山が故郷

私たち日本人の先祖たちは山というものを魂の故郷のように感じていたといいます。そして死者になった人たちを先祖と呼び、記憶の存在ではなくいつも身近に存在しているという信仰を持っているといわれます。

これは小泉八雲も同様のことを言っていますが、世界では死者と生者ははっきりと区別され別々の世界にいるともと思われます。しかし、日本ではご先祖様やお天道様というようにいつも身近で見守ってくれている存在と感謝をしているように思います。

例えば、仏壇や神棚にも死者に食べてもらおうと供養や奉納をします。他にも何度も通っては報告をしたり、相談をしたり、節目には挨拶に伺います。まるでそこに行けば、会えると信じ切っているかのように死しても存在しているものとして接していくのです。

これを死者崇拝という言い方をした人もいますが、今も生きていると信じて追善供養のように接しているのです。つまり一般的な生きる死ぬという物質的な存在の変化とは別に生死を度外視して常に変化せずに永遠に存在しているものとして接しているのです。

つまり、魂のように生きていても魂があり死んでいても魂はあるという考え方があるということです。そしてその魂は、山から降りてきて一生を生き、そして死して山にまた還る。そしてその山からまた降りてくると永遠の循環を続けている存在として直観しているのです。

山に墓があるのも、かつては山で埴輪を焼いたのもまた魂の在り家があると信じられたからです。そして死後の世界でも仕合せになってもらおうと、この世に生きている存在が死者の御蔭様に祈り続けていくのです。それは同時に、死者もこちらのことを祈り続けてくださっていると信じているからです。

この普遍的に祈りあう存在のことを日本人はカミと呼びました。そしてその八百万のカミたちがいつも身近な土地にいて氏神様としてその場から離れずに見守ってくださっていると信じているのです。

だからこそ、その土地土地には氏神様がお祀りされていてご挨拶や御礼、お祈りをしにいくのです。これはまるで実家に帰るような感覚や親戚や友人、祖父母に会いにいくような感覚なのでしょう。

最近では、西洋的な宗教観が入ってきて氏神様の土地や場所も一つの宗教施設のようになってしまいました。しかし山が故郷という考え方は何千年もの長い間、日本人の心や生き方を支えた豊かで幸福な生き方であったのは間違いありません。

現在、英彦山の甦生に関わっていますが何を甦生する必要があるのかということを真摯に考え直すことばかりです。子どもたちが安心していつまでも心の平安を保ち仕合せであり続けられるように使命を果たしていきたいと思います。