果を語れます。

これは私がすべて実践に基づいた経験を智慧にまで磨き、真実を正直に語るからできるとも言えます。思い返せば、試行錯誤しながら子どものために何がもっとも価値があり意味があるのかと生き方を見つめ、それを仕組みや形にしていこうとしてきたからかもしれません。

生き方を優先するのは理念があるからですが、理念が必要なのはそれは子どもの仕事に取り組むからです。自分の都合で子どもを利用するのではなく、本来の目的のために子どもを主語にして自分たちの在り方を見つめて変えていく。

こういった実践の日々は、すべて理念に基づくものであり結果として顕れているものはすべてそれに取り組んできた努力の結晶とも言えます。

これが、現在の世の中では必要になり始め多くの人たちにその智慧や仕組みや改善を提案していくようになりました。ここまで来るのには多くの試練や葛藤があり、新しい常識を創り上げていくのには働く人たちみんなの真摯で誠実な試行錯誤の実験があったことは間違いありません。

理念を決め、正直に取り組むというのはそこには誠があります。

誠は真ですから、実ったものは本物です。

これからいよいよ展開が大きくなってきますが、地味に実直にやっていくことは今までと変わることはありません。子どもの憧れる会社、社會を実現するために誠実に真実に取り組んでいきたいと思います。

心の平和

人間は、様々な体験を経て人生を創造していくことができます。どのような濃密な体験をするか、言い換えれば如何に今を充実して生きるかは、心の持ち方次第とも言えます。

この心の持ち方は、何のために生きるのかという問いからはじまる生き方で決まります。生き方とは、人生の在り方であり、自分の存在理由のことです。

日々に忙しくなってくると、目先のことや周囲の些事に心を奪われていくものです。心が奪われて心を亡くせば心を手放してしまうものです。

そうならないためには、日々に反省し、自分の心はどこに在るのかを確認し続けなければなりません。

自分自身の心を見つめることができる人は、心の在りようが如何に人生に大きな影響を与えるかを自覚しています。心の在りようを確認するには、常に心がどのように活動しているか、今、どのように感じて、何を学んでいて何をやりたいと思ったのかと常にその動きを捉え続けて見失わないようにしていかなければなりません。

心が何処にいったのかわからなくなるから人間は迷い惑い、ブレてしまいます。大きく揺れても、自分の心の在りかさえ見失分ければ自分に与えられた天分を発揮するためにまた今に集中していくことができるのです。

今の時代、心を向き合う時間や空間、場が少なくなってきています。夜空を見上げる時間もなく、そのような満天の星空が観える場所は都会にはありません。そして静かで穏やかな時が流れる空間、また自然物と自然循環と合致していくような暮らしの時も失われています。

人間が本来、生きていくのに絶対的に不可欠な心と一緒に過ごす時間を持てないというのはとても悲しいことです。宗教者や教育者において、平和はそれぞれが常に願うところであるはずです。なぜなら人類を戦争などに導きたいはずはないからです。

だとしたら「心の平和」は、何よりも優先すべき実践項目です。心の平和が広がり、子どもたちの未来に豊かな人生が推譲していけるように日々の内省を味わいながら心の仕事に取り組んでいきたいと思います。

自分をよく見つめ直す

人間は誰しも自分の思い込みといった観念に縛られて生きてしまうものです。それを価値観とも言いますが、その価値観だけで世界を満たしてしまうと真実が観えなくなってしまうことがあります。

本当のことは何か、何のためにそれをやるのかと常に自問自答して本質的に生きる人は自分の価値観によって真実が歪んでいることに気づきやすいように思います。また何かに没頭したり、集中していくタイプであればあるほどに自分の世界観だけに浸ってしまうこともあるように思います。

私もどちらかというと何かに集中してゾーンに入ると、周囲が観えなくなるほどに没頭していきます。その時は、周りは見えていませんから多くの方々にご迷惑をかけてしまうことがあります。自分の観えている世界に近づけようと努力するあまり、周囲への気配りができなくなるのです。だからこそ、自分が迷惑をかけている自覚を常に意識しできる限り周囲を信頼し、他人のアドバイスに耳を傾けたり助けてもらったりを心がけています。

すぐに他人に尋ねるのも、自分の思い込みや決めつけではないか、何か気づかない観点があるのではないか、そして自分が間違っていないかと確かめながら慎重に自分の世界観だけに浸らないようにと気を付けているのです。

人間は見ている場所や、立ち位置、そして長さや置かれている状況、等々によって観えるものは異なります。多面的に観たり、長期的に観たり、全体的に観たりすることで観え方も千差万別です。

