育徳

先日、訪問したある学校の校庭に「育徳」という言葉を見かけました。これは四書五経の一つ、易経の中で使われている有名な言葉です。

「彖曰。山下有風蠱。君子以振民育徳。」(山下に出(いずる)泉(いずみ)あるは蒙(もう)なり。君子もって行(おこない)を果たし徳を育(やしな)う。)の中にこの育徳があります。

文章の意味は直訳ですが最初に山から出てくる湧き水はとても小さくか弱いものでも次第に他の大きな流れが入ってきて合流し、それがやがて大河のようになり大海になっていくという意味です。大器晩成と似ていますが、時間をかけてじっくりと徳を涵養していくことの大切さを説いたものです。

この育という字は、子どもがお母さんのお腹の中にいる象形文字です。自然にお母さんの中で育っていきカタチになっていく。まさに小さな存在からあらゆる徳をいただき大きな存在になっていく、つまり自然に大人になっていくということです。

徳は自然に存在しているもので、空気や太陽な水のように私たちにとってはなくてはならない偉大な存在です。その存在の中で、私たちはじっくりとゆっくりと成長していきます。息を吸って吐いているだけでも私たちは徳によって育まれているともいえるのです。言い換えるのなら、まさにこの呼吸こそが徳のなすことの意味を顕しています。

何度も何度も丁寧に呼吸をすることで私たちはその空気によって徳が涵養する。だからこそ私たちは呼吸を日々にととのえて丁寧に暮らしを紡いでいく必要があります。空気が化学物質に汚染され、感染症でマスクをして、閉塞感がある息苦しい世の中だったとしても、敢えて丹誠を籠めて呼吸を整えて徳を養うのです。

私たちはこの世にいるだけで、徳を磨いています。なぜなら徳を磨くために生まれてきたのが私たちの使命の本懐だからです。そうやって徳は日々に育てられていますからどのような一日であったとしても、私たちは呼吸を已めるその日まで徳に見守られ育てていただいているのです。

この徳に見守られているこの世界で自分らしく自分のいのちを存分に心のままに生きていくことが恕されているのです。無条件に自然が私たちを育ててくれるように、この世は無条件に偉大な愛情を与えてくれます。その中で、いのちが「育つ」ということの側面に常に「徳」があるということなのです。まさに天の無限の慈悲慈愛を頂戴しているのです。

そしてこの天の真心は決して已むことはありません。この今も、私たちのいのちを支えて見守り続けてくださっています。だからこそその徳に報いていこうとするところに、私たちが人間として真に学び育つことができるのです。それが育徳の本質だと私は思います。また同時に徳を磨くというのは、徳に磨かれているということです。

畢竟、人は真に徳に感謝できる人になるとき、私たちの人格はある処の高みにまで磨かれたと言っていいかもしれません。

玉磨いて光るとき、徳もまた薫ります。

来年もまた、偉大な徳に見守られながら子どもたちを見守っていく一年にしていきたいと思います。

ありがとうございました。

原点回帰

人は何かの判断をするとき、もっとも大切になるのは原点回帰です。そもそもの原点は何だったのか、複雑に広がり分類分けられていく繁栄のなかでその根に回帰するということでしょう。

私たちは根本というものを忘れると、迷うようにできている生き物です。枝葉末節にこだわっているうちに肝心要を手放して滅んでいくのは、歴史が証明しています。時間が経つと陳腐化したり執着したりするのは、私たちはそれくらい原点から遠ざかっていることを示すものです。

例えば、経営においても理念や初心というものが本来存在します。つまり何のためにそれをやるのかという原点です。その原点からはじまり時間の経過とともに、少しずつ原点からあらゆるものが派生して増大していきます。本来は、増大するとき同時に削り取りながら磨きあげていく中で本来の存在は強く逞しくシンプルになっていきます。

会社であれば、別に社員が大勢いる必要もありませんし売り上げ規模や利益が拡大すればいいわけではありません。どれだけ本質を磨き続けているか、時代の篩にかけられても変化し続けているかが原点を守るための試金石になっているのです。

時代の面白さというものは、変化できる豊かさです。今ならこうやればいいという具合に、原点さえ忘れていなければ多様な選択肢があり組み合わせを楽しんでいくことができます。そして、ご縁によってあらゆる人たちとの組み合わせを味わいながら豊かに創造を刷新していけます。

