想定外の意味

人生は生きていると様々な世界的な災害や出来事に遭遇します。歴史が証明するように人類は、何度も同様な危険に出会い、命懸けで乗り越えてきた子孫が私たちということです。

先人たちは、その時々にその禍いに真摯に向き合い多くの犠牲者が出る中で福に転じて子孫たちに教訓や支援、智慧を授けていきました。それが様々な暮らしの伝承の中に息づいていますし、私たちの遺伝子や本能の中に刻まれてもいます。

しかし喉元過ぎれば熱さを忘れるように、私たちは先人たちの学んだことをすぐに忘れてしまいます。当たり前の生活が当たり前になってしまうのは、それだけ忘れてしまっているということです。

忘れない仕組みというものが、本来はもっとも伝承において必要なことです。忘れないために暮らしを工夫してきたともいっても過言ではありません。津波であれば、石碑や口伝を通して生き残るための教訓を与えました。それを忘れないように、常に暮らしの一部に組み込んでみんなに知れ渡るようにしていきました。

それも時代が変われば、石碑を移動させ、口伝もやめてしまいみんながわからなくなってきたところでまた津波が来ます。犠牲者が出て、それを忘れないようにするには残された人たちがそこからの意味や教訓を守ってこそできるものです。

私たちが先祖を大切にするのは、先祖が人生を懸けて子孫のために人生を使って遺してくれたもの、伝えてくれたものが自分の体内に存在しているからでもあります。この身体の一つ一つもまた、先祖が磨き上げてきた一部です。そういうものを分けていただき生きているのだから、私たちはその意味を深め、自分を大切にすることで先祖の願いや祈りも大切に守っていくことができるように思います。

現在、新型コロナウイルスの感染がはじまり大きな禍が降り注ぎ始めています。過去にも似たようなものではスペイン風邪や、インフルエンザで犠牲になりました。想定外だからという理由で無為無策で行政や国家に頼り切ったり、もしくは誰かのニュースに踊らされるのではなく、自ら想定外と向き合い現実を直視し、自らで事実を集め歴史に学び、最善を盡していくしかありません。

そうやって生き延びるたびに、先人たちのことを思い出し、その子孫への徳の推譲に感謝の思いが湧いてきます。先人や先祖に報いるためにも、真摯に子どもたちのいのちを守っていきたいと思います。

いい仕事

先日、新潟で「えにし屋」を主宰する清水義晴さんにお会いしてお話をお聴きする機会がありました。透き通る感性と、先見の明、また福祉の原点をお持ちの方でいつも大きな学びをいただいております。

まさに魂のままの方というか、自分の魂に従ってそのまま素直に物事の本質を観続けてこられたのではないかという感じをいつもお受けします。私たちは何を観続けるかで、物事の審美眼というか本物を見極める能力を磨いていくことができます。

私の知る求道者は皆、同様に真実をみつめ物事の本質を研ぎ澄ませます。それはその人の語る言葉や文章から出てくるものです。その清水義晴様から、「一行詩」の中の一つをご紹介いただきましたのでこのブログでご紹介したいと思います。

「いい仕事」

「いい仕事をしたら それだけで報われている 仕事自体が報酬だ 報酬がなくとも 報われないかたちで報われている はじめから報いを求めていないのだから それでいいのだ いい仕事をしたい ただそれだけなのだ」 (一行詩 清水義晴)

人は報われることで仕合せを感じるものです。しかしその報われるものを何にするかでその人の目指したものが決まっていきます。ある人は目先の利益が出れば報われたといい、またある人は、目標が達成したら報われたともいいます。他にも、徳を積むことができることを報われるとする人もいれば、報われないことで報われているという人もいます。つまりは、何をもって報われるかの中にその人の生き方や生き様が入っているということでしょう。

存在そのものが報われていると思っている人は、感謝を生きる人です。そして何かの報酬を期待せずにただ純粋に初心や目的をもって生きている人はそれが何よりの報酬だと感じているのです。

