カビから学ぶ

最近の長雨で、カビがたくさん繁殖しています。日本という国は、高温多湿の風土ですからカビがいないところなどはありません。現在、わかっている範囲だけでも9万種類のカビがいて室内の空気1m³中には、いつも数個から数千個カビの胞子が浮遊しているといいます。空気中には常に一定の湿度がありますから、カビは常に存在しているということになります。

このカビというのは、酵母やキノコと総称して真菌と呼びます。カビは糸のような菌糸と小さな種のような胞子からできていて菌糸の先端から栄養や水分を吸収して成長し胞子によって増殖していきます。

今でも毎年、新種のカビは発見され続けています。実際には地球上に生息する微生物のうち実に36%がカビの仲間だといいます。もはやカビは、先史時代よりもずっと前、地球誕生の時から一緒に暮らしている家族のような存在でもあるのです。

とはいえ、カビが生えるのはあまり気持ち良いことでもなく健康被害もあるものもありますからバランスが崩れるほどに大量発生されていたら困ってしまいます。早めに対応してカビが生え過ぎないように配慮していくしかありません。

少しカビのことを分類わけされているので書いてみますが、よく見かけるのは黒カビ、赤カビです。これはお風呂などによくいて、私もこれは嫌いなカビで見かけるとよく掃除します。赤カビは酵母菌の一種です。そして白カビがあります。これは食品、パンや野菜などに付着します。いつも空気中に漂っているので付着して増殖するのです。またよくみかんなどに付着しているのが青カビです。食べ物のカビはそのまま廃棄するので掃除がそんなに大変ではありません。他は、木材などに発生している緑カビです。木造住宅では梅雨時期になるとでてきて木材を腐らせてしまうカビですから気を付けなければいけません。古民家甦生をしているので、この緑カビはよくみかけます。

これらの中には、カビ毒といってマイコトキシンという代謝物があります。これはカビの二次代謝生産物でヒトおよび動物に有害な生理作用をもつものもあります。これらのカビ毒を日々に大量に摂取すると様々な病気を引き起こします。なので早めにカビは取り除く必要があります。だからといってカビは完全に敵ではなく有用なものもあります。例えば、みそやしょうゆなどをはじめとする様々な発酵食品もカビが生成します。むかしから高温多湿だった日本はその環境を逆手に取り、最も上手にかびを活用している国になっています。他にも抗生物質や酵素製剤など医療で私たちのいのちを救っているカビも多くあるのです。

カビは私たちの生活の一部ですが、そのカビと如何に上手に付き合っていく暮らしは長年、自然と共生してともに暮らしを営み続けてきた日本人の智慧の塊です。

カビから、本来の在り方、暮らしそのものを学び直していきたいと思います。

場数の妙

私たちはバランスや調和の中で進化、変異を続けている存在です。これは昨日、ウイルスのことでも書きましたが何度も繰り返されるプラスとマイナスを組み合わせてゼロにしていく中で何回もしくは何億回に1度にだけ調和ミスが起こり形が生み出されていくのです。

広大な宇宙の仕組みと、この身近の最小の仕組みは原理と法則に従って同じことが発生しています。つまり私たちはどんなに分かれていると思っていても宇宙という空間の中で存在しているものですから当然、宇宙の原理原則の中にあるのです。

神話には、伊弉諾と伊弉冉の話で1000人をこれから黄泉の国に連れていくといったら1500人産み続けて増やし続けるという話がありました。もともとはこの世に死というものがなかったものが、このことで発生し、生死の数が微妙にずれるということになったのです。

現代科学でも、素粒子や原子や電子のことがわかってきています。もともと天文学的な回数の調和と破壊の繰り返しの中でのゼロが、ある時突然変異して形というものが出てくるということまでは解明されてきています。

これは私の仮説でもありますが、太陽系も銀河系も、この世の宇宙は基本的には規則正しく相対的なものが毎回、お互いの性質によって消しさってゼロになります。しかし物凄い回数か時間をかけて、ほんの小さな変化が誕生します。それはどちらかの性質がほんの少しだけ強いということでしょう。先ほどの神話であれば、生成するエネルギーの方が崩壊するエネルギーよりもほんの少しだけ強いということになります。