原点と志さえあれば、根っこが養分を吸い上げて甦生していくようにまた元氣を取り戻してその時代を華々しく輝かせていくことができるのです。

人間はいのちを輝かせていくことで仕合せを感じます。だからこそ、温故知新や原点回帰は人間の真理であり法理そのもので揺るがないものです。

来年は、さらに原点回帰を楽しみ子どもたちにその生き方を伝承していけるように維新の実践に取り組んでいきたいと思います。

心の鎮座

来年の歳神様をお待ちする室礼も無事に終え、聴福庵も場もすべて整って鎮まっています。あとは、後回しになっていた自分の書斎だけですがこの場もここ数日で清浄にしていくのがとても楽しみです。

今年は、場づくりに真摯に取り組んだ一年になりました。場づくりは土づくりと同じで、作物があろうがなかろうが、収穫があろうがなかろうが、丁寧に丹誠を籠めて整え続けていかなければなりません。

庭の草取りや、古い物の手入れのように、すぐに効果が出ないようなことであっても根気強く真心で取り組んでいく必要があります。それは心や気持ちの整理でもあり、そういう暮らしを通して人ははじめて人として落ち着いてくるものです。

この落ち着いた暮らしというものは、心の静寂と共にあります。聴福庵は私の人生の実践道場ですから特に凛とした空気がいつも流れていてそこには永遠の時が沈んでいます。この時の沈みとは、常に静寂を保っている時が場に深く鎮まっているということです。イメージでわかりやすくいえば、海の深いところに沈殿している動かない闇のようなものです。

先日、先祖が代々霊感の強い家系に生まれて貢献されてこられた方が來庵され「ここはまるで神社そのものであり神々が鎮座している場所でずっと鳥肌がおさまらない」と仰っておられました。そう考えてみると、今年は霊感の強い方がたくさん來庵され皆さんが一様に神々が鎮座されていると仰っていただいた一年でした。

私は特別何かのスピリチュアル的な活動をしているだけではなく、新興宗教をしているわけではありません。会社に神家総本家と和名をつけていることと、私に固定概念が少ないことから一部の人たちからは変人や狂人、怪しい教祖ではないかと言われたこともあります。

しかし、この神々の鎮座においては私が言っているわけではなく周囲が言っているだけで私本人は暮らしフルネスの実践を淡滔滔と続けているだけです。それが結果として心の静寂を場に投影させ、それが何かしらの存在や気配を感じさせその鎮まった場所で心が落ち着いて何かを感じられているように思います。

この「心の鎮座」というのは、本来は日々の暮らしの中でととのえていくものです。

心が荒廃し、乱雑になっていけば静寂はありません。静寂は、清浄と共にあり、場を清め続けることで鎮座します。人間は精神性を研ぎ澄ませていけば自ずからその真っ白で純粋な境地、また透明なセンスを身に着けることができるように思います。

冬の澄み切った夜空の月の光のように、私たちはその心を内面に持っています。その月を曇らせているものを取り払うことが私たちの暮らしの原点であり、暮らしを充実させていく原理原則なのです。

来年は、暮らしフルネスを知ってくださる方が増えていくように思います。どのように伝わり弘がっていくのか、日々に法螺貝を立てながらじっくりと静かに出る月を待ってみたいと思います。

徳の内

昨日は、友人たちと集まり徳積堂を磨き上げました。年内最後の一緒の磨き合いということで、はじめての人も参加し有意義な時間を過ごすことができました。一期一会の仲間と一緒に磨き合える、これだけで人生はとても仕合せなのです。

この世に私たちが生まれてきてからこの世に肉体で存在できるのはあっという間のことです。毎日、寝て起きて過ごしていたらそのうち歳をとりいつかは死を迎えます。大統領でも、有名人でも、いつかは必ずだれにも死は訪れます。

一休禅師が「世の中は食うてかせいで寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ」といいましたが、まさにただそれだけのことです。

しかし、この生きている間には本当にたくさんの体験を積んでいくことができます。それはすべて徳の内です。私たちはこの徳の一生を与えてもらい、その徳を磨くことでいつまでも心を輝かせていくことができます。