二宮尊徳がかつてその生き方の理念に「報徳」つまり「万物にはすべて徳があり、その徳に報いる」という言い方を遺しました。この徳に報いる生き方をしていることこそが、まさに報酬であると。

今回の清水義晴様の一行詩に、同様な感銘を受けました。

私たちはどう生きるのかは自分で決めることができます。自分を生きるというのは、まさに与えられた自分の徳を活かすことに努力を惜しまないということでしょう。それは言い換えるのなら「いい仕事をしたい」という言葉でもいいのかもしれません。

自分自身を磨くことが徳を高め、徳を積むことにつながります。子どもたちに希望を紡いでいけるようにこれからもいい仕事をしていきたいと思います。

理想と現実

人は生き様を見ることによって、その人が何に信念をもって何を大切にして日々のいのちを使っているかを垣間見ることができます。それを何らかの形になっているものを見て、一つのメソッドやノウハウと感じる人もいますが実際にはそれは方法論ではありません。それは生き様ですから生き方であり哲学なのです。

私が今まで出会ったメンターや師はみんなそれぞれに人生の哲学をもって生き方を磨き偉大な生き様をみせていただきました。私が憧れるのは、その人生の哲学に触れたことでありそれを拝見できる具体的な現場に触れる機会があったからです。

世の中には、ノウハウ本はたくさん出ていますが実際にはそのノウハウ本の通りやれば生き様まで模したことにはなりません。やはりそこには、道に入るというか、同じ道を辿るというか、道を歩むというように一緒に道を究めるような生き様が求められます。

つまり近づくために大切なのは、どのような哲学を持ち、どのような生き方をし、どのような生き様にしていくかという実践からそれぞれに理想を紡ぎだすことです。

理想とは、現実の反対にあるものではありません。現実と理想は常に表裏一体であり、理想が現実であり現実こそが理想なのです。つまり理想にたどり着くために現実を積み重ね、現実を積み重ねることで理想を手繰り寄せるのです。現在の取り組みそのものが何の理想になるか、そして現実の取り組みが何の理想を実現しようとしているのか。

常にそ両方の間には、生き方や生き様が介在し、そこに哲学が存在しているのです。私たちは自分自身を追求していく旅路の中で、哲学に出会い、その哲学がさらに自分自身を導き本当の自分といいう存在に出会います。本当の自分に出会うためにも、人は求めているものに向かって探し続けていくのです。

私は出会いの哲学を持つ一人であり、一期一会を座右にしています。その瞬間に出会うご縁の中に、哲学があると信じるものです。そしてその一期一会には、単なる出会いだけではなく人間愛があり、自然と自分というものが混然としています。混然としたものだからノウハウにはならず、メソッドにもなりません。まるでこのブログの文章のようです。

しかしそこには哲学があり、生き様があり生き方があり、今の暮らしがあります。その暮らしの理想を象ることで哲学を表現することはできます。子どもたちのためにも、自分の生き様や生き方、哲学が未来のいのちに伝承されさらに豪壮になり発展していけるように自らの修養鍛錬と実践を大切にしていきたいと思います。

人類の課題

新型コロナウイルスの影響でデマをはじめ様々な情報が飛び交っています。そもそも情報が本当かどうかは、自分が現地で自分の五感をフル動員して事実を直視し確かめなければ真実はわかりません。

あくまで情報だけが走ってきても、実際の事実と乖離していることがほとんどだからです。さらに現代は、その事実や真実の情報ということを確かめるよりも上辺の理解の仕方ばかりが議論されるのでさらにデマは発生しやすくなっていきます。

デマに流されないためには、自分自身で深めたり調査して判断していくしかありません。ではどのようにそれを確かめていくかといえば、自然の摂理に照らしたり、過去の歴史から学び直したり、自分の直観と創造力と本質を働かせたりしながら深めていくのです。

