落雁の価値

昨日、伝統菓子の落雁(らくがん)を専門でつくる会社を経営する方とお話をする機会がありました。この時季、お盆のころは落雁は必ずといって身近にあったものですが改めてこの伝統和菓子の落雁のことを少し深めてみようと思います。

落雁は、名前が特徴的ですが名称の由来には諸説あります。例えば、明の軟落甘 (なんらくかん) から「軟」が欠落して転訛したという説、また形が落雁に似ているところから近江八景 の一つ「堅田落雁」からという説、そして本願寺綽如上人がこの菓子を後小松天皇に献上した時に白色の地に黒ごまの点在する様が雁の渡る姿を連想させたので「落雁」としたという説があります。もともとこの落雁という言葉の意味は、「空から舞い降りる雁」という意味で秋の季語でもあります。

この落雁のお菓子に似ているものに和三盆がありますが原材料がまず異なります。落雁は米粉を使い、和三盆はサトウキビ(竹糖)を用います。

落雁は、このお米の澱粉質をの粉を使い、様々な模様の木型に押し付けて圧縮し最後に乾燥させるという具合でつくります。他にも澱粉質の粉のみを蒸籠で蒸すやり方や、最初にすべてを混ぜてから蒸し上げて乾燥させたりと実際には様々な製法の落雁があるといいます。

この落雁は、中国から伝わったお菓子だといわれます。もともとは釈迦が弟子が僧侶に振る舞ったお菓子でありそこから仏事に用いるお供え物の代表となりました。

具体的な由来は、釈迦の弟子目連の話からですです。「目連の亡母が天上界に行けず餓鬼道に堕ちているのを見つけました。その亡母に水や食べ物を差し出しても、炎となってどうしても口には入りません。そこで釈迦に問うと、「すべての修行者に食べ物を施せ。さらば母親にも施しとなるだろう」との助言をもらい修行者に甘いものの施しをしたところ、修業者たちの喜びが餓鬼道にも伝わり母を救った」とあります。この故事から落雁を先祖に備えるのは施餓鬼をして、餓鬼道に堕ちた者を救うための供養となりました。

そして広がったのは、江戸時代に茶道と共にその茶菓子として安価な材料で作った落雁が出回るようになり仏事に用いる特別なものだけではなく庶民のお菓子として親しまれ今にいたります。

現代では、甘い砂糖やチョコレートなどの洋菓子などの文化が流入してきたと同時にご先祖供養の風習も失われてきてあまり落雁を食べるという機会も失われてきました。また落雁もスーパーなどで売られているものは、落雁風のものばかりで食べても美味しくなくなりさらに人気がなくなりました。

日本でも落雁のみをつくる老舗もあとわずかに残るだけです。

子どもたちには、この落雁が持つお供えや室礼、そして信仰などとの深いかかわりがあること。日本人のお米を使った味覚、滋味を味わう大切などを伝承していきたいと感じます。

未来のために、大切なものを引き継いでいけるようにご縁を深めていきたいと思います。

 

季節感の幸福

私たちの暮らしには季節感というものがあります。この季節はこの風物詩というように季節のリズムと共に歩んでいます。四季折々に私たちは小さな変化を季節から感じとって自然の流れに身を任せていきます。

なぜそれをするのかといえば、その方が豊かで仕合せなことだからです。私たち人間のもっている感性の磨き澄み切った場所にある幸福感とは自然と一体になることです。

自然から離れ、私たちは便利な世の中にしていき人間社会を発展させてきましたがそれと反比例して幸福感というものの感性は鈍ってきました。精神的にも病む人は増え、空しい比較競争ばかりで疲れてきています。

本来、私たちすべての地球上の生き物は足るを知る暮らしを知っており自然と共に生きていく中で真の幸福を味わい、この世に生まれてきた喜びを心から享受してきました。

何もない中に深い味わいのあるいのちがあり、そのいのちが活かされていることを知り自分の役割を知らずして知るという具合に存在そのものへの感謝を味わい暮らしをしてきたのです。

