場の要諦

私は和を甦生し、復古起新するものですがその要諦としてもっとも大切なことは「積み重ねる」ことであると確信しています。この積み重ねるという言葉は、文化を伝承することにおいてもっとも重要なことです。別の言い方では「研鑽を積む」とも言います。

この「研鑽を積む」とは、物事に対して一生懸命に取り組むということそれを継続して磨き続けるという意味があります。

何よりも大切なことは、文化とは「継続して磨き続ける」という意思をもったものであるのがその言葉の定義なのです。では何を磨くか、それは心や魂を磨きます。そしてその中心には生き方があり、具体的には技術があります。

一つひとつのことを丁寧に和にしていくことは、生き方を和になるように研鑽していくことです。そしてこの積み重ねこそがその「場」に見えかったものが顕現してきてその価値の素晴らしさを人々が実感するのです。

私の取り組む「場」は、積み重ねの場であることは間違いありません。「場」には一体何があるか、それはこの積み重ねがあるということです。そしてこの「場」は、別の言い方では「空」であり、「間」であります。つまり「空間」ということです。そしてその空間に何か大切ないのちの姿が可視化し宿るとき、人はそれを「和」と呼ぶのです。

この「和」が、人間に与える影響は多大なもので子どもたちであれば五感を通してすぐに学ばずに学び、教えずに吸収することができます。私は保育を研究し続け、実生活で自然農や古民家甦生、その他、発酵や伝統技術を学び続けてきましたからこの「和」の保育が持つ偉大な効果を身近でずっと体験してきました。

「場」は、現代のような目に見えるものしか信じない時代に大きな楔を打ち込み人類を持続可能な循環に導く大きな一手になると私は祈っています。この祈りもまた、積み重ねの智慧であり伝統文化です。

引き続き、場の神社と共に暮らしフルネスを通して研鑽を積んでいきたいと思います。

 

 

質の追求

人類はかつて生産性を高めるためにあらゆる工夫をしてきました。生産性を高めていくのは、質と量がありますが量が増えていくことで質は次第に下がっていきました。その下がってきた質をそれ以上下げないようにするためにあらゆる工夫を凝らしてきました。

それが科学や工業の発展につながっているともいえます。しかし、本来、質を高めていけば量は減りますが質はさらに高まっていきます。量が少ないからこそ質は上がります。かつての先人たちは量が少なくなっても、それは永く使えるものになっていきますから敢えて量を少なくする戦略をとってきたのです。

ここ数百年で人口を爆発的に増やし、大量生産を可能にした人類はますます質を下げていきました。そしていくら進歩したと発表しても、質がそれで本当に上がったのかというとかえって下がってしまった質の中での最高を目指しているのであって本来の質には戻ることはできません。

量の拡大というものは、時間を短縮するものです。短期的に効果を発揮することを優先する場合は一時的に量を確保することはいるでしょう。しかし長期的に効果を発揮するには必ず質を選ぶ必要があります。

長い年月生き残るための智慧は質を守っていくことです。それは量を優先しないということです。現代は資本主義で大量消費による利益の無限の拡大を競争の中で目指していますから、その中での質はあくまで短期的な効果のみで優劣を決められてしまいます。

歴史や伝統文化に取り組めば組むほどに、手間暇や準備をかけて人の手で丹誠を籠めて限りなく質の高いモノづくりを観ていたら人類の永続してきた理由に気づきます。私たちの先祖は、自然と同じリズムとサイクルでどれだけ安心して暮らしを営むことができるかを第一に考えてきたように思います。

そこには人生の質をはじめ、ありとあらゆる質を追求して今でいう非効率的なことに人生を費やしていきました。しかしそれが何百年と続く中で、如何にそれが大切であったかに気づき先人たちに向けて頭が下がる思いを持ったに違いありません。

何世代も先のことを真摯に考え、質の高い生き方を選んでいくということが結局は洗練された人類を産み出したということでしょう。縄文時代のような人たちは決して古代の何もできない原始人だったわけではなく、もっとも質を追求した先人の姿だったのかもしれません。

だからといって今更原始人に戻れというのは乱暴な話ですから今と向き合って今なら何が質を高めたことになるのかということを暮らしを通して提案していかなければなりません。

私が考える「暮らしフルネス」とは、人類の原点回帰でもあり子孫へ向けた智慧の伝承でもあり、また人類の質の追求でもあります。あらゆるものを混然一体にしつつも原点だけは見逃すことがないように丁寧に初心を忘れずに取り組んでいきたいと思います。