時折、生きている意味を忘れてしまいそうなとき、私たちは磨くことで何か大切なものを思い出します。それは「光る」ということです。言い換えれば、「いのちが輝く」ということです。

いのちが輝いていくことで、私たちは生きていることの仕合せを感じます。この世は確かに生老病死と苦しいことばかりですが、それでもこの世に出てきては体験したいのはいのちが輝く喜びを味わいたいからです。

あの星々が夜空に煌めき輝くのも、それが真理を顕しています。

この徳は、何物にも代えがたく、私たちの暮らしの根源であり幸福の源泉なのです。

一瞬のことだと自覚するからこそ、この今を磨き続けるという境地。まさに必至を自覚することにより、人はこの世に生きる意味や感謝を忘れないで生きていけるのかもしれません。まさに私たちはその偉大な徳の内でいのちを活かされています。

人類が大きな岐路に入っているからこそ、何がいのちの根源であったかを具体的な実践において磨いていきたいと思います。

鏡餅の心

先日、みんなで集まって伝統的な餅つきを行いました。むかしの道具たちをたくさん出してきて、竈で蒸して炊いたもち米を手彫りの臼、そして百日紅の杵などで和気あいあいと大勢で笑いながら餅つきをしました。

餅つきをするとみんなが仲良しになり、笑いが絶えません。まさに福分けの象徴のようなこの福餅を床の間に鏡餅として飾り歳神さまをお祀りして正月を穏やかに待ちます。

むかしは、数え歳でしたからみんな一斉に正月に一緒に歳をとりました。何歳の人も、正月には生まれ変わり新しい歳を迎えます。新年になり、心機一転またその歳をみんなで分け合い魂を磨きます。正月が近づくと、日本全体で清々しい雰囲気に包まれるのは生まれ変わりの神聖な行事をみんなで行い場を清めてきたからかもしれません。

早速、このついたお餅で鏡餅もいくつか拵えました。現在は私が取り組む家が増えていますから、鏡餅の数もたくさん必要になります。昨日は、門松を飾り終え本日には鏡餅の室礼を行う予定です。

室礼をしながらそのものの意味を深めて味わうのはまた一年を振り返る豊かな時間です。門松は、邪気を払い同時に歳神さまが家にやってくる目印になります。鏡餅は歳神様が家に滞在するときの依り代になります。そこに四方紅といって天地四方を拝して災いを払い、一年の繁栄を祈願します。他にも、新葉が出てから古い葉が落ちるので、新旧相ゆずる(家系がつながる)という縁起を祝うゆずり葉、よろこぶ(喜ぶ)との語呂合わせからきた昆布。そして長寿を祈願する、久しく栄える、裏表がないなどの意味があるとされるウラジロ。四方に大きく手を広げ、繁盛することを願うとされる御幣。実が木についたまま年を越すところから代々にかけて縁起がいい橙を室礼ます。

室礼しながら、芽出度いこと、福が訪れることを心を清めながら静かに待ちます。この心魂を研ぎ澄ませながら歳神様をおもてなすことに仕合せと喜びを感じるのです。

思い返せば、今年も本当に多くの人が家に滞在されていきました。その都度、おもてなしをして豊かなお時間を過ごしました。お客様が神様という言葉もありますが、あれは決してサービスをする対象としてのカスタマーではないことはすぐにわかります。

私たち日本人には、八百万の神々という思想がありこの世のすべては結び合いつながり合い一つであることを自覚しています。いのちを共にするからこそ共生して貢献し合うのです。その存在としての神様をお互いの心のうちに見合うとき、お互いが神様のような澄み切った素直な状態になります。

まさに相手も自分もなく、自他一体に神様のような状態になる。それを家という場を磨き、その舞台で共に語り合うとき、私たちはそのうらおもてなしの美しさに和み合うのです。

日本人の初心を忘れないように、歳神様の心の鏡に観照されながら素直と感謝を磨いていきたいと思います。

新しい幸福論~暮らしの徳を磨く~

幸福論という言葉があります。これは、人間の仕合せとは一体何かというものを突き詰めたものです。有名な幸福論には、ヒルティの『幸福論』(1891年)、アランの『幸福論』(1925年)、ラッセルの『幸福論』(1930年)による3つの幸福論があるといいます。