例えば、今回のウイルスでいえば過去に人類は何度もパンデミックの流行を体験していますからそれを調べていくところからはじまります。歴史に学ぶということです。どのように流行し、どのように収束したか、その時、人類にどのようなことが起きたのか、そして先人たちはどのような智慧で乗り越えてきたのかと調べていきます。

それぞれの国にはそれぞれのやり方があるように、多種多様なその対応策は存在しています。私たちの日本は、ウイルスを敵視するのではなく如何に共存共栄するかということを考えてきました。それは日々の暮らしの中で、排除するのではなく自己免疫を高め、発酵食品を摂取し、自然を取り込み、人口の密集を避けたり、心身の調和に努めていった記録があります。

もちろん対処療法も必要ですし、薬も必要でよくあるどちらかに偏ることはいいと思っていません。根本的な問題の解決と、その時々の対処的な問題は両方バランスよく取り組んでいく必要があります。

しかし実際には、対処的なものばかりが取り上げられほとんど根源的なものは見向きもされなくなってきています。時間がかかるものは効果がないと信じ込まされ、短期的に結果が出るものばかりが真実であるように思いこまされてきています。物事には必ず長短があり、その両方で事実になりますから先人たちはそれを智慧と知識で取り組んできました。

このようなウイルスの蔓延は、気候変動と環境の変化に因るものです。畑の虫たちのように温度が少しでも例年と異なれば出てくる虫も繁殖する菌も異なってきます。さらに、太陽や風向き、水の量などによってもその時々に繁茂したり天敵が現われて急速に死滅してしまうこともあります。自然は常に調和に働きますから、人類もまた調和の影響を受けていきます。

如何に世界全体で自然界の仕組みを理解し、謙虚に分相応に人類をみんなでコントロールしていくか。これから一つになる世界ではこの課題は必ず素通りできない課題です。そしてそれは誰か一人でやることではなく、人類がみんなで協力し合って自然調和、全体快適のために分を弁えていくために努力していくしかありません。

すでに先人たちが過去の歴史で実現してきたように、自然の利子で生きていく暮らし方や、自然の循環を邪魔せずかえって喜ばすような暮らし方をしていくことなど、改めてその智慧を見直す必要があるように私は思います。

人類は反省の歴史でもあります。

このような機会をどう捉えるかで、この先の子どもたちの未来が変わっていきます。今を生きる私たちにできることは何か、常にご縁と正対しながら最善を盡していきたいと思います。

暮らしの全体最適

新型コロナウイルスが国内でも感染が拡がってきましたが他人事のようにするわけにはいきません。生きていれば、人間は様々な出来事が発生してきます。前回の大震災やメルトダウンからの放射能、それに貿易戦争など世界は常に何か異常な事態が定期的に発生します。危機感として、そのような時にどのように振る舞うか。そこに生き方や会社の理念が試されていきます。

今回の新型コロナウイルスは、風邪を引き起こすものの一種です。このコロナウイルスが発見されたのは60年前です。実際には8000年くらい前から存在するウイルスで宿主を鳥やコオモリなどの中で変異しながら生き続けてきました。

ウイルスの歴史は40億年とも言われます。人類はまだ20万年くらいといわれますが、本来は私たちの身体はウイルスと微生物から生成されています。現在、私たちの体の中に存在するウイルスもまた過去にパンデミックを起こしたものもいます。それが大人しく共生できているのは、過去にウイルスと対峙し、お互いに歩み寄り和合として共存する道を選んだからです。

それが免疫が下がることによって日和見だったものが攻撃してくることもあります。人体はまさに調和の原点であり、世界のバランスもまた人体のバランスと同じようにウイルスが調整しているとも言えます。人類の天敵は人類ですが、その天敵を司るものはウイルスなのかもしれません。そして人類はこれからもずっとこのウイルスとの共存共栄との宿命を抱えているのです。

