幽室の友

昨日は、とても懐かしいと感じる友人が來庵して笑い楽しみ味わい深い一日を過ごすことができました。旅人たちが心落ち着けて一緒に語り合う時は、永遠のようでこの時間がいつもいつまでも記憶に残ってきます。

むかしはきっと、今よりもゆっくりと時を感じていて色々なことを持とうとせずにみんな手放して心のままに生きていたように思います。現代は、やることややらねばないことばかりでなかなか捨てていくことができません。

みんな我執を超えてはじめて素直に喜べますから、喧騒を忘れてありのままの心でいる時間は心の栄養になっていくように思います。

不思議なことに、踊念仏を実践して歩んだ空也上人や一遍上人のことを思い出しました。もちろん古い時代の方々ですから思い出したといってもお会いしたこともありませんし、よくはわかっていません。

しかし、その方々の生き様というものは心に共感するものが多くあり、今の時代の心の課題にも触れる妙薬のようなものをもっているようにも感じます。

一遍上人は、そもそもすべて捨て去って生ききっていましたから本当に何も残してはいません。旅をするように生き、心を開放してあるがままに捨て去り抜けきって念仏を唱え続けて世の中を歩んでおられた方です。空也上人を尊敬していたようで、同じ道を歩まれて多くの人々を導かれています。その一遍上人がこういうことを語っています。

「名を求め、衆を領すれば、心身疲れ、功を積み善を修すれば希望多し。孤独にして境界線上無きは如かず。称名して万事を投げ打つには如かず。閑居の隠士貧を楽しみと為し、善観の幽室(ゆうじょう)は静かなるを友と為す。藤衣(とうい)・紙衾(かみふすま)は是れ浄服(じょうふく)、求め易くして盗賊の怖れ 無し。」(一遍上人語録)

「念仏の行者は智慧をも愚痴をも捨て、善悪の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極楽を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念仏こそ、阿弥陀世の本願にもっともかなひ候へ」(一遍上人語録)

この二つは踊念仏の本質を語っている言葉であることがわかります。

今の時代、歴史に学び、まさにこの踊念仏の理念が必要になってきているのを実感します。あるがままにありのままにそのものが分かるというのは、善悪成否の境なくあるがままの自然の喜びをそのまま伝えることかもしれません。

心は本来の自己であるとき孤独の奥深さを感じるものです。古い日本の伝統的民家での暮らしは、まさに幽室の静かなる友です。そんな朋との出会いの中で様々なことを捨てていく機会は、心の養生になると感じました。

出会いを大切に、学びを無二にし、子どもたちの未来へ場を譲り渡していきたいと思います。