そういう意味で、四季折々の変化を味わうということが幸福感と直結していることは自明の理です。

忙しすぎる現代人において、只管お金を稼ぐために色々なものをそぎ落として暮らしを喪失していきましたが子どもたちには本当の豊かさ、真実の幸福を味わえる環境を用意していきたいと願います。

暮らしフルネス™の実践と場が、未来を幸福にしていくことを祈り今日もご縁を結んでいきたいと思います。

食の問題

昨日は、土曜の丑の日で全国的にうなぎを食べる人が多かったように思います。私もうなぎが大好きで、炭火を使って白焼きでじっくりと焼いて特製のタレをつくって食べますが香ばしさと滋養で元氣が湧いてきます。

そのうなぎですが、安いもので輸入品、そして養殖、天然とありますが無投薬というものを見かけました。この投薬とは何か、それは抗菌剤を使っているかどうかということです。

食の問題は、農薬をはじめこの投薬残留の事件が発覚するたびに人間のモラルの低さを感じます。それは健康で安全なが抜けていて、売れればいいということが優先されそのことによって信頼というものが失われています。

うなぎでいえば、輸入のうなぎから合成抗菌剤のマラカイトグリーンが基準値を超えて検出されています。これはもともと水カビ病の薬で養殖には使用が禁止されているものです。人間には発がん性があるので食品としては禁止されています。

この抗生物質や合成抗菌剤はあらゆる養殖で使われています。養鶏や乳牛の餌に含まれていたり、生き物にとっては過酷な環境(高密度で汚染、運動不足等)で飼育されるので病原菌が増えたり病気になったりと問題が起きます。これは農業も同じで、すぐに農薬を使って対処していくように養殖でも同様に投薬をして飼育するのです。

それが毎日食べているものの中に残留していきますから、私たちはほんの少量でも日々に食事でこれらの薬を摂取し続けていることになるのです。それが蓄積されることによって私たちも病気になる可能性もあるのです。

ちょうど鹿児島県で養殖時に抗生物質・合成抗菌剤は使用せずに飼育している会社の環境がウェブで紹介されていました。そこでは養殖場責任者の家が養殖場の中にあり24時間鰻と共に暮らしています。霧島のきれいな地下水が豊富にある自然豊かな環境と養殖に携わる者の鰻に対する熱意が無投薬養殖を可能にしたとあります。安心安全にこだわり水を汚さないことを徹底されている工夫があります。

何が大切なのかを忘れないで取り組んでいる人たちは、善いものを後世につないでいきます。目先の利益だけを追いかけて、目的を見失えば因果応報があります。だからこそ、常に目的を忘れないこと、その目的が健康や安心であることは食に携わる以上、もっとも優先するべきものだと私は思います。

私の会社も、無施肥無農薬でむかしの田んぼをしていますし畑などでも農薬を使いません。烏骨鶏の餌も、玄米や雑草、虫たちを与えています。どれを食べても安心で安全、そんな信用や信頼がある社会になってはじめて世の中は豊かさの深い味わいを楽しめるように思います。

子どもたちのためにも、食の問題は私たちの世代のうちに解決していきたいと思います。

理念や初心を受け継いでいく

私たちが今、この世に存在するというのは代々、このいのちを繋いできてくださったご先祖様がいるということになります。そのご先祖様たちは、この期間、様々な困難や幸福と出会い、あらゆる体験をして子孫に願いを引き継いできました。

そこには目には観えないような理念があり、代々受け継がれてきた初心というものがあります。目には観えないというのが特徴で、それは本能的に直観的に私たちの心身の深いところにいつも存在したまま眠っています。

それを毎回確認しながら、ご先祖様の大切にしてきた理念や初心を現代に甦生させていくことで私たちは最初から始まった物語の続きを体験し体現し続けているということになります。