いくら除菌、殺菌しても全部を防ぎきる事はありません。どこかで変異して発生したウイルスをどう取り込み無害化させていくのか。これはウイルスを宿す私たちの永遠のテーマなのでしょう。

如何に悪さをしないように接していくか、如何に人体にあまり害が出ないようにコントロールしていくか。それが免疫を向上させることであったり、生活習慣を見直すことだったりします。生活リズムなども考えて、日ごろからウイルスと共生できるような暮らしを実現させていく必要があります。そして正しい知識で、そういう危険や危機に主体的に取り組む感性も磨く必要があります。

つまり当たり前ですが「生きる力」(生き残る力でもいい)を養うということです。

自分が主体的に生きるというのは、自分の頭で考えて自分で判断できるように他人の情報を鵜呑みにせずに自分の五感や六感を使って、現実を突き止め、現実と向き合い、具体的な対応をしていくということです。その上で、如何に油断せずに日々の暮らしを整えて危機に対応する能力を高め感性を研ぎ澄ませていくかということ。

いのちを守るために流されずに真摯に向き合うことが、永遠のテーマに正対する姿勢であろうと思います。

私たちは子どもの憧れる会社を目指すからこそ、本当に大切なことを優先できるようにこの機会を転じて暮らしの全体最適に取り組んでいきたいと思います。

風雅風流の雛人形

先日、聴福庵ではじめて雛人形を飾りお祀りすることができました。今回の雛人形は大阪の藤井寺の数寄道の師、佐藤禎三さんが個人でボランティアで雛人形を飾りお祀りしていたものをお借りしたものです。

佐藤禎三さんは茶道、華道、書画、詩吟、陶芸、料理、骨董に精通する希代の数奇者で有名な方です。最初にお会いした時に、守破離のお話をお聴きし、伝統を守る心と、遊び心、つまり本物の風流とは何かということの意味を学ばせていただきました。

また物を大切にすること、勿体ないということの意味、その物をどうすれば大切に飾り祀れるかということの要諦も生き方から学ばせていただいています。

佐藤禎三さんの雛人形の配置は、まさに和合しておりどのものも適切な場所に、そして全体最適な場所に配慮されておりそれぞれが主人公としてイキイキとしています。またお庭の剪定もご自分でされ、数々の旬の花々のしつらえにはうっとりします。流し雛を拝見したときは、遊び心やその物語や歴史の背景からの創造性には私の子どもの心もくすぶられました。まさに、見立てることと遊び心が調和した美事な空間を演出しておられました。

まさに風流を好む人は、これだけの数寄を総合芸術のように演出するのかと感動することばかりでした。一つの道を究めることは、多くの道を究めることでもあります。そしてその道は、すべてに通じていて和合するのでしょう。

今回、雛人形をお借りしてみて如何に配置することや組み合わせること、仕舞うことの意味などを改めて学び直しています。

引き続き、雛人形のご縁から風雅風流の意味を深めていきたいと思います。

 

人生の質

人間は受け手の力で物事をどのようにでも解釈することができる生き物です。受け手の感受性というのは、その人の生き方に出てきます。物事が発生するとき、ある人はそれを被害として受け取る人、またある人はそれを感謝で受け取る人、そのように受け手の力次第で物事は全くの捉え方ができてきます。

ご縁を活かす人というのは、この物事の受け取り方が洗練されているように思うのです。ご縁というものの捉え方、そのご縁の感じ方こそが人生をよりよく豊かに生きていくための要諦のように思います。

そしてこのご縁は、自分というものがどのようなことを望んでいるか、自分自身がどのように感じたいのかという自分を知るための道筋でもあります。自分を知り、自分を正していくというのはこの物事の受け取り方を修繕していくことに似ています。

日々に感じ方を見直し、自分の心に照らして修正をし続ける人は自分の人生をよりよく豊かにしていく実践をしている人ということです。毎回毎回、朝起きれば新しい一日がはじまります。その一日を常に初心に照らして新しく味わい続ける人は、どのようなご縁も活かす人になっていきます。

