真に豊か~懐石の真心~

例大祭の準備がはじまり、精進料理を食べ始めます。本来は、潔斎は数か月前からのものもあれば1ヶ月前のものもあるそうですが現代は、仕事をしながらの会食もあり、なかなか難しいものもあります。

実際には、一汁一菜の暮らしをしていれば日々の暮らしそのものが精進料理ですから何の問題もありません。そのためには、日々の暮らしをととのえ、日ごろの料理を丹誠を籠めて取り組んでいくことになると思います。

まだ私にはできていませんが、暮らすように神事をし、その神事によって暮らしを充実させていきたいと思っていますから少しずつ近づいていきたいと思っています。

料理といえば、懐石料理というものがあります。現代では、和食のコース料理の名前などで使われていますが本来は禅僧が空腹をしのぐために懐に入れていた「温石(おんじゃく)」が由来です。

この温石とは腹や胸にいれて体を温めるカイロのような役割の石ですが、食べ物がない時代、その空腹をやわらげる効果もあったといいます。もともと禅宗の修行僧の食事は一日一食のシンプルなものです。満足に食事を摂らないと体を温める機能も低下するので温石で暖をとりつつ空腹を和らげたといいます。

また懐石料理が、おもてなしにつながるのは千利休によるものです。禅の思想、侘茶の精神を懐石に倣い見た目だけを重視した華美なものよりもお茶や料理を体に負担なく本来の自然と美味しいものを最善としました。

「利休百会記」の記述には、「天正18年9月に古田織部を招いた際の膳の内容は、飯のほかには鮭の焼き物、小鳥の汁、ゆみそ、膾の一汁三菜。」とあります。

本来の満たすというものに、豪華絢爛な欲望を満たすのではなく、いのちや心を丸ごと満たすという「足るを知る」ことがこの懐石の意味であるように私は思います。決して質素だから貧しいのではなく、本当の豊かさはそのシンプルな生き方の中にある。そしてこの懐石こそ、ないものねだりをするのでなくたとえ空腹であっても心は満たされていきそしていのちの温かさを感じられるところに本当の「食」の意味があることを悟るというものなのかもしれません。

いのちやこころは、膨大な量は必要ありません。ほんの僅かであったとしても、そこに真心があれば真に豊かなのです。

例大祭の準備を慎んで、執り行っていきたいと思います。