英彦山修験道の本丸

以前、修験のことはブログで書きましたが私の故郷福岡県には日本三大修験道場と呼ばれる英彦山があります。ほかには、奈良県の大峰山、そして山形県の出羽三山があります。

大峰山は修験道の開祖である役小角が、悟りに達した修験道発祥の地と言われ、出羽三山は崇峻天皇の御子の蜂子皇子が開山したと伝えられています。そして英彦山は北魏の僧・善正上人が彦山を練行の地と定め、洞窟で修行したといいます。

それぞれに最初の一人からはじまり、今ではそれが日本三大修験道場になっています。英彦山には最盛期に3800の僧坊があったといわれています。それだけ最初の一人の想いや祈りがつながり、時代を超えてそこに物語を創造したのでしょう。今では、荒廃が進み、荒廃が進んでいるといいます。

修験道というものの歴史は、今がとても難しい時期にきています。少しだけ整理すると、最初に飛鳥時代の役小角(役行者)のころから、修験としての思想は確立され、全国各地に修験道場が開かれていきます。この開祖の遺風に拠って在家主義として今でも山伏たちは信仰を守っています。

そして平安時代のころから盛んに信仰されるようになり、仏教伝来以前からの日本土着の神々への信仰(古神道)と仏教の信仰とを融合させる「神仏習合」の形態がとられました。つまりむかしの信仰のままに、人々は山に入り穢れを祓い山から智慧をいただき里での暮らしを営んだのです。

その後は、神仏習合の形が出て神社の境内に神宮寺が、寺院の境内に「鎮守」としての守護神の社がそれぞれ建てられ神職、あるいは僧職が神前で読経を行うようになりました。この神仏習合が、仏教の一派である密教(天台宗・真言宗)で行われていた山中での修行と、さらに日本古来の山岳信仰とが結びついて、修験道というものになったのです。 江戸幕府は、慶長18年(1613年)に修験道法度を定め、真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに属さねばならないとしてより密教や仏教色を強めます。

そして解体されていくのは、明治元年(1868年)の神仏分離令に続き、明治5年、修験禁止令によって修験道は禁止となりました。里山伏(末派修験)は強制的に還俗させられ、また廃仏毀釈により、修験道の信仰に関するものもすべて破壊されていきました。それから日本全国に存在していた修験道場は衰退していくことになったのです。

それまであったこの修験道をなぜ禁止にするに至ったか、これは明治政府が欧米に急ぎ追いつけと近代国家形成を目指し中央集権的政府の確立をはかるとき、天皇を中心とした祭政一致国家の建設のために国家神道を設けで、尊王思想を普及させたことが一因にあります。その神社神道を国家の宗祀とするための政策を行うときにこの修験道は大いに邪魔になったのです。廃仏毀釈もその一環として行われました。国家神道普及のために山伏の悪評を最大限に利用し仏教施設や仏具もろとも民間に普及していた修験道自体が近代国家のための障害であるとして排除したといいます。

英彦山には霊泉寺というお寺があります。

これは明治時代に破壊された英彦山修験を復活させるために戦後に修験道の方々の想いを集め建立された寺院だといいます。英彦山修験道の本山であり、山号は英彦山といいます。

私は不思議なご縁で、私の名前はもうお亡くなりになっていますがこの復活に尽力したご住職の方に名付けられました。それがここにきて、新たな展開につながりご縁にまた導かれているのを感じます。

英彦山の甦生は、日本の甦生につながります。

子どもたちに確かな歴史が結ばれ、それがつながりいのちや魂の甦生になるように私に与えられた役割を果たしていきたいと思います。