サイコロジカルキャピタル

現在、先進国では知識労働者の生産性を如何に高めるかということが注目されています。20世紀は肉体労働者ばかりの生産性に注目されましたが、これだけ時代がIT化され仮想経済が拡大すればするほど働く場の現場は知的現場に移行していくはずです。

その上で、働き方改革として生き甲斐や幸福感などの調和、持続可能で有意義に豊かに働くための仕組みや取り組みが注目されてきています。

人間は、ただの働く機械ではありませんから何のために働くのかという目的があります。その上で、働く中に如何に喜びや意味や仕合せを感じるかでその人の人生が充実しているかどうかが決まるとも言えます。

組織においては、故人のパフォーマンスをどれだけ発揮できるかというのはとても重要なことです。組織の中でパフォーマンスを発揮しモチベーション高く楽しく学習し続けられるためには、お互いに安心できる環境が必要になります。その安心をどうそれぞれが個々で確保できるか、そこに私は働き方改革の要諦があると思っているのです。

私がBAを創造したのもまた、今までの見守る保育の経験から如何に子ども同士が自律し自立し、協力し合い主体性を発揮していけるかということを研究し続けてきたからです。

最近、私が考えていることに似ている仕組みでポジティブ心理学から派生したサイコロジカルキャピタル(心的資本)というものを知りました。これは人間資本の中で分類した4つの資本、経済資本(エコノミックキャピタル)人的資本(ヒューマンキャピタル)、社会関係資本(ソーシャルキャピタル)、そして「心理的資本(サイコロジカルキャピタル)」といわれるものの一つです。

その最も基礎で基本、その人間の土台にあるのがこのサイコロジカルキャピタルです。そしてこの心理的資本は、Hope(希望/将来への自信)、Efficacy(効力感)、Resilience(レジリエンス・立ち直る力)、Optimism(楽観主義・やりきる意欲)から形成されます。

私たちの保育の仕事の領域はまさにこのサイコロジカルキャピタルであるのは自明の理です。そしてそれを獲得するためにも安心できる「場」が大きな役割を果たします。安心できる場を創造するというのは、その心の資本を充実させていくためには必要です。

改めて世界はこの保育の価値を再認識する時代に入ったと私は直観しています。これからの新しい時代、私たちの場が世の中を変えていくことを信じて取り組みを磨いてたいと思います。

 

紙垂から学び直す

神社建立後、改めて神道の様々な神具やそれまでの文化を深め直しています。例えば、しめ縄一つ、神棚一つ、紙垂一つをとってもそれまで疑問も覚えなければ意味を深めようとはなかなかしないものです。人間は、空気や風、土なども当たり前に生まれてから接しているとなかなか疑問を持ちません。しかしそこには大変な意味があり、深さがあり学ぶことが多くあることにすぐに気づきます。

私もこのブログの御蔭で、日々の内省から発見したこと気づいたこと、学びたいことを深める機会になっています。子どもたちに深めることや調べること、学び直すことの面白さやその意味を少しでも感じてほしいと感じるものです。

話をもとに戻すと、神道や神具は歴史の中で少しずつ追加されてきた作法です。

そもそも古神道はほとんど自然そのものですから今でいう二礼二拍手一拝などもありませんし、神社や祠すらありません。自然の存在そのもの、精霊そのものに対するいのちに対して畏敬の念をもち祈ることでしたから形式のものはありませんでした。

そう思うと私たちの民族の遺伝子には、自然崇拝といった八百万の神々を暮らしの中で感じて祈りながら共生するという文化が最初から在ったということです。そこから宗教的な神道になり、次第に様々な形式が出てきて同時に様々なお祓いや祭祀などの神具が出てきます。

また目に見えるように境界線に結界を意味するものを用意したり、実感できるように作法を整えていきました。忙しい現世で心を取り戻すために様々な工夫や知恵の一つだったのでしょう。

私たちはありとあらゆるものが五感や六感で感じなくなるのと引き換えに科学を発展させてきましたから道具の歴史はそれを物語ます。

今回は、「紙垂」の意味だけでも整理するとこれは聖域を示す神具です。この紙垂のはじめは日本神話の神代天石屋戸条(しんだいあめのいわやどのじょう)が由来でそこに紙垂の原型「丹寸手(にきて)」が出てきます。天の岩戸の話からずっとこの紙垂は出てきますから長い歴史を感じます。