そうやってあらゆる角度からその物事を観て深めていくといつかはその真実にたどり着きます。真実は、自分を含めてどう観えていたかということに気づき、そのものは一体何だったのかということを理解するのです。

そうすると、間違いが少なくなり、みんなと協力し合い物事に取り組んでいくことができるようになります。それが理念ともいい、初心ともいい、原点ともいい、本質ともいいます。

私は本質的にどうかにこだわるタイプのようで、そのために日々に内省し、内省したことで本当は何だったのかということを掘り下げていきます。自分自身の手入れを怠ると人間はすぐにここから離れていきます。

自分を過信せず、謙虚に自然に照らして修正していくことは、自分を知ることであり、自分を磨くことです。もっとも身近な自分を大切にするというのは、自分がどのような人間で、自分が何を信じ、何を求め、何に生きたいか、その生きたいことに対して今どうなっているのかを確認していくことです。

人間は、本質や理念があれば不平不満がなくなってきます。むしろ、今に集中し、今が充実していきますから外的要因は次第になくなり自分自身が精進していけばいいという現実の課題のみになっていきます。

自分というものとの付き合いができるようになって自立であり、迷惑をかけている自覚を持ち感謝で生きることができるようになっての自律です。協力はまさに自立や自律をするために最善の取り組みであり、社會は人間を育てるためにも必要なのです。

子どもたちにためにも、理念や初心を砥石にして自己の生き方を磨いていきたいと思います。

信を用いる

人は、どのような人を信用するかと深めると裏表がないいつも本心をさらけ出し本当のことを言ってくれる人を信じるように思います。なぜなら、真実や本当のことには嘘がなく、嘘をつく必要もなく、ありのままであるがままで自然体で接することができるからです。

何があろうがなかろうが常にいつもと変わらずに誠実に接してくれる人を人は信用します。それはその人は、別に相手に合わせて自分のスタンスを変えているのではなく、まさに自分の生き方そのままを貫き、その生き方のまま接してくれるからです。

そう思うと、信用される人というのは生き方を持っていてそれを貫いている人ということになります。そういう人は、自分に対しての嘘も不必要であり、本質や本心のままに日々に生きていくことを正直に取り組んでいきます。

武者小路実篤がこういう言葉を遺しています。

「僕が信用する人はどんな時でも、本音のあり場所を示す人だ。本当のことがわからない時は、わからないとはっきり言える人だ。」

本音のあり場所とは、自分を偽らないで本心をそのままさらけ出せる人ということです。そしてその自分の本心が分からないから教えてほしいと言える人もまた、自分を偽らないで本当の自分の心をさらけ出しています。

自分の心を見失っているのならそれを教えてほしいと素直に言える人、また自分の本音を知ってもらったうえで謙虚に人の助言を受けようとする人。そういう人は人から信用されます。

人から信用される人は、自分のことも信用できます。つまり信用する人や信用される人とは、自分の本心を大切に生きようと努力している人ということになります。自他に誠実な人は、自分の本心を偽りません。自他の本心を尊重し合う関係の中にこそ、お互いの信があります。この信の語源は、神様に誓う言葉であり、誠を顕す言葉です。

自分の本音や本心を偽りながら語る人の言葉は力がなく、その人の言葉を聴いても力になってあげられることもありません。本当にその人の信が覚悟がりできるのなら、応援するためにあらゆる助言や助力を信用できる人たちは惜しむことがありません。

人生の大切な節目は、自他に正直であること、自分の本心を大切にすること、自他を信頼することで自分の道が導かれていくものです。

子どもの憧れるような生き方を、実践を積み重ねていきたいと思います。

聴く力

人は話を聴くことによって、本当のことがわかります。しかしその聴くには、素直な心がなければ本当の意味で聴いているわけではないことはすぐにわかります。自分の都合の悪いことを聴きたくないという気持ちがどこかにあれば、聴き方もまた自分の都合に合わせて聴いているからです。

また自分が聴きたいことを想いながら聴いていたらそのことしか聴こうとしていないからです。無意識ですが、人間は自分にとってどうかという聴き方しかしないものです。それを素直に聴くには、色々な聴く力が必要になります。

例えば、対立するものを超えて調和しようとして聴くことだったり、すべての真実をあるがままに受け容れるときに聴くことだったり、利害損得を超えて偉大なことを教えていただいているという気持ちで聴くことであったり、耳が痛いことを言ってくださってでも大切なことを学ばせてもらっていると聴くことであったりと、人は心が素直で謙虚でなければ聴く力は磨かれていきません。