ウィキペディアには、アランは健全な身体によって心の平静を得ることを強調。すべての不運やつまらぬ物事に対して、 上機嫌にふるまうこと。また社会的礼節の重要性を説くとあります。ラッセルは、己の関心を外部に向け、活動的に生きることを勧めるとあり、またヒルティは神のそば近くあることが永続的な幸福を約束するとする宗教的幸福論であるとします。

難しい言い方をしていますが、シンプルに共通するものは自分らしく生き切っているということでしょう。これは人類の幸福に限らず、自然界は自分のいのちを信じ切ってあるがままでいるとき、仕合せを感じるようにできています。

これは自然と一体になっているともいい、私はそれを「かんながらの道」とも言います。そしてその自然と一体になっているという状態がどういうことか。それを具体的な実践として実在させているものこそが日本の伝統的な暮らしであり、その暮らしを充実させて日々を豊かにしていくことが仕合せなのです。

私の幸福論は、真の豊かさというものは何かということを突き詰めたものです。

自然を深く観察し、いのちの繋がり合いの中でお互いを尊重しながら活かしながら生きていく。そしてお互いの徳を磨いて、いのちを輝かせ、真善美の調和の中で時を超越して心を開放し魂の旅を味わう。まさに、自然一体の境地に入ることで私たちは何物にも代えがたい存在であることを知り、宇宙の一つであることを自覚します。当たり前のことかもしれませんが、生き物たちが喜ぶように一緒に私たちも喜ぶとき、そこに真の暮らしは実現しているのです。どちらかだけが喜ぶというのはいのちの自然界では不自然なことなのです。

この喜ぶという心境は何か、それはいのちがお互いに活かされている、甦生し磨かれていると実感するときに得られます。共生と貢献の中でむかしの人たちが、永い伝統的な暮らしの中で自然のセンスを磨き合い高め合ったように本来は今の私たちにもそれはできることなのです。

人間が楽になるために便利さや効率を選択し、それを優先するあまり日本人もかつてあったものを忘れていきました。気が付くと、現代はその忘れものが一体何だったのかも忘れてしまい時間と引き換えにして本来の幸福とは程遠い歪んだ豊かさや富のみを追いかけるようになりました。

世界が同時に影響を受けたコロナウイルスにおいても、立ち止まり振り返る機会を得られたはずなのにまた目先のことに迷い元通りに忘れようともがいています。私は、今こそかつての日本人の美しい記憶を思い出す時機ではないかと思うのです。

人類の幸福とは何か、そして新しい幸福論とは何か、そこに原点回帰をもってもいい時機だということです。私の原点回帰、それは「暮らしの徳を磨く」ことです。暮らしの徳は、便利な暮らしでは出てきません。どちらかといえば、不便なものしかありません。いのちは不便と共にあり、不便とは人間都合ではないのです。自然の都合に合わせて生きていくことは、決して辛く苦しいことではなく実は偉大な存在と共に生き、偉大な存在を活かしあう、いのちの道を歩んでいくということです。そのいのちは磨けば光るように、徳を積めばさらに豊かさは増幅していきます。

真の豊かさとは、お互いのいのちを磨き合うことであり、いのちは磨き合うことで新しくなります。幸福論もまた、その時に出たものが終わったものではなくそこは道ですからその時代時代に幸福論もまた磨き続けなければなりません。

私が子どもたちに譲り遺したい幸福論は、1000年後の未来に必要な幸福論です。

引き続き、日々の暮らしを豊かにしながらすべてのいのちを新しくしていきたいと思います。

日本人の忘れもの

現在は、新しいものがなんでも価値があるとし、古いものは価値がないという認識をあちこちで耳にします。

しかし本来、古いものというものは、自然の篩(ふるい)にかけられた古いものであり、それだけ長い年月、あらゆる淘汰に耐えて今まで残った本物とも言えます。古いもので残ったものはすべて価値があるものであり、決して古いものが価値がないわけではありません。

よく私の暮らす「場」に訪れる人たちから、私が古いものを使いあらゆる新しいものを行うのを観て感動されることがあります。古いものを新しくするというのは、そこにある発見をしているということでもあります。

当たり前すぎて気づかないことでも、古いものをよく観察しその智慧を現代に活かそうとするのなら必ずそこには普通では気づかない発見、もしくは発明をしているということになるのです。

