本物の道具

人類は進化とともに数々の新しい道具を産み出してきました。その道具によって今の産業は発展し現在の世の中が存在します。しかしその道具は、使い道一つで人類を滅亡させるようなものにもなれば、平和を維持するためのものにもなります。

例えば、核などはその最たるもので使い道一つで人類を滅ぼす道具になります。そう考えてみると、問題は道具の方ではなく人間の方にあることはすぐにわかります。道具を産み出すこと自体の中に人間は大きなリスクを増やしているともいえるのです。

道具と人間の生き方は常に正対するものであり、道具を使う側にも持つ形にも産み出す側にも責任が発生します。特に人間都合で産み出される便利な道具ほど危険なものです。便利さというものは、人間の欲と繋がっていますからさらに便利なものへと発展していきます。不便さがよくないということになれば、道具はすべて人間の欲の方へと傾きそのために発生する不自然で不都合なことまで隠してしまおうとするものです。

本来、先人たちは道具を自然をよく観察し産み出してきました。そしてそのすべては自然に還るものだけを用いていました。不便ではありますが、そのどれもが自然と共生するものであり人間にとっては多少都合がわるくてもその道具を用いることで人格や人間性が磨かれるものでした。

つまりは「砥石」のような、そのものを磨く対象として道具を用いたのです。私たちは道具に使われるのではなく、あくまで人間の徳性の一つとして道具をあくまで人格を磨く対象として用いたのです。

人間性を高め続けるための道具であれば、その道具は自然から離れることはありません。そのどれもは自然をお手本にして自然の智慧を抽出するものです。それは真善美といった自然の本体を参考にするものであり、人間もまたその生き方をするひとつとして道具を持ったのです。

この時代、あらゆる道具は人類全体、世界全体に対してリスクになるようなものを産み出していきます。IT技術をはじめ、遺伝子操作、バイオテクノロジーなど、挙げればきりがないほどに先進技術が用いられて道具が発明されていきます。

しかしここでよく考えなければならないことは、本当にその道具は人格を砥石にできるものか。子孫たちに責任を果たせるものかという問いです。私も温故知新して、古いものと新しいものを融和させて道具を産み出す側ですがここに徳や人格などを関係なくやるのなら子孫に大きなツケをまわしてしまいます。そうならないように先人の智慧を尊び、歴史を学び、どうあるべきかを問い続けて磨いていく必要があるのです。

子どもたちのためにも、本物の道具とは何かを深めていきたいと思います。