人の話が聴けるというのは、それだけ人間的に生き方を磨いて清らかな心を高めてきた人だからこそ素直に聴けるということでもあります。

自分の想い通りにならないことを聴きたくないから人は視野が狭くなってきます。視野が狭くなればなるほどに人の話が素直に聴くことができません。視野が狭いというのは、それだけ自分しか見えていない状態に陥っているということです。盲目に自分の信じることだけで他の一切は遮断するとなってしまえば、周囲の方々に多大な迷惑をかけてしまいます。

本来は、みんなで迷惑をかけ合って生きるのが人間ですからお互いにそれを理解し合い協力し助け合うことで視野は広がっていくものです。そもそも視野が狭いという言葉があっても、聴野が狭いという言葉はありません。

聴く力というものは、謙虚で低姿勢、周囲を尊重する心が磨かれて伸びていくチカラです。自分の方を高いところにおき、自分の考えが正しいと決めつけ、他人の話に素直に耳を傾けなくなっているという時こそが視野をさらに狭め、自分のことばかりを優先して省みることがなくなっているとも言えます。

省みるというのは、反省するということです。視野が狭くなる時はあっても、自分は周囲に感謝してきたか、みんなのお陰様を如何にいただいてきたか、自分のことを許し導いてくださったかと思っていけば、素直な心を少しずつ取り戻していき他人の話に耳を傾けることができるようになります。

私が大切にしている生き方の一つに、「聴福人」がありますがこれは一円観という二宮尊徳の生き方を参考にして編み出したもので、対立するすべてを一つの円の中に受け容れて聴くという境地のことです。

自分を中心にではなく、万物一体全の中であるがままの素直な心で受け容れてみること。そして、素直な心でよく反省しその意味や示唆するところを謙虚に学び続けることです。

人間の本当の失敗は、誰の意見にも耳を傾けず独善的になって自分のみが正しいと決めつけて周囲への思いやりを忘れてしまうことかもしれません。人間は失敗し学ぶからこそ、よく反省し、自分が視野が狭くなっていないかと自己チェックをするためにも、初心や理念を拠り所にして自反慎独を積み重ねていくしかありません。

聴くことで心を磨き、子どもたちの未来に尽力していきたいと思います。

徳を積むこと

情報化社会になってきている理由を深めると、それは信じるということが希薄になってきている社会になっているとも言えるように思います。信じるというものは、何を信じるか。それは徳を信じる世の中とも言えます。

それぞれの持って生まれてきた徳性によって、それぞれの持ち味を活かしあうことができれば一切の無駄もなく一切の比較もなく、お互いのいのちを存分に発揮しあい魂の徳を磨いて幸福な一生を送ることができます。

人間が何のために生まれてきたのか、そして何のために生きるのかという問いすらも忘れ、目の前の評価や目先の損得、目に見えるものだけを頼りにしていけばいくほどに信じる世界は遠ざかっていくように思います。

この信じるというものもまた、徳を信じることであり、徳を積む世界に自分の身を置くということでもあります。本来は捨てるものなどはこの世に一切なく、すべて拾って甦生させていくときその徳が見えてきます。

私が徳の見える可をするのは、決して周りを変えようとするためではなくそもそも徳は拾い甦生させると勝手に見えてしまうだけなのです。世の中でまだ使えるものを拾うのはケチなのではありません。それはその持ち味があるものをもっと引き出せると信じるからです。引き出すには甦生する見立ての力と、いのちを勿体ない存在であると自分自身の生き方が変わっている必要があります。

徳の世に生きる人は、それが観え、得の世に生きる人にはそれが見えないだけなのです。まず徳の世に転換するには、生き方を転換する勇気と実践が必要になります。

本田宗一郎にこういう言葉が遺っています。

「人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。」

人間本来の目的を本田宗一郎も生きたのかもしれません。

最後に二宮尊徳の道歌をいくつか紹介します。

「何事も事足り過ぎて事足らず 徳に報ゆる道の見えねば」

(人間の不足不満は、徳に報いる道が見えていないだけなのです。)

掃き捨つるちりだに積めばおのづから竹の子等までみなふとるらん」

(みんなが捨てたものでもかき集め甦生させればタケノコまでも甦る。)

そして私の一番好きな道歌であり、今の私の生き方をすべて顕すものです。

「むかしより人のすてさるなきものをひろひあつめて民にあたへん」

(私は、みんなが不要だと捨ててきたものを拾い集めてその徳を甦生しみんなに与えてきただけなのです。)

私の徳積みへの覚悟は、この一点に由ります。心田の荒蕪を耕し、人々が本来のいのちを全うし仕合せな世の中を築き上げられるように今の時代の仕組みの中で徳を磨いて徳を顕現させていきたいと思います。