古来からあった忘れられたものや、当たり前すぎてやるのをやめたもの、それは今の日本人の忘れものなのです。

私たちは、新しいという言葉を使う時、何をもって新しいというのか。今まで見たことがないものを新しいというのか、もしくは今まであったものを再発見した時に新しいというのか。

私にとっての新しさは後者であり、私が取り組むブロックチェーンもその後者の智慧を最大化させたものです。まだ見学に来られない人には、私が取り組んでいることがよく分かっていないように思います。

決して私はコードをかくわけでもなく、そして何かの論文を出すわけでもありません。しかし、私が取り組む古い偉大な智慧がすべてこの新しい技術に注ぎ込まれるとき、真の新しいものが誕生します。

そして私はこのプロセスを仲間たちと味わうことで、この「場」に未来を創造しようとしているのです。ご縁のある方々と、この今を深く味わいながら新たな暮らしを独創しています。

忘れものを思い出すのに、古いものを触るだけではなくその古いものを活かして新しい技術に活かしきるとき、そこに日本人は忘れたものを思い出すと私は信じています。先人たちの生き方、残してくださった遺志を守り、子どもたちのためにも道を切り拓いていきたいと思います。

甦生の真理

昨日は、徳積堂に集まり仲間とみんなで磨き研修を実施しました。この徳積堂の内装は、ほとんどがむかしの建具をパッチワークのように切り貼りして設計されています。その飴色になった建具を、丁寧に蜜蝋や米糠ワックスで磨いていきますがそのもののくすんだ状態から磨くことで徳が引き出されていきます。

一人で磨くこともまたいい時間ですが、みんなで磨くとまた格別な時間を過ごせます。磨き終えて、温故知新された空間はどこか清々しく瑞々しく、甦生した場になりました。

甦生というのは、再生とは異なります。甦生は新しくよみがえるという意味があります。これは別のいのちに置き換えられたということです。私が取り組むのは、再生ではなく甦生です。なんとなく再生には、失いかけていたものをまた使い続けるようなイメージがあります。私の場合は、別のものになってしまい新しい「いのち」がはじまるという意味になります。

いのちの甦生というのは、永遠のいのちを与えるということです。再生の方は、いつか限りがありますから永遠にはなりません。

実は私たちにはこの二つの側面が存在していることに気づきます。それは限りある資源としていつか消失していくものであるこの肉体や物体。そしてもう一つは、永遠に存在し続けるといった魂や記憶といったものです。

再生と甦生の違いは、私はここにあると思います。甦生の中には、再生も行われますが本当は永遠を磨いているのです。私たちは磨くという行為には、結果として光り輝くというものがあります。そのものが磨かれると光が出て輝くのです。そしてそれは同時に、いのちの光が輝いていきます。

宇宙の星々のように、私たちは光り輝く場を与えられています。その場において、大切なのは磨くことです。星々もまた、宇宙のあらゆるものもまた、磨き続ける存在です。これは一つの真理であり、私たちのいのちの正体でもあります。

磨くことで徳が出るのは、もともとの存在に気づけるという意味もあるのです。

磨き研修でなぜ心が落ち着き、清らかになるのか。そして磨くことでなぜみんなが光始めるのか。それはこの磨くことにこそ深い意味があるからです。

「ただ磨くのみ」の人生というのは、実は至高の人生を歩めるということでしょう。

先人に倣い、磨くことで徳を弘めて、ここから世界に一石を投じていきたいと思います。

一粒万倍の心掛け

昨日と今日は、一粒万倍日といって芽出度い日が続いています。何かをはじめるとき、何かの節目の時に縁起担ぎによってこの日を選ぶとその後の進行が安心します。

よく大安とか仏滅とか気にしすぎない方がいいともいいますが、それは使い方によると思います。物事にはすべて気候のように地球の活動や宇宙全体のリズムとタイミングがあり、例えば船が向かい風と追い風のときで進みが違うように、リズムとタイミングがズレたら自然の力を借りにくくなります。

むかしの人たちは、自然や宇宙の運行をよく見極めて何かに取り組む時機を定めていたといいます。これは農家も同じで、どのタイミングで種蒔きをするのかというのはとても大切なことなのです。