宇宙の本質は、無から生成発展していくということです。物を産み出す原理はこの循環の中で誕生する微細な変化が偶然にも奇跡的にも現れるということでしょう。発明もまた何度も何度も繰り返す中で、エジソンが電球を産み出したように誕生するのです。

そう考えてみるとき、私はこの「場」で誕生する「場数」というものが大きな意味を持つことを感じます。場は、現代科学では場の量子論というものが解明されてきています。場には、素粒子や波動がありまるで空間の中の無に意志が宿るように場が存在するというのです。

私は場の道場を運営し実践していますが、場は繰り返す中で場数が誕生し、その中で奇跡もまた発生してくるのを何度も見てきました。これを場数の妙と名付けています。私たちはこの宇宙の真理を語るのに、この「場」の存在がこれからは何より重要であり、場数とは人類が新たな困難を乗り越えるために必要な思想であり原理になるのは自明の理です。

子どもたちのためにも、場数の価値を伝承し場数を磨いていきたいと思います。

漬物の智慧

昨日は、妙見高菜の漬物のお手入れを行いました。今年の春先に漬けたものはこの時期に次第に塩が抜けて漬け直しが必要になります。もともとこの漬物の原理は、科学で分かっている部分とわかっていない部分があるように思います。

私は石も自然石にこだわっていますが、同じ重しでも出来上がりが異なるのです。他にも木樽で、その漬物の小屋を発酵させるような場にしていますから環境が整っています。しかし今でも、毎回発見があり、この漬物の奥深さに驚くばかりです。

今回は、一樽だけ失敗してしまい腐敗してしまったものがありました。これは蓋が少し大きかったので樽のサイズにあわずに重しがかからなかったからです。しかし水が上がっていたのですが味も香りもやや腐敗に傾いていて厳しいものがありました。

この漬物は科学的には乳酸発酵によって醸成され仕上がっていきます。発酵の世界では、乳酸菌と腐敗菌の働きによって絶妙に調和されて漬物はできます。乳酸菌は塩の中でも平気で空気がなくても元氣に活動できます。しかし腐敗菌は塩や酸が苦手です。漬物の塩分がなくなり空気がたくさん入ってくると腐敗菌の方が増えていき食べ物は腐敗して人間には食べれません。

もともとこれらの乳酸菌や腐敗菌は、分解者です。自然界では循環を促し、最終的には土に帰す役割を持っている微生物です。その微生物たちの代謝から産まれた成分によって私たち人間も栄養などを吸収することができています。

私たちすべての生き物は、他者の働きによって栄養を得ていてこれが自然の共生原理でもあります。よく腐敗したものを食べると食中毒になると思い込んでいる人がいますが、腐敗菌は別に食中毒菌ではありません。香りや味わいがアンモニアを含め、腐敗に傾くのであって腐敗菌から出てくる働きを栄養にするものにウジ虫やハエ、その他の生き物が集まってきますが食中毒菌がいるとは限りません。

もともと食中毒菌は、ボツリヌス菌や、サルモネラ菌、赤痢菌、ノロウイルスなどもありますがそれぞれは付着していたら腐敗していない食べ物を食べても食中毒になります。手洗いや熱での消毒が必要な理由でもあります。その中のいくつかの微生物は、増えすぎて食中毒になるものと、少し付いているだけでも食中毒になるものがあります。

身体に異物としてその微生物を感知しますから、すぐに下痢や嘔吐でその微生物を体外に排出しようとするのです。人間の身体には、100兆匹の微生物で構成されています。種類も相当な数のものがいます。その中でも合わないものがあるから食中毒になるのです。

乳酸菌といっても、あらゆる菌が組み合わせっているものです。それを美味しいと感じるところに人体の不思議があるのです。私たちが普段食べている、チーズや納豆、キムチや漬物、甘酒やワインなどあらゆるものはこの乳酸発酵のもののおいしさです。若々しく細胞を保つのに、腐敗の方ではなく乳酸の方を多く取ろうとするのはそれだけ人間の体内の微生物がその働きの栄養素を欲しがっているからでしょう。

漬物の不思議を書くはずが、微生物の話になってしまいましたが私はこの漬物の持つ智慧は未来の子どもたちに必ずつながなくてはならないものだと確信しています。発酵の智慧、重力や引力の智慧、場づくりの智慧、炭の智慧、樽の智慧、塩梅の智慧、太陽や日陰の智慧、風通しの智慧、季節や作物の育て方の智慧、ウコンなど植物の智慧、手入れの智慧、めぐりの智慧、郷土の智慧、醸成の智慧、、まだまだたくさんありますが智慧の宝庫がこの漬物なのです。

