保育の豊かさ

人が一生のなかで巡りあう出会いやご縁というものは自分が蒔いているものです。この自分というものは、意識、無意識に関わらず自分が由あって結ばれているものです。

私たちは不思議ですが、そのように結ばれている「場」を創造しながら今を歩んでいく存在ということです。この今というものは、この今の選択にすべて帰命しています。

今何を感じているか、今何を選択したか、この小さくて偉大な今の全てが種になってそれを自分が蒔いているのです。自分自身が何を思ったか。その思ったことでさえ、それが種になりそれを蒔いています。

その種から芽が出てやがて実をつけます。その元の種が初心が澄んでいるものならばどんな環境下においても蓮の花のように美しく清らかです。人はみんな目的や初心を大切にして今を生き切れば、それなりの種になっていきます。

そしてその種もまた、今まで他の人たちが蒔いた種。もっと突き詰めれば、先人たちが蒔いた種が自分に宿っているともいえます。自分自身の中には、その初心というものをもった自分。そして時間を経て様々な体験を通して適応してきた自分があります。その自分が今此処で見事に調和して種になっているともいえます。

私は毎年、固定種の伝統高菜の種を蒔いて育てていますが毎年その生育は紆余曲折あります。一喜一憂は常に絶えず、悲喜こもごもに様々な体験をその季節ごとに味わっています。

そんな中でもまた種になり季節を巡り続けます。苦しい時には苦しみを乗り越えた花が咲き涙し、うれしい時には喜びを味わった花が咲きます。畢竟、私たちの本体は「種」であるのは間違いありません。

この種を一生をかけてどう育てていくか。そこに人間の一生の醍醐味があるように私は思います。

子どもたちはその種が繋がり結ばれた存在です。前の世代、そのずっと前の世代から連綿と種を蒔き続けて今があります。どんな種もまた見事な一生を送ります。その一生を見守る存在が環境ということになります。

どのような環境を見守っていくか。自分が見守られてきたように見守っていくことが種を育てていくことです。子どもたちのためにも、みんなでその保育の豊かさを味わっていきたいと思います。