またこの形状は、白い紙を交互に切り割くことによって無限大を表わし無限大の神威を一片の紙に象徴するもの。そして宮沢賢治が花巻農学校で教鞭をとっていたころの話では「注連縄の本体は雲を、〆の子(細く垂れ下がっている藁)は雨を、紙垂は雷(稲妻)を表わしている」と、生徒に教えていた。雲と雨と雷は、豊作のための不可欠な要素であり、注連縄は元来、豊作を願って神社に奉納されたと伝承されています。

私たちは紙垂を見ると、そこがすぐに聖域であることを察知します。これは自然に五感が呼び覚まされそこに何かが居られるのを直観することができるからです。日ごろは使っていない五感も、心を研ぎ澄ませていけばそのアンテナが感応するようにできています。

頭でっかちに脳だけを使っていると感覚がマヒしてしまうものです。子どもたちのように五感フル稼働で事物を味わい豊かな人生を送れるように神事から学び直していきたいと思います。

 

ブロックチェーン団子

昨日から旧長崎街道でブロックチェーンストリート構想の実証実験の一環で、ブロックチェーン団子を提供しています。まだ市民にあまりこのブロックチェーンという言葉自体も周知されておらず、たくさんの方々から質問がありました。今回は、はじめてブロックチェーンに触れる機会なので、ブロックを団子に串をチェーンに見立てていましたが皆さんそれよりも団子が美味しいと集まり評判で一部の若い方以外は技術の話には行き着きませんでした。

このブロックチェーンは、現代ではまだ仮想通貨の暗号化技術と思われている人も多いですがインターネットの開花時と同じく現在は猛烈な勢いで様々なニーズに対応して応用されている技術です。

現在は、すでにインターネット網が充実し5Gといって膨大な情報のやり取りができるようになりましたからその中で必要な技術も同時に進化します。私に言わせると、仏教の仏具の羅網のようなもので目には観えないところでどのように結び連なりその経過にどのように伝わるかという伝達技術の奥義のような存在がこのブロックチェーンです。

そもそも人類は、仏教にあるような様々な神通力を科学技術で再現してきました。それが現在の社会生活のすべてを覆っています。医療、交通、研究、ありとあらゆる分野に神通力だといわれていたような目には観えないことを次々に科学で実現していきました。空を飛ぶのも当たり前、宇宙に行くのも当たり前、そのうちタイムマシンなどもできるかもしれません。

しかし原子爆弾に言えるように、これらの科学技術は戦争と共に発展してきたものです。平和な時代には科学はあまり進歩しません。現在は経済戦争の真っただ中ですから様々な新しい科学が発展しています。それはあまり好ましいことではなく、人類がどこに向かっているのかは科学の進展を観ればある程度は予想できます。

そうはいってもこの時代の流れもまた運命ですから、その中でどのように宇宙の仕組みを自然的に暮らしの中に取り入れるかは私たちの智慧次第です。智慧は人類を助けていきますから、やっていく中で反省しそれを見直し新たにしていくのが今を生きる私たちの使命になっていきます。

徳を中心に据えたブロックチェーンを私は眺望していますから、今回の実証実験はその最初の取り組みとなると信じています。

それにこの団子は、無農薬で特別に発酵させた肥料のみで育てた新種のお米を使っています。粘性が非常に強く、パンケーキにとても向いていて食感も見事です。また団子の粉には竹炭の粒子を混ぜていて黒っぽい着色ですが透明感のある味わいがあります。

本来は時間をかけて炭火で焼くのですが、この期間は旧伊藤伝右衛門邸で雛祭りを開催しているシーズンなので往来する人が多く何人かで手分けして古民家の長囲炉裏の傍で電気プレートで焼いています。

またお茶は地下水を沸かし鉄瓶でほうじ茶を無料で提供しています。みんな足を止めてほっと一息し、休憩して和んでいる様子を古民家から眺められるのは仕合せです。今は街道を歩く人もなく、車でほとんど移動ですが一休みする憩いの場はとても大切な空間です。

来週から私もはじめての雛人形を室礼ますが、今から色々と考えてわくわくしています。新しいことと古いことの行き来は、暮らしの本物の歓びを与えてくれます。引き続き子どもたちに確かな調和を譲れるように挑戦していきたいと思います。

 

 

 

