歴史の教訓

何かのご縁から歴史の後を辿ってみると今まで知らなかったことがたくさん掘り起こされてきます。むかし何があったのか、そしてどうして今こうなったのか。そのプロセスを学ぶ中にこそ、今の世の中で何を大切に生きていけばいいかという教訓や智慧なども学び直すことができます。

先日、福岡県添田町の英彦山にある銅の鳥居にご縁がありその力強い文字に深く魅せられました。これを洪浩然(号は雲海)が書かれたものです。この人物は文禄の役の際の被虜朝鮮人として12才のとき、鍋島直茂により、慶尚道 晋州から佐賀まで連れてこられた方です。その後、京都五山で学問を修めたのち、初代佐賀藩主 鍋島勝茂に仕えました。

明暦3年(1657)3月24日、鍋島勝茂が江戸で没したその報を受けて4月8日、洪浩然は上今宿の自邸で「忍 忍則心之宝 不忍身之殃」と揮毫し、子孫への遺訓として子に与え、阿弥陀寺で追腹を切って亡くなったとあります。この追腹とは主君を追って切腹することです。今では考えられないことかもしれませんが、大義のために自分を盡し主従一体の忠を生きた時代の価値観がなしたことかもしれません。

この洪浩然は朝鮮から連れて来られはしたものの一生をかけて大変な人生を歩んでいくなかで、この不遇不運の人生の中でも何を大切に生きていけば仕合せであるかを子孫たちに生きていくための「書」として絶筆を遺します。力強い文字の中に、人生を翻弄されても大切なものは「忍ぶ心」によって活かされたというのです。思い通りにいかない人生の中で、最期までに忍耐を貫いた生き方が観えてきます。

もともとこういう生き方の方だからこそ、鳥居の境界の文に相応しいと感じます。もともと鳥居は、神聖な場所(神域)と、外側の人間の暮らす場所(俗界)との境界を顕すといいます。そして神域に不浄なものが入ることを防ぐ、結界としての役割もあるといわれます。

吉野山にも銅の鳥居がありそこの扁額には「発心門」と書かれ修験者は鳥居に手を触れ「吉野なる銅の鳥居に手をかけて弥陀の浄土に入るぞうれしき」と唱えて入山するといいます。

きっと英彦山も銅の鳥居もまたここに手をかけて、弥陀の浄土に入るぞうれしきと唱えていたのでしょう。

歴史は、そのものが教訓であり智慧そのものです。子孫たちにどのような願いで文字を刻むのか、そして伝えていくのか、まだまだ学ぶことばかりです。