子どもたちに暮らしフルネスを通して、大切な智慧を伝承していきたいと思います。

変異と進化

コロナウイルスが次々に変異して感染拡大は広がっています。この変異というものは、言い換えれば進化ともいえます。この仕組みは生命が生存するためには必要な力で、生き残るために変化・進化していくのは自然の仕組みです。

少しこの新型コロナウイルスの変異・進化について深めてみます。

ウイルスは細菌とは違って自力では増殖できません。なのでヒトや動物など他の生物の細胞の中に侵入し自らのコピーを作ることで増殖します。そうやってウイルスの遺伝子が大量にコピーさせていきます。

この時、細胞に入って何度もコピーを繰り返すうちに遺伝情報を受け持つRNAと呼ばれる物質の配列にごく小さなミスが起こします。いわばこのコピーミスが誕生したとき、それを「変異」と呼びます。新型コロナウイルスは平均では2週間に1か所のペースで小さな変異を起こし続けるといわれます。つまりウイルスは常に新しい環境に適応しながら進化していくのでワクチンの効かないものもこの先、さらに出てくることが予想されているのです。

インフルエンザも同様に毎年変異をして現れてきます。過去に感染していても、新たに感染するのはそれだけコピーしながら進化しているからです。何年かに一度は、まったく別のウイルスになってしまいワクチンが効かないものも出てくるのです。

ここから新型コロナウイルスのことを考えてみると、この先にどれだけ人類がこのウイルスとかかわるのが観えてきます。変異し続けながら広がっていくのだから、防ぐ方法は変異のスピードを遅らせ抑え込んで落ち着いてくるまで待つか、もしくは治療薬を開発して感染しても治療できる体制を整えるかしかありません。

変異・進化し続けるのだから一度、感染してもまた別のタイプのウイルスに感染します。その変異・進化に合わせて私たちヒトも変異・進化していくしかありません。

本当は人類が今のように変化・進化してこれたのはウイルスがコピーしてコピーミスをしてくれてきたからという側面もあります。身体の細胞を環境に合わせてブラッシュアップする役割もウイルスが担ってくれていたことがあります。環境や気候の変動でウイルスが出るのも、それは変化に合わせて進化していくためという部分もあるのです。ウイルスはヒトの進化に欠かせませんから全部敵だとして、完全に排除しようとするのはそもそもの存在に対して無理があるように思います。

もしもこのウイルス人為的につくりだしたものでも、時間が経てば自然界のものに回帰していくのが道理です。それまでの間、如何にウイルスと共存するかを私たちは考えさせられることになるように思います。

ウイルスの持つ意味を学び直しつつ、この先の人類のために経験の智慧を伝承していきたいと思います。

 

循環の理

自然界は循環を繰り返しますが、生成するものと分解するものが調和していることで整っていくものです。また同様に、温冷や水のバランスもちょうど善い具合に整っていきます。

人間にとっては都合の悪いことでも、自然界全体にとっては調和しようとしているのだから問題がありません。つまり循環するというのは、それ自体で善悪正否もなく意味があり福であるということでしょう。

例えば、生成した分の分解が追いつかなければゴミ問題に発展してきます。もしも逆に分解が早すぎて生成が追いつかなければ食料危機などにも発展します。本来、ちょうどよい生成と分解のバランスの中にいるとき、私たちは安心してその両方の徳を享受することができるともいえます。

日本では里山の仕組みでそれを実現していた地域もあります。長い時間をかけて見事に生成と分解が調和しているのです。以前、滋賀県の高島市の里山を見学したときに水の循環で魚や微生物の循環を巧みに活かして生活を潤していたのを体験したことがあります。そこでは鯉などの食べられる魚が下流の方にいて上流のお皿を洗ったりしたときに出た残飯などを食べていました。他にも鶏をはじめ、生成するものと分解するものの特性を活かして一緒に暮らしを成り立たせているのです。