つい私個人の発想からは、目に見える範囲内でしか物事を考えなくなりますが本当は偉大な使命や役割がありそれを果たそうと子孫たちに想いや願い、祈りとして継いでもらっているということになります。

そう考えてみると、形あるものを受け継いでほしいとご先祖様は思うのでしょうか。もしも私がご先祖の一人になるのなら形よりも大切な理念や目的、初心を受け継いでほしいと思うのではないかと思うのです。

なぜなら時代と共に形あるものは必ずいつかは喪失します。それがこの世の理であり、歴史が証明しています。しかし人類が滅ばないのは、その理念を受け継いでくれる人たちが現れているからです。ひょっとすると、それは直接の血縁者ではないかもしれません。時として外国人であるかもしれません。あるいは、職業、年齢、男女なども関係ないかもしれません。

しかし確かに、その想いを受け継いでくれる人がいる。

その御蔭で、私たち人類は今でもあらゆる文化の恩恵を享受されこの世で智慧と深い愛情をいただき続けていくことができているのです。

時代はますます変わります。そして私もまたこの時代の世代の一人であり、いつかは死にます。それまでの間に、どう役割を果たしていくか。そこには必ず理念や初心の伝承の力が入ります。

子どもたちに、この理念や初心を受け継いでいくことの大切さを伝承していきたいと思います。

人類の進む道

先日、うちで飼っている犬につないでいたレールが外れ行方不明になっていました。今まで13年間一緒に過ごしてきましたが一時的に首輪が取れたりしたことがあっていなくなっても大体近くにいて遠くにいくこともなかったので安心していましたがそれがすぐに帰ってこず、ずっと心配して必死に探し回っていました。

あちこち探しても、呼んでも返事もなく途方に暮れて張り紙やインターネットで迷子犬としてあちこちに告知をしてみようと手を盡していたら保健所に保護されていることがウェブ上に掲載されていました。警察に落とし物として届け出があり、そこから保健所に保護されたようです。ずっと事故にあったのではないかと不安だったので、写真を見たときは感謝と涙がこみ上げました。

ちょうど連休を挟みましたからすぐに保健所に連絡をして受け取りにいき無事に家に帰ってきました。犬といっても一緒に暮らしの中でかけがえのない大切な存在ですから家族の一員です。

今回、保健所の方とのお話でもしも受け取られない犬がいたらどうなるのかとお聞きしたらガス室で殺処分されるという話がありました。改めてこの現状を調べてみると、悍ましいほどにこの国で犬や猫が殺処分されているのがわかりました。

昨年、2020年の犬猫の殺処分数は犬7,687匹、猫30,757匹 の合計 38,444匹とあります。ワーストでは愛媛県(1,987匹)、福島県(1,770匹)、香川県(1,585匹)とあります。動物愛護管理法の改正、行政と民間の動物保護団体が連携し、新たな飼い主への譲渡を推進していて殺処分数はここ10年でだいぶ減少してきたともいわれます。それでも1日に105匹ほどの犬猫が保健所で殺されているという計算になります。

以前、アライグマの時もこのブログに書きましたが安易に飼育できると買ってきては手がつけられないと手放してしまいそれが野生で繁殖するということもあります。また飼い主が死んでしまったりボケたりして飼えなくなる、他にも人間の都合で飼えないからと殺処分しているともいわれます。

動物愛護団体が色々と対策をたてて活動していますが、そもそもの分母が増えていく一方ですからゴミ問題と同じで根本的な解決にはなりません。人間が安易に購入しては捨てるというこの自然の環境を破壊するあり方そのものを見つめ直すしかありません。