人生の質は、日々のこのご縁を感じる力、ご縁を活かす力、ご縁を味わう力が決め手になるように思います。

どのような日々も、二度とない日々ですし一回きりの大切なご縁ですから自分との出会いを大切に自分とのご縁を真摯に結び合って紡いでいきたいと思います。

人類の初心~思いやりの実践~

人生の中で「思いやり」というものが大切なことはそれぞれが分かっているものです。それは人の優しさやあたたかさを実感するときにより深く理解するものです。この思いやりの感覚は、人類は原始時代からありみんなで助け合って暮らしてきましたから太古の昔から思いやりのある民族は永続してきたように思います。

逆に思いやりがなくなれば、殺し合いや奪い合いになりそれらの民族は早く滅びてしまいます。人類が生存可能で持続可能な社會を維持していくには、この思いやりは絶対に不可欠な道徳の要であることはすぐにわかります。

思いやりをどうやって自然に持つのか、思いやりがどのように発揮される社会にするのか、それは幼少期からの愛情豊かなあたたかい社会や見守り合いの体験によって習得していくようにも思います。

生きていく上で必要な能力は、誰が教えなくても最初から私たちは備わっています。しかしそれをどう発揮させていくかの智慧は伝承や環境によって後から身についていきます。だからこそ、保育や教育は大切で人類は如何にその徳性を伸ばしていくかを学び、より善い社会が実現していけるように平和を学び修身修養を積んできたように思います。

しかし思いやりを教えるというのは、学校の教科書のように正しいからと押し付けてもそれは身に着けられるものではありません。思いやりは単なる正解ではなく、テストや偏差値ではないからです。思いやりを教えるのは、思いやりを持った人たちの生き方によってしか教えることができないからです。

優しさ、親切、心の豊かさのようなものは自分の生き方が決めていきます。自分自身がどのような生き方を心がけていくか、その生き方が周囲への模範になり真似したいと思われるような存在になっていくのです。

しかし、現代は無理に正解を押し付けてきたからか自分に厳しく人に優しくという言葉がかえって自分に厳しくし過ぎて自分を思いやることができなくなっているようにも思います。

自分を大切にするということの意味もまた、本来の自分を相手と分けずに思いやるという意味ではなく自分勝手にすることのように使われていたりします。そして相手を思いやるときは、自分は犠牲になって自分は思いやらなくても相手のために自分を使うことのように思い違いをしています。

本当の思いやりは、相手がもし自分だったら、自分がもし相手だったらと分けずに両方を思いやることです。そのためには、自分のことを思いやる気持ちで、相手も思いやるという実践ができなければなりません。自分を大切にするように相手を大切にする。相手を大切にするように自分を大切にするというように、その優しさを分けずに自他両方に接していくのです。

思いやりが大切なのは、一緒に思いやる世の中を目指そうといった平和を実現するための人類の初心が入っているからです。時代が変わっても、人類が目指している理想はまったく変わっていません。

子どもたちに譲り遺したい社會もまた、人類の初心の実現です。引き続き、日々の思いやりの実践を通して平和の実現に貢献していきたいと思います。

場の要諦

私は和を甦生し、復古起新するものですがその要諦としてもっとも大切なことは「積み重ねる」ことであると確信しています。この積み重ねるという言葉は、文化を伝承することにおいてもっとも重要なことです。別の言い方では「研鑽を積む」とも言います。

この「研鑽を積む」とは、物事に対して一生懸命に取り組むということそれを継続して磨き続けるという意味があります。

何よりも大切なことは、文化とは「継続して磨き続ける」という意思をもったものであるのがその言葉の定義なのです。では何を磨くか、それは心や魂を磨きます。そしてその中心には生き方があり、具体的には技術があります。

