普遍的な幸福論

貝原益軒の養生訓は、人がどう生きることが幸福であるかを平易な言葉でシンプルにまとめているものです。人間は、足るを知らずついないものねだりをしてはかえって健康の大切さを忘れるほどに日々を費やしていくものです。

しかし本当は、すべてはないものはなくあるものの中に存在していて幸福もその中に存在するという事実は普遍的な事実でもあります。養生訓にもそのことが記されています。

「ひとの身体は父母を本とし、天地を初めとしてなったものであって、天地・父母の恵みを受けて生まれ育った身体であるから、それは私自身のもののようであるが、しかし私のみによって存在するものではない。つまり、天地の賜物であり、父母の残して下さった身体であるから、慎んで大切にして天寿をたもつように心がけなければならない。これが天地・父母に仕える孝の本である。身体を失っては仕えようもないのである。」

この身体は、もともと何でできているのか。天地和合した存在がこの肉体、なので自分のものであって自分のものではないからこそ慎むことが真理であるといいます。だからこそ親孝行するようにこの身体を大切に使うことであるといいます。つまり両親や天地自然から預かったものだから最期まで大切に大事に使っていこうという気持ちこそがまず第一であるというのです。

そしてその慎みを実践するために、心の状態、精神の状態、肉体の状態において何が大切であるのかを説きます。特に大切なのは心の状態のことをいいます。どれだけ裕福になったとしても、心豊かでなければそれは真の意味で裕福であるのではないともいうのです。つまり心豊かではないことこそが、病気の根源であるとしたのではないかと私は思います。予防医学や未病として、この発想こそが私は重要であると思うし現代人にも必要な教訓があるように思うのです。きっとこのあたりが、特に江戸時代の人々に共感されたところではないかと思います。少しひも解いていきます。

真の裕福さにおいてはこういう言い方をしています。

「およそ人間には三つの楽しみがある。一つは道を行ない心得ちがいをせず、善を楽しむこと。二つは健康で気持よく楽しむこと。三つは長生きして長くひさしく楽しむことである。いくら富貴であっても、この三つの楽しみがなければ真の楽しみは得られない。」

「ひとり家に居て、閑(しずか)に日を送り、古書をよみ、古人の詩歌を吟じ、香をたき、古法帖を玩び、山水をのぞみ、月花をめで、草木を愛し、四時の好景を玩び、酒を微酔にのみ、園菜を煮るも、皆これ心を楽ましめ、気を養ふ助なり。貧賎の人もこの楽つねに得やすし。もしよくこの楽をしれらば、富貴にして楽をしらざる人にまさるべし。」

まず3つの楽しみの裕福さを道を実践し、徳を積むのを楽しむ、そして健康を楽しむ、末永く楽しむと定義します、歳を重ねる喜びその仕合せを味わうのも貝原益軒の生き方であったといいます。そして具体的な「真の豊かな暮らし」がどのようなものであるのかを説きます。真の裕福とは、この日本的で伝統的な暮らしにこそあるといいます。これは私の提案する暮らしフルネス™とほとんど同じです。

そして日々の実践としては、「心を平静にし、気をなごやかにし、言葉を少なくして静をたもつことは、徳を養うとともに身体を養うことにもなる。」とまとめています。

人がどう生きるのが仕合せなのかということを示したものとしては、シンプルでそれは貝原益軒が85歳で亡くなるまでに得た教訓がこの養生訓だったように思います。私が特に印象に残ったのは、「徳を養うことが身体を養うことである」という一文です。

この徳を養うことの正体とは何か、これを貝原益軒のこの言葉で締めくくります。

「自ら楽しみ、人を楽しませてこそ人として生まれた甲斐がある。」

何が真に自らを楽しませるのかを知るものこそが真の豊かさを持つものであり、その真の豊かさを知るものこそが周囲の人を真に楽しませることができる。そしてそうやって道楽に生きる人たちこそが生き甲斐を持っているのであると。

暮らしフルネス™をいよいよ発信し、真実の暮らしを甦生させて普遍的な幸福論をこの場から発信していきたいと思います。