信仰の原点

現在、英彦山の裏街道にあたる筒野権現の甦生に取り組んでいます。私の幼い頃に探検をしに来てからのご縁でその後はちょくちょくと何かがあれば来て参拝していましたがまさかここで深いかかわりになるとは思ってもいませんでした。

もともとこの筒野権現は、五智如来碑といって寿永2年(1182)勘進僧・円朝が建立した板碑があります。ここにある三基の板碑はそれぞれに梵字が刻まれ、一番大きな碑には5体の仏像が彫られています。平安時代のころには、全国に知れ渡るほどの英彦山に次ぐ一大修験場になり多くの山伏たちがここで修行をしていたといわれます。

この板碑の五智如来は、胎蔵界大日如来を中尊とし、無量寿、天鼓雷音、宝幢、開敷華王の五仏が列坐しています。そして五智如来の上方、円形の穴は金属製の鏡がはめ込まれていたといわれています。

今度、英彦山の守静坊の甦生をしますがそこでも祭壇には必ず上部に鏡を設置すると坊主の長野覚さんにお聞きしました。むかしからの信仰のかたちが、900年以上経ってもこうやって守られていることに信仰の神髄を感じます。

そもそもこの五智如来とは何かといえば、悟りの境地を示したものです。

具体的には、「宝幢如来」は東方(胎蔵界曼荼羅画面では上方 金剛界では西方が上方)に位置し「発心」(悟りを開こうとする心を起こすこと)を顕すといいます。「開敷華王如来」は南方(画面では右方)に位置し「修行」(悟りへ向かって努力を積むこと)を顕します。「無量寿如来」は西方(画面では下方)に位置し「菩提」(悟りの実感を得ること)を顕します。そして「天鼓雷音如来」は北方(画面では左方)に位置し「涅槃」(悟りが完成すること)を顕します。中央の大日如来は「虚空」(永遠の真理)を顕します。まさに宇宙の真理、万物の慈母ともいわれあらゆるものの原点を顕します。

これは私の解釈ですが、インドにはこれらの徳のあった人物が存在していてその人徳は5つの徳で顕すことができたということです。具体的な人物像として、この如来と呼ばれる人物たちがどのような境地を会得したかということを示すように思います。

大日如来はその四徳を兼ね備えたものであり、この五徳を会得してこそ真に魂が磨け、永遠という虚空の境地に入ることができるとしたのです。修行者は、その人徳を慕い、自らの心魂を錬磨し様々な行を実践して研ぎ澄ませていったのでしょう。その信仰の中心として行場があり、多くの導師や弟子たちがともに学び合ったように思います。

そしてその五徳の境地に入るためには、その心境の反対側の深い智慧を維持している必要があります。つまりは、空の境地に海の境地の和合のように相反するものを合一し一体化する智慧が守られている状態ということです。

徳の顕現した先ほどの五智如来には、同様に五大明王といって不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王があります。不動明王こそ、大日如来の化身といわれます。

不思議なことのように思いますが、その人物に徳が顕現するいうのはその根底には畏れや信心があるということです。これは地球の内部にマグマの躍動があって、私たちはこの地上の楽園を謳歌しています。そして大海原の潮流があってこそ、空の静けさと風があります。

このように私たちは森羅万象を通してこの世に徳を顕現する姿として人体もまた存在しているのです。徳を磨き、徳を顕現させていくことは、人類数千年の悲願でもあり、理想郷の一つです。

子どもたちのためにも、かつての信仰の原点を甦生させ未来へと結んでいきたいと思います。