調べる中でガス室で二酸化炭素で殺処分する映像や写真を見ましたが、あれはまるで以前学校で見た第二次世界大戦のころのドイツのアウシュビッツ収容所そのものでした。実際には安楽死させるとありましたが、あんなものは安楽死でもなんでもありません。大量に一気に部屋に押し込みガスで呼吸できなくして苦しんで死ぬ。今まで一緒に過ごしてきた犬たちはどんな気持ちなのだろうかと感じます。家族と離れて収容されて、時間が来たらシステマチックに命を奪われる。孤独と不運を呪い、悲しさと寂しさで心が潰れそうな状況で死んでいくのが想像できます。

人間の悍ましさというのは、時代が変わっても本質的には変わりません。環境の影響次第では人間はどうにでも適応して思考停止してしまうのです。これはどの問題でも同様で例えば食品ロスの問題などもですが「人間の暮らし方そのもの」に端を発しているのです。

平和というものは、本来は部分最適だけをいつまでもやっても訪れることはありません。私たちがよくよく自分たちの暮らしをみつめ、どうあるべきかを今一度見直しその暮らしを変えていくしかないのです。環境そのものを変えないと生き方の実践をしていかないとどうにもならないのは歴史が証明しています。

21世紀は、まさにこの今までの人類の永続的な暮らしが資本主義という名の人間の業によって失われた世紀でした。このままでは人類はあらゆるいのちが軽く処分されていくように人類もまたその同じ道を辿ります。今、まだ気づけるうちに人類の進む道を易えていくしかありません。

同じいのちという存在をどう慈しみ大切にしていくか、そのためにどのような環境をみんなで用意していくか。私たちが志を立てて草莽崛起して、在り方や環境を自分自身でできるところから暮らしを易える実践していくことが重要です。

引き続き、ご縁に感謝しながら子どもたちの未来のために暮らしフルネスを実践していきたいと思います。

 

気づくことの大切さ

人は何でも失ってみてはじめてわかるものがあります。ある時は、当たり前と思っていてもなくなってしまうとどれだけ大きな存在であったかということに気づくのです。

私たちの心には、いつも繋がっている存在がありその存在によってご縁を結んでいます。その結んでいるご縁の存在にどれだけ心が救われているのかと思うと計り知れないものであることに気づきます。

例えば、居場所という存在、信頼する人とという存在、心の拠り所というものがあります。

私たちは生きていく中で、お互いを支え合い助け合い自分を立てていることに気づきます。自分の人生の中で、深く関わっているご縁は安心基地を醸成していきます。その安心基地の存在は年齢と共に少しずつ変化していきます。

私たちは人生の中で、最初に父母に恵まれ、家族に恵まれ、友人、仲間、あらゆるものに恵まれてその人生を成り立たせていきます。どの存在も深く自分というものに結ばれているもので、そのどれが欠けても自分というものはできません。

そう考えてみると、この自分というものを形成するのは周囲の存在があってこそということに気づきます。その存在が喪失していくことの深い悲しみ、そして新しい存在が誕生することの仕合せ、こうやって私たちの心はそれぞれに拠り所と出会い人生を彩るのです。

失ってみてはじめてわかるのは、自分の心の拠り所の一つであったという事実。そして一緒に生きてお互いに助け合い支え合って生きてきたという事実。さらに、お互いに愛を与えあい結ばれた存在であったという事実があるということです。

ずっとあると思えば、どうしても粗末になってしまうのが人間です。なくならないと思うから大切にしなくもなるのです。しかし、加齢とともに出会いと別れを繰り返していくとそれがいつかは失われていくことに気づいていきます。

だからこそ、このかけがえのない一瞬、一期一会を大切にしたいと心が感じるようになるのです。失いかけて気づくものもあれば、失って気づくものもある。そして失わずに気づくこともあります。

私たちは気づきをし、心を取り戻していきますから大切なことに気づく日々を過ごしていきたいと思います。子どもたちにも、このかけがえのない日々に感謝できる環境を見守り続けていきたいと思います。

場を磨く

私の故郷は、もともと庄内村ですが嘉麻郡を経て嘉穂郡となり飯塚市なっています。この嘉麻郡の由来は日本書紀巻18に安閑2年(535)安閑天皇の条に筑紫の穂波屯倉・鎌の屯倉等を置くというものが由来です。