今では養殖や養鶏になっていますが、これは生成するばかりで分解の方はありません。循環を止めてしまうことで発生するゴミ問題や、地球の自然の不調和や偏りを解決するためにまた膨大なお金を使って無理に解決していきますがそれも生成の限界が来た時に崩壊するのは目に見えています。

今の時代、限界点や臨界点に達している循環できない環境を毀すためあらゆる自然災害や経済的な破綻が発生する直前に来ています。

私たちは子孫のためにどうやって末永く豊かに仕合せに生きられるかを考える知能も知性もあります。欲に負けず、環境に流されず、本来のあるべき姿をみて自分の足元、脚下の実践から易えていきたいと思います。

日本文化のメリハリ

今日はお盆の最終日で、送り火をしご先祖様たちの霊を見送り室礼したものを片づける日です。

もともとこのお盆は、正月と同様に霊魂が家に来て滞在する期間としておもてなしをする日本古来からの信仰のかたちです。正月は歳神様、御盆は御先祖様ということになります。一年に、一度、家に帰ってくると信じるというのは感謝を忘れないための行事としてもとても大切だと私は思います。

こうやって目には観えない存在をまるで居るかのように接していく心の中に、私たちは現実の中にあの世を観ることができます。私たちもいつかこの現世での暮らしを終え、あの世での暮らしになりご先祖様の一員になるのです。その時に、子孫たちがどのようにこの世で暮らしているのかを見守り続けるという先祖の心構えも学んでいるようにも思います。同時に、子孫たちが先祖の御蔭様を感じているかどうかということも学びます。

当たり前のことですが、今があるのは今までの連続をつないで結んできた存在があったからです。子孫のために、自分の一番大切なものを磨いてそれを譲ってきたから今の私たちがあります。

昨年からコロナウイルスのことがあり色々と深めていたら、今の私たちがあらゆる感染症の免疫があるのはそれは御先祖様たちがいのちを懸けてその免疫を身体に取り込み、対処法を遺伝子として学び、その子孫たちの私たちがその御蔭で感染しても死なずに済んでいるということを知りました。目には観えませんが、私たちはずっと先人たちに守られ続けている存在なのです。有難く、感謝を思い出すことは自分の存在が多くのいのちの連鎖であることを再認識していのちを輝かせていくのにもとても大切なことなのです。

話を迎え火と送り火に戻しますが、この迎え火はお盆の期間にご先祖さまが自宅に帰ってくる時に道に迷わないようにとおもてなしし、送り火はご先祖さまが道に迷わずにあの世に無事戻れるようにと送り出すためのものです。

正月も同じですが、その期間を過ぎていつまでも家にいると悪霊になったり禍が起きると信じられました。あくまであの世の暮らしがありますから、こちらにいる期間だけということでしょう。名残惜しくてもお互いにこの世やあの世での役割や使命があり、それも日本文化のメリハリということでしょう。

私たち日本人を形成しているものはこの風習や文化の中で色濃くでてきます。現在は西洋文明が入ってきて、目には観えないものをあまり重要視しなくなりましたが本来私たちを形成してきたものに接すると懐かしい何かを思い出し、悠久の記憶にアクセスでき私たちの原点やいのちが甦ってくるのです。

懐かしい暮らしの実践は、私たちの未来へ向けた希望の実践でもあります。子どもたちのためにも根気強く、辛抱強く、どんな時代であっても変わってはならないもの、変えていくものを見据えて暮らしフルネスに取り組んでいきたいと思います。

いのちを守る実践

土地本来の樹木で森を再生する植林活動に長年取り組んだ植物生態学者で横浜国立大名誉教授の宮脇昭さんが先月、お亡くなりになりました。森林再生で「宮脇方式」(ミヤワキメソッド)を発明して4000万本の木を植え世界に貢献しました。

宮脇さんは、現在の多くの土地や森は過度な土地の開拓や、商用林の過剰などの現代人たちがやってきたことで土地本来の多様性や強さを失ってしまったといいます。その土地に適した植物を使って自立する森をつくることで自然本来の姿に戻そうというのが宮脇さんの提案することでした。

シンプルに言えば、本来の森に帰す、森の育ちを邪魔しない方式、自然農も同様に自然を尊重する甦生の仕組みということになります。

具体的なメソッドの特徴は、「本物の自然に帰す」「混色して密集させる」「毒以外は資源にする」「スコップ一つで誰でもできる」など、生態系を活かす知恵が仕組みの中にふんだんに取り入れられています。この方式で、300年の森を30年で実現させ、都市部にも生態系との共生を実現させています。つまり世界のあちこちで日本の伝統の鎮守の森をつくり守り育てる活動が広がっているのです。