伝道者の育成

自己との対話というものは、自己研鑽の最も重要な実践項目です。これは一つの自分、一人の自分になるには自分というものが完全調和している必要があるからです。

私たちは生まれたての赤ちゃんの頃から3つ子の魂といわれる頃までは、ありのままの姿で自己を認識していたように思います。そこから社會を形成していく過程で他者とつながりはじめ、次第に自己を拡大させはじめます。

その中で、自己が次第に分かれていき自分中心と他者中心の世界観が発生し次第に現実が錯綜してくるものです。それは例えれば、目に見える世界が強くなればなるほど目に見える世界しか信じなくなり、目に見えない世界が強くなればなるほどに心に映る世界にしか信じなくなることに似ています。

この世には、物質的に存在している世界と精神的に存在している世界があります。これは結果とプロセスと似ていて、どちらも真実ですが大切なのはどちらも深く学び味わうという要素が必要になります。そして最終的には、和合といって現実と理想が一体善になり自然となります。

本来の自分というものを突き詰めていけば、人間は自分を深く味わうということがこの世で産まれてきて魂を磨いていのちを輝かせて天寿を全うするということになるのでしょう。だからこそどんな状況でも自己と対話を続けるのは、その両方を深く味わい意味をつけ、生死を度外視して魂を高めたいと本能が強く願うからかもしれません。

そもそもの自然界では、自己調和は必然的なものです。

自然と一体になり、すべてのいのちとつながっていますから自ずから自己調和をしています。人間は、これを知識によってコントロールするあまり現実と乖離した仮想世界を創造していくことができました。科学などその最たるもので、知識の世界そのもので現実を歪めていくことができます。自然の力の一部を取り出しては、その力によって自然を変えようとします。これがつながりを切ってしまう原因になっているのです。

人間も地球の生命の一つですからつながりを消してしまうと不安と恐怖を持つようになります。その逆にどんな時でもつながっていると信じて生きている人は安心基地を持っていて自分というものを深く信頼することができます。

むかしの人たちの暮らしの中には、つながりを大切に自己と対話を続けてきたのだろうと洞察できる素晴らしい文化がありました。現代文明はその文化のつながりを切って急速に拡大しましたが、その反動として人間の心は病みはじめています。

自己研鑽の意味も、単なるハードな修行をすることではなく愛や許し、そして自己調和に定義が変わってきています。これからの新しい時代、どう生きていくかを子どもたちに示す大人たちの存在が必要です。

一人でも多くの文化の伝道者を育成できるよう、私なりにできることを実践していきたいと思います。

自己研鑽~己を知る~

先日、野球の野村克也監督がお亡くなりました。改めて数々の名言を読み直してみると、見た目のあのぼやいている雰囲気にはない人間観察の粋を究めた考え磨き抜かれた言葉の数々があります。

人間は生き方がその遺す言葉に出ますから、どのように人物や人生を深く学び洞察して定義するかでその人の魂の真価のようなものを確かめることができます。どの道も突き詰めていけば原理原則に出会いますがその智慧はそのまま私たちの人生にも活かせるものばかりです。

いくつか深く感じ入ったものを紹介してみたいと思います。

選手時代のことは、

「京都の片田舎にある無名校から、十把一絡げのテスト生として入団した私は、最初から努力以外にこの世界で生きる術はないとわかっていました。だから連日連夜、誰よりもバットを振りました。3年目でレギュラー、翌年にはホームラン王になれたのも猛練習のおかげです」

「素振りはつまらないし、回数を基準にすると続かない。私がこの単純作業を継続できたのは、振ったときのブッという振幅音に興味を持ったから。ミートポイントで力を爆発させるようなスイングができたときは、この音が短い。そして、この短い音を出すためには、力を抜いていないとダメだということに気がついた。これがおもしろくて、1時間、2時間はすぐに過ぎていきました。」

選手にはこう言います。

「努力に即効性はない。コツコツやるしかない。いつの時代にもいる一流選手と自分は何が違うのか。それを考えながらやるしかない。」

「一流の人を真似るのはプロの常識。そういう努力の中で、一流選手と自分との違いや、何が大事なのかということに気づいていく。よりもバットを振りました。3年目でレギュラー、翌年にはホームラン王になれたのも猛練習のおかげです。」

監督としてはこういいます。

「選手がどういう場所で生きてくるかを気づかせるのが監督の役目でもあるんです。監督業というのは「気づかせ業」だと思っています。気づかせることが「再生」なんです。南海時代、それまで1勝もしてなかったピッチャー3人をトレードで獲得して「俺が言うとおりに投げれば間違いない」と言って3人とも2ケタ勝利で優勝。それで再生工場というような異名がつけられたわけです。」

