無念無想の暮らし

先日、北海道からきてくれた友人と一緒に祐徳大湯殿の原点サウナを楽しみました。サ道の話で盛り上がり、この時代に必要な豊かさやゆとりの時間などについても語り合いました。

この方は、御実家が茶の湯のたしなみがあったようでお母さんの背中に茶の心のようなものを見てきたことがあったようです。私がこの原点サウナに5時間以上をかけてじっくりと炭火をいれて整えた話でまるで茶道のようだと感心してくれました。

また昨日、来られた方からは「一人ひとり、一件一件に真心を籠めて取り組まれている姿に自分の価値観も換えられました」と話をいただきました。1年半ほどのお付き合いになりますが、数字や時間のことなどは気にせず、ひたすら目の前の人にいつものように今を大切に取り組んでいるという印象だったようです。

今に心を籠めると書いて「念」といいます。

本当の念とは何か、それは無念無想のことだと私は思います。この時代でシンプルに言うと、何も考えないで今を味わうといっていいかもしれません。もしくは、ただ心のままに実践を続けるといってもいいかもしれません。

私にとっては無我の境地というものは、別に自我を捨てようとすることでもなく、中庸のようにバランスを保った状態であることなどではありません。自分の使命に熱中することや、ご縁を大切に一期一会を味わい盡すような中にこそ存在しているように思っています。

時代的によく呟かれる今を生ききるという言葉はきっと、心を籠めていきていくということでしょう。心を見失い、心が荒廃してきているからこそ、そういう生き方が憧れられるのかもしれません。

心は悠久であり、永遠のままです。

心を友として、心のままに歩んでいくとき、心は今にしか棲んでいないことに気づくものです。これからまもなく完成する徳積堂で茶の道にも入りますが、磨き澄み切った茶の湯に心を投影し月の雫のような深い味わいに挑戦していきたいと思います。