地球温暖化で、一昨日から故郷では記録的豪雨で水害が起き、世界では熱波や山火事、そして砂漠化や砂嵐、バッタなどの大量発生、ウイルスなど気候変動はもう待ったなしで人間に襲い掛かってきます。この原因をつくったのは人間ですから自業自得ともいえますが、だからといってこのまま指をくわえて何もしないというわけにはいかないのです。子どもたちがいるからです。

未来のために何ができるか、そこでよく考えてみるとやはり唯一の方法は「自然を敵視せず、自然を尊敬し、自然と共生する」しかないと私は思います。そのために、どうやったら自然と共生できるかをこの日本から世界に発信していく必要があるのです。

私の提案する暮らしフルネス™の中には、この生態系と共生する智慧も暮らしの実践の中に入っています。発酵の智慧も、自然農の智慧も、生き方の智慧も、この森林甦生の智慧もまた暮らしの一つです。

日本人は、本来、スギやヒノキや松は暮らしの中で活用することが前提で植樹を続けていました。その暮らしをやめてしまっているから潜在自然植生も失われて森が荒れてやせ細っていったのです。近代の文明を全部をやめて、商業的利用をすべて停止してなどといっているわけではありません。

本来の豊かな暮らしは、半分は自然との調和、半分は人間社会での発展というバランスの中に心と物の両面の真の豊かさと和、仕合せがあります。極端な世の中になっているからこそ極端な対策が出るのであって、最初から調和していればそれは日々の暮らしの小さな順応で十分対応できたのです。

最後に宮脇さんの遺した「いのちの森づくり」の言葉を紹介します。

「日本には、世界には無い『鎮守の森』がある。木を植えよ!土地本来の本物の木を植えよ!土地本来の本物の森づくりの重要性を理解してください。土地本来の森では高木、亜高木、低木、下草、土の中のカビやバクテリアなどいろいろな植物、微生物がいがみ合いながらも少し我慢し、ともに生きています。競争、我慢、共生、これが生物社会の原則です。いのちの森づくりには、最低限生物的な時間が必要です。潜在自然植生の主木は深根性、直根性で、大きく育った成木を植えても育ちにくいものです。大きくなる特性を持った、土地本来の主木群の幼苗を混植・密植します。生態学的な調査と知見に基づいた地域の潜在植生による森づくり、いのちと心と遺伝子を守る本物の森づくりを今すぐ始めてください。潜在植生に基づいて再生、創造した土地本来の森は、ローカルにはその土地の防災・環境保全林として機能し、地球規模にはCO2を吸収・固定して地球温暖化の抑制に寄与します。生態学的には画一化を強要させている都市や産業立地の生物多様性を再生、保全、維持します。さらに人間だけではなく人間の共生者としての動物、植物、微生物も含めた生物社会と生態系、その環境を守ります。本物の森はどんぐりの森。互いに競争しながらも少し我慢し、ともに生きて行く、というエコロジカルな共生を目指しましょう!あくまで人間は森の寄生虫の立場であることを忘れてはいけません!森が無くなれば人類も滅びるのですから。」

私が感銘を受けたのは、本物は耐える、そして本物とは何か、それは「いのち」であるということです。一番大切なものは「いのち」、だからいのちの森をつくれと仰っているように感じます。

いのちの森は、鎮守の森です。鎮守の森は、古来よりその場の神奈備が宿る場所、それを守り続けるのはかんながらの道でもあります。子どもたちの未来のために、私も子どもたちのために未来のために、いのちを守る実践を公私ともに取り組んでいきたいと思います。

 

年中行事の意味

お盆に入り、ゆったりと休みを過ごしています。もともと以前にも書きましたが、お盆の行事は西暦606年からはじまります。江戸時代までは一部の武家、貴族、僧侶、宮廷だけで執り行うものでした。それが蝋燭や提灯など、必要な道具が安価でできるようになり一般庶民にも広がっていったといいます。