「勝つときにはいろんな勝ち方があって、相手が勝手にずっこけたり、勝手にミスしてくれたりして「ああラッキー」という勝ち方もあります。しかし、負けるときというのは、負けるべくして負けるものです。勝負の世界にいると、勝って反省というのはできないが、負けたときには反省する。敗戦の中にいい教訓があると思います。」

監督は気づかせ業、負けに不思議の負けなし、これらの言葉はとても偉大な智慧が凝縮されています。自分と正面から向き合い、自分自身と常に対話して自己を修正してきたからこそ絞り出る言葉の数々があることに感動します。

他にも名言はありますが、私が野村克也さんから改めて学び直すのが「自己研鑽」この大切さです。自己研鑽=努力は、隠れていますからあまり表立っては評価されません。まるでそれは陰徳のようなものと同じです。頭を使うというのも、常に己を疑い己を修正し磨き続けることに終始すれば努力は離れることもありません。

野球人生を生ききった人物の後ろ姿はこれからの後人の光になると思います。

最後に、特に私が好きな言葉です。

「心が変われば態度が変わる。態度が変われば行動が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる。運命が変われば人生が変わる。」

ご冥福を心からお祈りしています。

分かった気になる

人間は集団心理というものを持っており、みんなが当たりまえと思っている情報をそのまま考えずに鵜呑みにしてしまう性質を持っています。特にテレビやニュースなどを見聞きするとそれを現地で自分の感覚で確かめたわけではないのにそのまま真実を見たかのように錯覚します。

これは脳がそのように思い込み、分かった気になってしまう癖を持ってしまうからです。思い返せばこれは幼少期からの教育の刷り込みによって起こるように思います。

教科書をそのまま勉強し、誰かが言っている答えを信じ込まされる。そして正しければ〇で間違えば×。しかし本当にそれが正しいかどうかは自分で実験してはじめて深く理解することができ、それが〇か×かは本当はその人の答えですから誰かに合わせることは分かった気になる意識を刷り込んでいくだけです。

この自分で確かめなくなるという教育は、その後大人になっても影響を与えます。自分で調べなくなり、自分で確かめなくなるという習慣がみんなを思い込みや刷り込みを助長させていくのです。

何でも聞いた話をそのまま鵜呑みにするのは大変危険なことです。誰かが思い込んだことがそれが事実だと信じ込まされれば事実ではないに周りがそれを事実にすり替えてしまいます。そうなると事実ではないことのために、一生懸命にみんながそこにエネルギーをつぎ込み結果がさらに歪んでいくのです。

そうならないためにも、まずは何が本当のことなのかということを自分で考える頭を持ちそして自分自身の五感や行動で現地で確認して調査すること。つまり自分の目や耳、手で触れたもの以外は信じないという感覚が必要だと思うのです。

こういう五感や本能を使わなくなるのが思考停止することであり、自分の感覚を信じずに使わなくなることが楽をすることなのです。

本質を確かめ、定義を定めることに努力をすることが事実や真実を突き詰めていくことであり、みんなが学問を通して本物の社會を創造していくことに参画していくことです。

子どもたちが考えなくならないように、自分の五感を使ってこれからも学び直していきたいと思います。

私たちは現実の世界とは別に意識の世界というものを持っています。量子力学が出てきてから、その世界のことが少しずつ解明されていきますが古代の人たちはその存在を身近に掴み生活に活かしていたことが遺跡からもわかってきます。

祭祀や神事というものも、言葉というものも、同様にその量子の世界、つまり目には観えない世界が働いて活動しているということを認識してそれを伝承しているものです。現代では、なぜこんなことをしてと思うことでもそこには確かに効果があるものが存在し、その効果を実感するからこそ今でもそれが大切に扱われ遺っているのです。

古代のテクノロジーというものでしょうが、それが現代になってもまだ活かされているという事例の一つでしょう。

私は、漬物や味噌づくり、そのほかの保存食などを手掛けますから発酵のことを学びます。発酵を学ぶと、そこには菌たちの世界が存在します。これは先ほどの量子の話と似ていてそれまで目には観えなかった菌があるとき存在していることを科学が可視化することによってその不思議な働きを解明することができました。

味噌も漬物も菌が活動してつくることが判明していましたが目には観えない時代は効果があることしかわからなかったはずです。しかし現代は誰しもが菌のことを知っていますから、事実がわかり菌というものを捉えています。