和銅6年(713)に諸国の郡郷名に好字を付けることが命令されそのときに嘉麻の字になりました。そして明治29年(1896)に嘉麻郡、穂波郡が合併して嘉穂郡となるまで約1,300年間は嘉麻郡のままでした。そしてこの年、嘉麻郡と穂波郡が合併して嘉穂郡 となりました。その後はこの嘉穂郡の一部が飯塚市の中に組み込まれて今があります。

少しだけ前に遡った明治22年ころまでは、庄内村は綱分村、赤坂村、筒野村、高倉村、入水村、山倉村、有安村、多田村、仁保村、大門村、元吉村、有井村で構成されていました。現在まで私が住んでいた場所は、この中の綱分村と有安村です。

この綱分村にも綱分八幡宮を中心に歴史があり、有安にも獅子舞をはじめとした文化が遺っています。

現在、合併を続けていく中で、それまで大切にされていた村やその場所の歴史も次第に失われていきます。小さく分かれていた時は、その小さな中で文化の誇りや遺徳、信仰なども細かく語り継がれてきました。それがなくなっていくというのはとても残念なことです。

合弁して簡単に一つにしますが、本来その場所は風土によって環境も文化も完全に異なるものです。日本国土が自然豊かで多様性があるように、その場所場所は多様性に富んでいます。

地名が一つなっても場所の魅力というのはそれぞれで異なるのです。その場所を知り尽くしている人は、その場所の魅力を知り磨き続けていくことができます。私はこの庄内村出身ですが、この場所のもっている徳や歴史が身体に沁みこんでいます。だからこそ、この場所の活かし方や使い方、もっている魅力を引き出すことができるのです。

こうやってそれぞれの故郷でみんなが魅力を引き出し磨きだせば、日本という国は多様性に富んださらに温故知新された場所に甦生していきます。すぐに東京や大都市圏に憧れてそこにいきますが、本当はその産まれた場所を磨き上げていくことが子孫たちの使命でもあります。

引き続き子どもたちのために暮らしを整え、場を磨き上げていきたいと思います。

そうめんの由来

昨日は、藁ぶき古民家の和楽で息子たちが青竹から準備してくれて「流しそうめん」を楽しみました。まさに夏の風情というか、雰囲気でだけでも涼が味わえ豊かな時間を過ごすことができました。

この「流しそうめん」は、最初は青竹で器をつく井戸水で冷やしたそうめんを食べたことで発想されたものではないかともいわれています。そのそうめんを流すようになったのは宮崎県の高千穂峡の真名井の滝の傍にある「千穂の家」が発祥といわれます。発案は、もともと江戸時代に琉球で薩摩の役人をおもてなすときに那覇湾の崖の上から落下する綺麗な泉流の上源からそうめんを流して、途中ですくって食べてもらうということをやっていたものがありました。このことをヒントに昭和30年頃にこの高千穂峡で本格的に流しそうめんがはじまったのです。

もう一つ、似た名前のものに「そうめん流し」があります。呼び方の順番が逆になっただけですが、実際には違いがあります。これは鹿児島県の指宿市にある「市営唐船峡そうめん流し」として昭和37年に発案されたものです。最初は同じように流しそうめんではじめていますが、途中で当時の町の助役さんが回転式のそうめん流し器を発明しました。回転式ですから、みんなで囲んで丸くなってそうめん流しを楽しめるということで珍しさと面白さと相まって人気が出ました。この助役の人はそのあと町長になっています。

ということで、竹で縦にそのまま流すのが流しそうめんで回転式のものがそうめん流しということになります。

このそうめんの呼び名の由来はもともとは「索麺」と書き、中国大陸から伝わったものです。「索」とは「なわ、つな」という意味でそこに麺が入り、小麦粉を練った細長い食べ物という意味になります。つまり「なわ、つわのような麺=そうめん」と呼ぶようになったのです。