江戸時代までの日本は、休日といえば正月とお盆くらいしかなかったといいます。基本的には、日々の暮らしの中で仕事をするのではなく「働く」という意識で生活共同体を組んでいましたから日々の暮らしの中では休みと仕事の境界線はありません。今では出勤しているときとそうでないときで分けていますが、家で働く丁稚奉公などの場合も含め一緒に住んでいますからほとんど家事手伝いのように協働しながら暮らすのです。

お盆休みという風習は、「藪入り」といって江戸時代の商家に広まったのがはじまりといいます。最初はお嫁に行った女性が実家に帰る日のことで関西では親見参、六入りとも呼ばれていたそうです。まとまったお休みが取れ実家に帰ることができるのが、正月とお盆だけというのは今の人たちにはびっくりするかもしれません。今のような便利な時代には、いつでも家を空けられ仕事も交代できますが少し前まではそんなことができないほど社会で構成されていたのです。今では、日曜日が休みになっているのは当たり前ですがこれも第二次世界大戦以降のものです。テレワークなどというのは、この150年の間での働き方でいかに大きな変化であるのかがわかります。

話を藪入りに戻せば、江戸時代は将来、仕事として職人や商人などになるために、13~14歳くらいから師匠や商家を選んで丁稚奉公をする時期でした。基本的には、弟子入りするのだから奉公人たちには、ほとんど休みはありません。しかし今のように学校にいかなくても働きながら現場で身に着けて、時にはその稼業を継いだり、暖簾分けをしたりとして後継者を育成していた暮らしの智慧だったのでしょう。

正月とお盆に、丁稚奉公や嫁に嫁いだ娘が実家に帰ってきてゆっくりと休んだり、親孝行をするという文化は今でも色褪せなく残っているように思います。今はコロナで帰省をするなと政府は言いますが、なぜ帰省しようとするのかをよく共感して話す必要があると私は感じます。

離れていて、なかなか会えないからこそこの貴重なお盆と正月にみんなに会いたいと願うのは日本の生活文化であり、日本人の家族を大切に思う真心と生き方です。

休みをどう使うのか、それはその人の自由です。しかしその休みには本当はどんな意味があったのかはちゃんと伝承していく必要を感じます。日本にはとても素晴らしい年中行事がたくさん残り今でも継承しています。西洋文明が入り、旧暦が新暦になり、カレンダーやスケジュール、また商売的な行事が増えて本来の日本の伝統行事は薄まってきています。

しかし意味があったものをただ意味もなく続けることは、かえって本来の行事を喪失させていくことになります。これは理念というものも同様に本来、意味があっている理念を思い出しもしないでただやっていると理念が形骸化し本当の意味も喪失していきます。伝統行事もまさに同じく、私たちはちゃんと意味を思い返しながら実践していくことが遺したいもの譲りたいものを次世代へとつないでいく責任であり、智慧は私たちの代で終わらせるものでもないのです。

自然の篩にかけられて消えるのならいいのですが、不自然な篩にかけられて失うのは本意ではありません。子どもたちにいつまでも大切な願いや祈りが伝わっていくように、私たちは意味を甦生させ紡いでいく役割があります。

お盆休みの意味を味わいながら、あと数日ほど大切に過ごしていきたいと思います。

線香と徳

盂蘭盆会で昨日から準備をし火をたいてご先祖様へのおもてなしをしています。この時機は特に線香との縁が深くなるので、引き続き線香についてもう少し書いてみます。

昨日のブログでは、お香の伝来に関することで日本書紀にある聖徳太子のことなどを書きましたが今のような棒状の線香になるのは16世紀半ばに中国から伝来し17世紀半ばころから国産されるようになったといわれています。

具体的には日本では『御湯殿上日記』や『実隆公記』、『言継卿記』などの文献に室町時代には伝来していたといわれています。その当時は公家の贈答用品でした。国産で線香がつくられたのは諸説ありはっきりとしていないといいます。一つには、長崎で五島一官という人物が1667年頃に造り始めたという説。もう一つには堺で線香の形状が発明され一般に用いられるようになったという説があります。

もともとこの線香は、正式には「綫香」と書きます。この「綫」という文字は「細長い糸」という意味です。細く長くすることで燃焼時間を伸ばし香りの発生を一定にし燃焼が安定していることから扱い易いことから今でも重宝されています。