一つひとつのことを丁寧に和にしていくことは、生き方を和になるように研鑽していくことです。そしてこの積み重ねこそがその「場」に見えかったものが顕現してきてその価値の素晴らしさを人々が実感するのです。

私の取り組む「場」は、積み重ねの場であることは間違いありません。「場」には一体何があるか、それはこの積み重ねがあるということです。そしてこの「場」は、別の言い方では「空」であり、「間」であります。つまり「空間」ということです。そしてその空間に何か大切ないのちの姿が可視化し宿るとき、人はそれを「和」と呼ぶのです。

この「和」が、人間に与える影響は多大なもので子どもたちであれば五感を通してすぐに学ばずに学び、教えずに吸収することができます。私は保育を研究し続け、実生活で自然農や古民家甦生、その他、発酵や伝統技術を学び続けてきましたからこの「和」の保育が持つ偉大な効果を身近でずっと体験してきました。

「場」は、現代のような目に見えるものしか信じない時代に大きな楔を打ち込み人類を持続可能な循環に導く大きな一手になると私は祈っています。この祈りもまた、積み重ねの智慧であり伝統文化です。

引き続き、場の神社と共に暮らしフルネスを通して研鑽を積んでいきたいと思います。

 

 

質の追求

人類はかつて生産性を高めるためにあらゆる工夫をしてきました。生産性を高めていくのは、質と量がありますが量が増えていくことで質は次第に下がっていきました。その下がってきた質をそれ以上下げないようにするためにあらゆる工夫を凝らしてきました。

それが科学や工業の発展につながっているともいえます。しかし、本来、質を高めていけば量は減りますが質はさらに高まっていきます。量が少ないからこそ質は上がります。かつての先人たちは量が少なくなっても、それは永く使えるものになっていきますから敢えて量を少なくする戦略をとってきたのです。

ここ数百年で人口を爆発的に増やし、大量生産を可能にした人類はますます質を下げていきました。そしていくら進歩したと発表しても、質がそれで本当に上がったのかというとかえって下がってしまった質の中での最高を目指しているのであって本来の質には戻ることはできません。

量の拡大というものは、時間を短縮するものです。短期的に効果を発揮することを優先する場合は一時的に量を確保することはいるでしょう。しかし長期的に効果を発揮するには必ず質を選ぶ必要があります。

長い年月生き残るための智慧は質を守っていくことです。それは量を優先しないということです。現代は資本主義で大量消費による利益の無限の拡大を競争の中で目指していますから、その中での質はあくまで短期的な効果のみで優劣を決められてしまいます。

歴史や伝統文化に取り組めば組むほどに、手間暇や準備をかけて人の手で丹誠を籠めて限りなく質の高いモノづくりを観ていたら人類の永続してきた理由に気づきます。私たちの先祖は、自然と同じリズムとサイクルでどれだけ安心して暮らしを営むことができるかを第一に考えてきたように思います。

そこには人生の質をはじめ、ありとあらゆる質を追求して今でいう非効率的なことに人生を費やしていきました。しかしそれが何百年と続く中で、如何にそれが大切であったかに気づき先人たちに向けて頭が下がる思いを持ったに違いありません。

何世代も先のことを真摯に考え、質の高い生き方を選んでいくということが結局は洗練された人類を産み出したということでしょう。縄文時代のような人たちは決して古代の何もできない原始人だったわけではなく、もっとも質を追求した先人の姿だったのかもしれません。

だからといって今更原始人に戻れというのは乱暴な話ですから今と向き合って今なら何が質を高めたことになるのかということを暮らしを通して提案していかなければなりません。

私が考える「暮らしフルネス」とは、人類の原点回帰でもあり子孫へ向けた智慧の伝承でもあり、また人類の質の追求でもあります。あらゆるものを混然一体にしつつも原点だけは見逃すことがないように丁寧に初心を忘れずに取り組んでいきたいと思います。