このそうめんが伝来したのは隋か唐の7~8世紀頃(飛鳥時代~奈良時代頃)といわれますが、北宋の時代や室町時代などまちまちです。この「索麺」「索餅」という字が現代のように「素麺」となるのは麺が白いことから白い意の「素」の字を当てたとする説や、「索」の字を書き間違えたとする説もありますが今はほとんどこの「素麺」になっています。

むかしは、そうめんは庶民が食べれるものではなく宮中の七夕などの行事の時に用いられました。それだけ高級で敷居の高い食べ物でした。現在では、どの家でも夏は素麺というくらいみんな一年で一度は食べる夏の風物詩になりましたが歴史が長い食べ物の一つなのです。

こうやって一年で、節目節目に伝統的なものを上手に現代に活かしながらその大切な要素はそのままに新しくしていくことに豊かさを感じます。夏はまだまだこれから暑くなっていきますが存分に夏を味わいたいと思います。

和歌のはじまり

日本最古の和歌集に万葉集があります。これは7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂されたものです。全20巻、約4500首の歌が収められています。和歌には天皇から農民まで幅広い階層で詠まれた土地も東北から九州に及びます。

実際の記録にあるこの万葉時代は天智天皇や天武天皇の父に当たる629年に即位された舒明天皇にはじまり、万葉集最後の歌である巻二十の4516番が作られた759年(天平宝字三年)までの約130年間だといわれています。

この万葉集という言葉の意味は、「葉」は時代の意味で、それが「万」世まで伝わるようにと祈念してできたものとも言われます。この万葉集は、一人の編者ではなく多くの編者と複雑な過程を経て最終的には大伴家持により20巻にまとめられたのではないかといわれます。

また分類としては「雑歌」「相聞」「挽歌」と分かれます。

「雑歌」は行幸や遊宴、旅などさまざまなときに詠まれたものです。そして「相聞」はお互いの消息を交わし合う意で恋愛などのものが詠まれます。もう一つの「挽歌」は人の死に関するものです。

万葉人たちは、人生の節目に和歌を詠みお互いにその心情を確かめ合ったり伝え合ったり、分かち合ったりしたのかもしれません。日本人が情緒豊かである理由もこの和歌から伝わってきます。素直で純粋に美しい心を持ち、それを文章にしていく。美しい四季や自然の畏敬をそのままに言葉にしていったのでしょう。

例えば、天平のころの光明皇后が詠んだ歌があります。この方は、仏教を信仰し興福寺や東大寺をはじめ、仏教を重んじた光明子は民のために悲田院等の慈善活動に邁進された方です。以前、石風呂のことで東大寺の施浴のことを書きましたが1300年前に社会福祉のお手本の実践した方でもあります。3つほど、万葉集に収められています。

「我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし」第8巻1658番歌

「朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我が宿の萩」第19巻4224番歌 

「大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち」第19巻4240番歌

意訳ですが一つ目は、夫婦でこの美しく降る雪が眺められたらどれだけ嬉しいものか。そして二つ目は朝霧が出てきた田んぼ我が庵の萩が雁をとどめてくれようか。そして最後は、大船に乗っていく唐の国にいく我が子らをどうか神様見守ってください。というものです。

この3つからも光明皇后の人柄、その情景が心に映ります。こうやって、むかしの人たちは素直に自らの心情を和歌によってあるがままに語り合いました。今では、言葉が膨大に増えてあらゆるものは言葉で説明できるほどになりました。

しかしかつてのようなシンプルで純粋な言葉は失われ、本当の気持ちや心情が読み取れないほどになっています。複雑なものは実は本当はとても純朴な言葉になるのであり、現在のような複雑さはかえって本当のことが見えにくくなっています。私のこのブログの文章もまた、そういう意味ではまだまだまったく研ぎ澄まされているものではありません。