江戸時代では、この線香は時計の代わりにも使われたといいます。禅寺では座禅を行う時間の単位として、約40分の燃焼で「一炷(いっちゅう)」としました。

また線香の種類には、主に「匂い線香」と「杉線香」というものがあります。匂い線香は椨(タブ)の木の樹皮を粉末にしたものに白檀や伽羅といった香木の粉末や他の香料、炭の粉末、その他の材料を加えて練り、線状に成型・乾燥させたものでできています。そして杉線香は3ヶ月ほど乾燥させた杉の葉を粉砕機や水車を用いて粉末にしたものに湯と糊を加えて練り、線状に成型・乾燥させたものでできています。現代では、煙が出ない線香がでたり、ハーブやラベンダーなどの香りの線香もできています。

時代の変化でお香も辿ってきた歴史があり、香道といってその奥深さを味わう実践も弘がっています。本来は、仏教で誕生したもので盂蘭盆会では供養として線香は欠かせません。仏教の経典、俱舎論には人があの世にいくと生前に徳を重ねた人は良い香りを食べることができると記されています。先祖や故人に振る舞うおもてなしとして、線香を焚くことはその徳を偲ぶことにもなると思います。

最後に、では線香は何本をあげてどのように焚くのかという疑問があると思います。私もよくお寺などで色々な立て方をみては、どれが本当だろうかと思うことがあります。調べてみると、宗派で様々で1本~3本くらい、横に寝かせているものもあります。

ある宗派では、一本は一心不乱、二本は戒香・定香、三本は三毒を焼くという意味であるといいます。どちらにしても、本数の問題ではなく大切なのはその真心で線香をお供えするということに仕合せを感じます。

子どもたちがいつまでも安心してこの先も生きていけるよう、先祖や故人の見守りに感謝しその徳を偲んでいくことを伝承していきたいと思います。

 

香福

盂蘭盆会の準備で、今年も室礼をしご先祖様を迎える準備をしています。その中でお香のことを深める機会がありました。少し整理してみたいと思います。

もともと日本最古のお香の記録は推古3年(595年)現在の淡路島に流れ着いた大きな流木を薪にして火にくべたら何ともいえない高貴な香りがしたことが発端だったと日本書紀に記されています。この時、驚いた島民がこの立木を献上したところ聖徳大使がこのお香を嗅いですぐに「香木である」と答えたといいます。

びっくりした島民がすぐさまこの流木を献上したところ、この香りを嗅いだ聖徳太子が「沈である」とお答えになったそう。【沈】とは香木・沈香のことで、この頃にはすでに香木の存在が知られていたということが伺えるエピソードです。このころはすでに仏教が伝来していますから中国から入ってきた漢薬(香原料)が使われていたといいます。これが現在の焼香になっていきます。

淡路島は、現在でも線香の生産量日本一を誇ります。まさか日本のお香の歴史が淡路島からはじまったということは私も知りませんでした。

その後は奈良時代に入り、鑑真和上が授戒、建築、薬草などを日本に伝えました。その中に唐から持ち込んだ薬草や香原料を調合してより効能の高い薬もつくられました。この調合の仕組みでいくつものお香が発明されました。この時代のお香の効能は、魔除け・厄除け、防虫などで用いられます。そして東大寺の正倉院には、日本最古の香袋(匂い袋)が収蔵されています。

ここから聞香や組香などの香道が開いていきますが、このお香は奥が深く今回の記事では書ききれそうもありません。

私は、日ごろから白檀のお香を好んで使っています。この白檀は仏教との関わりが深い植物で数珠や仏像、位牌(いはい)などの仏具にも使用されます。お釈迦様を荼毘したときにもこの白檀が使われたといいます。

この白檀は、木の幹の部分が白っぽいことから「白檀」と呼ばれるようになったといいます。科学的にはサンタロールという成分の香りですがこの成分は化学合成できないため大変貴重なもののままです。

仏教では、お香を供えることを供養としています。このお供えするというのは、仏様やご先祖様へのおもてなしでもあります。心を沈めて線香をたき、手を合わせて故人へ御供養、おもてなしをする。

まさに室礼の原点であり、一年の中でこのお盆の時期がもっとも私にとっても心安らぐ暮らしの仕合せの時間になっています。子どもたちにもこの線香の歴史と意味を香福と共に伝承していきたいと思います。