自分で考える

人は自立していく上で大切なのは「自分で考える」ということです。この自分で考えるというのは言い換えれば「自分で気づく」という力のことです。人生はあらゆることが自分の中での気づきや発見で彩られていきますから誰かの人生を代わることはできません。

常に自分が自分の人生の主人公になって生きていく必要があるのです。その時、大切なのがこの自分を生きるために、自分で気づく人になるということです。

自分で気づく人というのは、説明が要りません。よく私は変わったことばかりをしているように周囲が見えるようで、またとても遠くのことのために歴史を遡り、損得を度外視して行動していきますから意味不明のことをやっているようにしか感じられないのかもしれません。

その時、説明をするようにいろいろと聞かれますが説明はしても全体のことが伝わるというのはほんのごく一部だけです。その時に、説明がわかりにくいという人もいます。説明ができないからよくないというのです。

確かに人に伝える技術というものを持つことで、わかりやすく誰にでもわかるようにすることは大切です。しかし、それはテレビや報道、記事など、もしくは広告宣伝をする時などにはいいかもしれませんが志や実践、もしくは学ぶということにおいては説明よりも気づくことの方が大切なのです。

気づくというのは、説明は要りません。自分の中で、その実践に近づいていき自らがその本質を掴むために気づくのです。気づくことで、人は真に成長しますし、気づきによって本当のことを掴むことができます。

つまりどんなに説明しても理解できないのは、説明する側の問題ではなく気づく側の問題だということなのです。私は今までの人生で、人生の達人といわれるような一道を究めた人たちに何人かお会いして学びをいただく機会がありました。

その人の説明の仕方がわかるかどうかではなく、どうやって近づこうか、どうしたらこの人の学びの深淵に触れることができるのかと謙虚に気づこうと真摯に取り組んできました。

その人の存在から醸し出される片鱗を感じ取り、言葉にならない実践や生き方などを直観して気づきで近づいてはじめて少しだけ悟りに触れるという具合です。それでも実践してまたお会いすると、気づきの差が観えてさらに学びを深めようとする意欲が高まります。

これを説明してくださいとは言いませんし、わからないのは相手の説明が悪いなどとは決して思うこ思うことはありません。最初から説明してもらおうという学びもないし、そんなに甘えていたら自分で考える力が失われてしまうのです。

今の教育は、なんでも先生や上の人が下の人に教えることが当たり前だということになっています。そして気づくことよりも、教え方がいいとか悪いとか相手のせいにばかりしては自分で気づくことの大切さが伝わっていません。自分の問題だと気づかないくらい、気づくことが失われているともいえます。

畢竟、人生は「気づく」ことができるかどうかで意味が変わります。そして自分で考える喜びや気づくことの仕合せが人生を真に豊かにするのです。

子どもたちのためにも、自ら気づける生き方を伝道していきたいと思います。