もしも時機を間違えれば、どんなにたくさんの種を蒔いても少しも芽が出ません。もしくはたとえ蒔いて新芽が出ても、虫が大量に来て新芽を食べつくすこともあります。私は伝統の高菜を育てていますが、種の蒔き時を間違えたことで夏の虫が弱りいなくなる時期よりも前にやってしまい食べられてしまったり、遅すぎて大きくならなかったりしたことがあります。つまりタイミングが時機が自然のサイクルに合致しなければそもそも上手に事が運ばないのです。

そしてこの自然のサイクルをなんとなく目安とするのが、吉日の縁起担ぎなどです。その日が善い日かどうかもありますが、大切なのはリズムやタイミングが善い時期がどうかの方がより大切なことなのです。その上で、蒔いた種を如何に大切に育てていくかということを初心を忘れずに謙虚に取り組むという意味もあるように思います。

そもそも先ほどの一粒万倍日の「一粒万倍」とは元々は「報恩経(ほうおんぎょう)」というお経の中で「世間求レ利、莫レ先二耕レ田者一、種レ一万倍」という言葉が起源だと言われます。つまり「少しのものからでも、何万倍の収穫が得られるから、どんな小さなことも大切にせよ」という戒めの意味だったそうです。この「一粒」とはお米の元である「籾(もみ)」のことを指し、「一粒の籾が、丹誠を籠めているうちに何万倍にも実る稲穂になる」という意味です。

最初は、一粒からはじまるという真実。そしてその一粒こそが、永い時間をかけて万倍に、いや無限に広がっていくという意味。

まさに、生成繁栄の原点を感じる言葉がこの一粒万倍なのです。

大安だからとか仏滅だからとかではなく、どのような心掛けでその日を迎えるか。どの日も謙虚に受け容れる人にはその日はすべて一粒万倍日ということでしょう。

今日は、新たな仲間たちが徳積堂で集まり、「磨く」一日です。

この日の原点を忘れないように、丁寧に過ごし、お餅つきを楽しみ、磨き合いの暮らしフルネスを楽しみたいと思います。

徳の道

昨日は、徳積財団の理事長と一緒に故郷の御大師様の御堂で新著の写真撮影を行いました。もともと、財団をつくる切っ掛けになり、ご縁を結んでいただいた場所で初心を忘れないためにもいいお時間になり仕合せでした。

理事長と私が親戚になったのは今から2年前、偶然、この御堂の屋根の修繕をしようと私が進めているところに紅白幕がかかっており、そこに理事長の名前があったのがきっかけです。

御堂のお世話をしていただいてる方から、連絡を取って一緒にやったらいいのではないかとアドバイスされ連絡を取りました。お会いするとどこか懐かしい感じがして出自などをお伺いすると私の祖父の家の隣で育っており、お墓も隣同士、趣味も感性も似ていてちょうどその時に私が先祖のルーツを辿っていたところから一緒に市役所とお寺にいき過去帳を調べたらなんと同じ先祖の名前があって親戚であることが判明したのです。

お墓はバイパスができて失われましたが、隣同士にお墓があるのは兄弟であったこともわかり意気投合していきました。御堂を茅葺で修繕するという話は、時期尚早ということでなくなりましたが不思議なご縁で徳積財団として藁葺の古民家を甦生させるという取り組みを一緒に行うことになりました。そして御堂のお世話をしていただいていた方が、その古民家の地域の重要な人でもあり応援していただくことになりました。

また約20年近く空き家だったその藁葺を買い取り、提供してくださる方の家の玄関にもお大師様の御堂がありました。人のつながり、土地のつながり、時のつながり、信仰のつながりが合わさって徳を積むための場をととのえてくれています。

場に力が集まってくることで、その場に不思議なご縁が結ばれはじめていきます。

昨日はその意味を深く味わい、一枚の写真にいのりを籠めました。この写真は、湿板写真といって明治の頃のカメラを使いその当時の薬品の配合で撮影されます。まさに、天候や湿度や気温などに左右され、人間の五感をフル稼働して撮影する難しい技術ですが二度とない一期一会の写真が撮影されました。

色々なことが結ばれてはじまったこの日を忘れない。

そういう日々をこれからも生きていきたいと祈る一日になりました。子どもたちの100年後、そして世界の1000年後のために今私が何をすべきか。そしてどう生きるか、真摯に向き合い偉大な見守りを感じながら徳の道を切り拓いていきたいと思います。