量子もまた存在していることがわかってくると、目には観えない波動や波長、意識や自然の気候や宇宙の原理などが次第に解明されていくと思います。そうすれば、なぜ意識が大切なのかやなぜ自然と調和する必要があるのかや、宇宙と人間の相関関係などの重要性もまたわかってくるはずです。

これは過去に効果がある理由が次第に解明されるということですが、人類はそうやって未知なるものを知識に換えてそれを使い文明を発展させてきましたからこれからもそれを続けていくと思います。

しかしあるとき、そのすべてを知った時、人はその偉大な力に対してどうするのか。扱えないほどの偉大なものを知り何を思うのか。私は知らないで感じることの方が、心地よく生きられ長く仕合せを保ち足るを知る人生を生きられるようにも思います。

今度の「場」は、道も入りますから足るを知りつついのちが働くことを謙虚に学ぶように取り組みたいと思っています。子どもたちに本当の豊かさや仕合せが持続するように、今できることを洗練させていきたいと思います。

場の道場

場の道場は、場を使いますから様々な場づくりを通して場を磨いていきます。この場が磨かれていけば、世間ではパワースポットだと呼ばれたりしています。そのまま場がただすごいと感覚でわかっても、それを説明できれなければスピリチュアル的とか、宗教だとか言われます。

現代は、ちょうど量子力学という学問が出てきます。これは原子よりもさらに小さいものを捉えていく研究です。素粒子やニュートリノといった宇宙の本来の姿、宇宙がどのように存在するかということを突き止めていく学問でもあります。

ここに「場の量子論」というものがあります。

ウィキペディアにはこう解説されています。「場の量子論(ばのりょうしろん、英:Quantum Field Theory)は、量子化された場(素粒子物理ではこれが素粒子そのものに対応する)の性質を扱う理論である。 量子論の中でも、位置や運動量などの古典力学由来の物理量と、スピンなどの量子論特有の物理量を、基本変数とする量子論を量子力学と呼ぶ。一方、基本変数として「場とその時間微分または共役運動量」を用いる量子論を場の量子論と呼ぶ。量子力学は、場の量子論を低エネルギー状態に限った時の近似形として得られる。現代では、古典的に場であったもの(電磁場など)だけでなく、古典的に粒子とみなされてきた物理系(電子など)の量子論も、場を基本変数にしたほうが良いことがわかっている」

そもそも素粒子をはじめ量子は空間の中に存在して絶えず活動する波長、波動のようなものです。その波のある空間を一つの「場」と見立てて、場の中にそれらが活動する舞台が存在すると定義しています。そしてこの「場」という空間を如何に高め磨くかということが私の「場の道場」の実践内容となります。場の中にある振動数を如何に磨くか、これは目には観えない波長をどれだけ研ぎ澄ませて自然と調和させられるかということに尽きます。これらの科学は、環境の科学ですが私はそれを風土ともいい、徳とも呼びます。

これらの粒子の波は、波動というものの振動数によって表現されます。無限に振動するその波長がどのような波長を放つか、その振動の波長こそ場の価値が出てきます。低周波というような、穏やかで和やかな振動数であれば場は落ち着き心は癒されます。またその逆の波長であれば心はざわつき、傲慢になっていきます。

私たちは一人一人その肉体や精神というものの中にそれぞれの「波動」と「波長」を持ち、それを積み重ねて人生を遂げていきます。しかしその人生の舞台の上には確実な「場」というものが存在し、その場を整わせていく中でまた記憶されていく宇宙の媒体に影響を及ぼし合っていくことになるのです。

もっとも深い私たちの存在には、この量子力学が関係しており科学はいよいよこの目に見えない波長や波動というものを捉える「場」という存在にまで近づいてきました。

私は直観型の感覚を澄ますのが好きですから、よりこの波動や波長を感じやすいタイプですしそれを「場」に定着させていくのが得意なタイプなようにも思います。

これからの時代、不確定さが増えてきたのは目に見えないものが主役になっていく転換期に入ってきたからです。だからこそ、私の取り組む「場」はこれから主役であり世の中を転換するための主人公となっていきます。

最後に、「日本の原子物理学の父」と呼ばれる仁科芳雄博士の言葉です。

「環境が人を創り人が環境をつくる」

場を醸成し、新しい時代の幕開けをここから拓いていきたいと思います。