着物の生き方

昨日、着物の話をお伺いする機会がありました。西洋の洋服は肩で着る感じですが日本の着物は腰で着るという話です。また自分の身体に触れながら確かめながら行うので自分のこともよくわかり体形に合わせて着るというのです。

それだけ自分というものを学びながら着るということですが、これは日本の伝統の道具なども似たような感覚になるのがわかります。

私は先人の智慧を尊重する暮らしをしていますから、食事を準備するだけでも竈をはじめ包丁研ぎ、鰹節削りなどすべて感覚を使うものばかりを使います。これは自分というものを理解しながらでなければ道具を活かせません。

現在の道具は、人間力や感覚を使わなくても道具だけで完結してしまうものばかりです。炊飯ジャーをはじめ、セットさえしてしまえばあとは全部道具がやります。包丁なども研がなくていいものですし、鰹節においては削られたものが真空パックに入っていますから削る必要もありません。

しかし日本の道具は、人間の方が研ぎ澄まされていることで相乗効果が発揮できるものでしたから自分自身を磨かなければ道具一つ扱えなかったのです。私たちは、自分を道具で磨きながら年相応に、体力相応に、自分の老いや病気などと向き合いながら力の加減やかかわり方の具合などを調整していきました。

つまり自分というものと外との関係性をうまく調和させていったのです。力の抜き加減や、気の配り方などもまた道具との付き合いによって学んでいきます。道具の方を変えるのではなく自分の方を変えて対応していったのです。

今は、道具の方を変えて誰でも使えるようにしていますが確かに便利ですがそのことで失ってしまったものがあることも事実です。本来、善い道具はすべて私たち人間を磨いてくれます。人間性を高め、精神性を豊かにし、感性を研ぎ澄ましてくれます。自然物で円熟しているものであればあるほどに、魂がととのうのです。

暮らしを通して私たちは、真の豊かさを学んできました。それは時代が変わっても、いつまでも心や魂に刻まれているもので本能は忘れることはありません。風土と一体になった文化の美しさは、この磨き上げられてきた時間や時空、その場に留まっていることでより実感できるものです。

子どもたちに、どこまでは便利でどこまでが不便がよいのか。その両輪の中心が腰に据わるような着物のような生き方を伝承していきたいと思います。