言葉が増えた時代のコミュニケーションと、言葉がなかった時代のコミュニケーション。時代が変わっても、万葉人たちが伝え合ったような言葉を今でも大切にしていきたいと思います。

子どもたちにも、本当の言葉が伝わっていくように和歌を学び直していきたいと思います。

 

富と徳の天秤棒 ~近江商人の初心~

近江商人の生き方をもう少し深めていますが、文化2年(1805)、近江商人の第一人者・初代中井源左衛門という人がいます。この方は長い商いの体験から得た人生訓を、浄土宗を開いた法然上人の一枚起請文にならい子孫に「金持商人一枚起靖文」を書き記しています。

「一、世間では『金を溜める人は、運がいいからで、金が溜まらないのは自分に運がないからだ』と言うが、それは愚かで大きな誤りだ。運などというのは無いのだ。金持ちになろうと思うなら、酒宴や遊興、贅沢をやめて長生きを心掛け、始末第一に商いに励むより方法はない。他に欲深いことを考えると、先祖の慈悲にも、天地自然の道理にもはずれることになる。ただし始末とけち(原文では「しわき」)とは違う
。無知な人は、これを同じように考えているが、けちの光はすぐに消えてしまうが、始末の光は現世の極楽浄土を照らすものだ。二、これを心得て実行する人が、五万、十万の大金ができることは疑いない。ただし、国の長者と呼ばれるようになるには、運も必要で、一代でなれるものではない。二代、三代と続き、善人が生まれて、はじめて長者と呼ばれる家になる。そのためには、陰徳・善事を積むことより方法はない。のちの子孫の奢りを防ぐために書した」

さらに意訳ですが、金が溜まるのは運ではない。質素倹約につとめて長い目で観て事の本末を見据えて謙虚に励むこと。そしてこれを実践すれば長い期間を得てお金は溜まる。それは何代も世代を超えて陰徳を積むから長者が出るのだと。だからこそこれを心得なさいということでしょうか。

お金持ちなったのは、先人たちの遠い子孫を思い、理念を定め徳を積んだ実践の御蔭なのだということでしょう。

例えば近江商人の中井正治右衛門は瀬田の唐橋の一手架け替えを1818年に完成しました。この工事の費用は全体で1千両かかったのですが、さらに幕府に3千両を寄付したとあります。その理由は工事の費用1千両にあわせて、後の橋の補修や架け替え等が必要だと気づき残りの2千両をそのことに使ってほしいという事での寄付でした。

長い目で観て、計画を立てて実行し、陰徳善事を盡していくところにお金持ちになる所以があります。つまり近江商人の実践の素晴らしさは、先祖からの恩恵を忘れずにそれを子孫たちへさらに陰徳を偉大にして受け継いでいくことにあるように思います。

また近江八幡出身の江戸中期の歌人の伴蒿蹊は、家訓として「陰徳あれば陽報ありとて、かくのごとく常々つとむれば、目に見える幸を得て繁盛すべし。此幸を得るためとあてにしてするは陰徳にあらず、無心にてすれば自然にめぐるなり。」と常に陰徳を積むものが富むというその富の循環の道理を語ります。

つまり近江商人はまず徳を重んじて、それ相応の富をまた陰徳につぎ込みながら地域や日本を仕合せにする実践を大切にしてきたように思います。富に相応しい徳があるかどうか、また徳が富に相応しいかどうか。天秤棒を担いで行商をしたといいますが、ひょっとするとその徳と富を常に天秤にかけていたのかもしれません。

今の時代、冨ばかりが優先されてケチになり徳があまり意識されることがありません。しかし本来は、徳があって富があり、冨があるのは徳の御蔭ですから私たちはよくよく日々の事業の本末や始末と正対して天秤にかけて内省していく必要があるように思います。

子どもたちのためにも、近江商人の生き方からの智慧を伝承していきたいと思います。